07


雨が止んだ。
街をぼんやりと包んでいた霧雨も、安っぽいビニール傘を震えさせるほどの大粒の雨も、銀色に鈍く、重たく光っていた雲も消え、じわりじわりと首筋を焦がしていくような容赦のない日差しが照り付ける夏がきた。雨の頃は少しでも太陽が出るとそれだけで得したような気分になったというのに、今ではもくもくとどこまでも膨張する真っ白な入道雲を睨みながら一雨くることを祈った。


里にいた頃よりもずっと暴力的な太陽の熱に喘いだ。


こんな暑さの中で生きていけるのだろうか、と心配したのも一瞬のことで、コンビニや電車の中は寒いほどにクーラーが掛かり、季節をやり過ごしている。不自然な寒さの中、自分がいったいいつの頃に生きているのか足元から分からなくなっていくような気がした。季節を逆行して生きている人々の街。それでも工事現場だけは、容赦のない熱が肌を焼き、現場の規定で被らされた揃いの黄色いヘルメットの中で頭が悲鳴を上げるように汗で濡れていき、頭の奥がぼうっとした。いくらか任務で慣れていたとはいえ、土のように熱を受け入れる柔らかさのないアスファルトは熱を含み、膨張させ、足元からもやもやとした不快な熱を発していた。そんなアスファルトを剥がして、削って、えぐられた地面に重機で穴を開ければパイプが張り巡らされていると知った。


この街は見えるものが全てではなく、足元にまで目に見えないものがびっしりと張り巡らされていて、自然界の秘密や決まり事、約束事なんて存在していないらしかった。




「ヤマト、お前大型の免許取れよ」


差し出されたペットボトルのお茶を受け取りながら、なんですか、急に、と曖昧に笑った僕に現場監督を任されている五十過ぎ位の男がまっ黒な顔で、年の割にしわくちゃな顔を歪ませた。一緒に働いて、もう何度も名前を呼んだ筈なのにとりたてて必要ではない情報となって消えてしまい、名前が思い出せなかった。思い出そうと思えば、暗部で培った記憶力がいともたやすく男の名前を思い出させてくれただろうけれど、そうしようとは思わず、ただその場にしゃがみ込んで新聞社の名前が印字された目の荒いタオルで汗を拭った。自分の汗から雄の匂いがするのを懐かしく思った。まるで訓練中の新兵だ。



「お前はさ、勘が良いよ
「勘?」
「前の仕事が何かはしらねぇけどさ、お前はどっか、俺ら使う側の人間だ。人を使う事に慣れてる」


思わず何かを言いかけて止め、そして曖昧にそうですか、といかにも神妙な顔をして頷いた。
人を使う。それが仕事だった。僕の命令ひとつで命を賭けさせた。でもそんな記憶がどこか遠い記憶、あの頃の記憶がまるで大昔に見た映画のワンシーンのように遠く、関係のないことのように見えた。そんなことが透けて見えるほど、僕はここで傲慢な態度をとっていたのだろうか。そんなことをしていたつもりはないんだけれど…、と少し眉を下げれば男はどこか慰めるように僕の肩をたたいた。


「いつまでもここにいる気、ねぇんだろ」


身の振り方を考えとけ、という男の言葉にまた神妙に頷いた。
それでもここにいるしかなかった。







雑居ビルや学生マンションや安い居酒屋が立ち並ぶ町外れの、アパート。
男の一人暮らし、備え付けのコンロはしかなくて、それでも最初はまぁ十分だろうと思ったが、手狭な炊事場はますます自炊から僕を遠ざけ、テーブルの上にはカップ麺や弁当屋のプラスチックが散乱していた。ざりざりと足の裏に擦れる畳は、引っ越してきたときに水拭きしたら緑色の着色料がきれいさっぱり落ちたことには流石に笑った。恐らく前の住人が生活していたときのままの畳に、その上から適当に色塗っただけの粗末なもんだ。まるで学生が住むような安っぽいアパート。もう盛りを過ぎた男が住むにはあまりに寂しい部屋。まるで暗部の頃の待機室のようだと思った。


アパートからは川が見えた。
夜になれば真っ黒な水が家々の明かりに白々しく照らされながら、ゆったりと流れていく。
部屋の窓枠に腰掛けて、なんとなく川を眺めながらタバコでも吸っていると水と土の匂いがアパートの三階まで匂っていた。そう好きで吸う訳ではなかったけれど、現場で働いている男たちと会話をするには一本の煙草が必要だった。僅かな日陰に潜り込み、ニコチンを吸ってどす黒くよどんだ水の漂うボロボロに一斗缶に向かってまだ火の残るタバコを落としながらする話は、上品でも知的でもなく、何度か風俗への誘いを受けたが潔癖なところがあることを自覚する自分はそれをゆるく断り、するとまた男たちの輪の中から浮いていく自分を自覚したがそれはどうでも良いことだった。ただ、コンクリートで固められた都会の川は子供が遊ぶにはあまりに惨めで、生活排水をじゃぶじゃぶ流すには綺麗すぎた。


