08

「それでは!我が経理課島と麗しき庶務課との出会いを祝して…カンパーイ!」



フジタさんの掛け声と共にグラスやジョッキがガチャガチャぶつかる音が、証明を落とした個室居酒屋に響いて、わたしも正面に座ったまだ名前の分からない眼鏡男子とジョッキを合わせてとりあえずカンパーイと言い、眼鏡男子も如才なくカンパーイと返してくれ、隣に座るセンパイが目だけで「どうよ?」と聞いてきたのに目だけで「いやぁ…」と流しておいた。まだ始まったばかりだ。


結局、センパイはうどんすすりながら社員食堂で計画した通り、本当に合コンを企画していた。
4対4の合コン。女子のグループには1人派遣の女の子が紛れていて、わたしよりも若い彼女の、今時のアイドル風の大きな目やさらさらとした髪や潰れていないプリーツのひとつひとつになんとなく気が引けた。うちは大企業さまなんかじゃないから、男性陣もなんとなく食堂や廊下で見た事があるような人たちばかりで、そこそこの自己紹介が済むと、早速「あの名物部長知ってる?まだそっちの部署なの?」「社内イントラに載ってたけど田中さん寿退社でしょ」「あいつ同期なんだよね」「入社した時は総務だったの」「総務?じゃああいつ知ってる、ほらあの…」と出会ったばかりだというのに、転がるように