絶えることなく流れていく真っ黒な水を眺めていると、こんなはずじゃなかったんだけどなぁ、と惨めというにはあまりにさっぱりとした、なんでもないような気分になった。黒い水が流していくのは、なんでもない、取るに足らない人生を歩んだ僕のようだった。


身の振り方を考える。


そんな選択肢を与えられたことなんてなかった。
こんな場所でやりたい事なんて、やるべき事なんて、何一つありはしなかった。
それでも、やらなくてはならなかった。











自立支援センターでいつも飽きもせずに僕との他愛もない会話に付き合ってくれている職員に、「なにか資格を取りたい」と話した時の彼女の喜び様はまるで子供に対する母親の情や狂喜にも似た騒ぎで、穏やかさを演出するように飾られた美しい入り江が描かれた油絵や、誰が抱くのか分からないクマやウサギのぬいぐるみが置かれた棚、いかにも清潔そうな白い机や花瓶に飾られた野草たちまでもがどこか急に僕に信愛を抱いたようにさえ感じた。

僕は、車の免許すらない事を告げると、彼女は言葉を濁したが、無戸籍状態の僕が資格を取ることは困難なようだった。
その代わりに、現場で役立つ知識を得ることを勧めた。土木関係の資格はある程度の学歴、もしくは実務経験を必要とされる事が多く、まずはヤマトさんに合うものから探しましょう、と目をきらきらとさせて微笑んだ彼女は、きっと天国という場所に一番近い女性なんだろうな、と思った。


人の幸福を喜ぶ人。
ふと暗い映画館の匂いがした。鼻を真っ赤にして、映画をじっと見つめながら泣いていた人。
人間を信じて止まない人。憎むとか、制裁するとか、そういう言葉の持つ力と意味を知らずに育ってきたような人。
殺す、ということは容易い事だ。言葉を話さない虫や魚を殺すことに抵抗はない。それでも犬とか、馬とか、鳥とか、声を上げるものを殺すことは難儀だ。情が湧いてしまう。ましてやそれが人間だともういけない。新兵が人を殺して病むのは、殺した相手と会話をしてしまったからだ。会話をした途端、敵という生き物から人間という存在になってしまう。殺した人間の発した声が耳にこびり付いてしまう。その人間が生きてきた訳を、背景を、そして肉親を考えてしまう。ふとした瞬間、あの男もこうやって風呂に入れば思わず声を洩らしたんだろうか、祈るような気持ちで女の乳房に手を置く事があったのだろうか、うまいものを食えば腹以上の何かが満たされたんだろうか、というどうしようもない空想が生々しく強烈な光を帯びて皮膚に突き刺さる。会話をしてはいけない。


魚を殺すように人も殺さなくてはいけない。そうでなければ、持て余すから。




彼女はその典型だった。
ただ純粋に僕を憎めば良いのに、会話をしてしまったから、一緒に熱いラーメンを食べてしまったから、彼女は僕を殺すことができずにいる。この世界の人間は、皆、情を持ちすぎている。他人に期待しすぎている。
その情に生かされている。だから、生きなくてはいけない。





微笑んだ彼女に、お願いします、とつられてつい笑っていた。
すると彼女は少しだけ驚いた顔をしてから、なぜだか少し泣きそうな顔をして今までで一番穏やかに微笑んだ。


「もし、今の状況が打開できて、もっと広い世界へ飛び込むことができたなら、あなたならきっとすぐにどこにでも行けるようになるわ。もう迷子じゃないのよ」


なんと言ったらいいか分からず、俯き、よく磨かれたテーブルを見つめた。
出されていたカップに若い女性や子供が好みそうなディフォルメされた猫が描かれていることに初めて気がついた。目の前にあったのに、気づくことも、出会うこともできないものばかりだった。

「自立したいと思います。どうか、それまでよろしくお願いします」



彼女に会いたい。
会って、話がしたい。
今の僕では、もう、彼女と一緒に図書館へ行ったり、ラーメンを食べたり、映画を見ることはできない。そんな当たり前の若い男のようなことを、彼女にして良いわけがなかった。部屋に入った。ただ、それだけ、と言ってしまえばそれだけの事かもしれない。だけど僕は彼女を殺すつもりだった。明確な殺意を抱いた。あと少し指に力を入れれば、あの頼りない首などすぐに折ってしまえた。それだけ、ではなかった。


頭の隅ですっかり遠くなったカカシ先輩が笑う声が聞こえた。

――おまえは真面目すぎる、と。


でも、真面目でなくてはいけなかった。
まるで無謀な子供のように、必死で生きなくてはいけなかった。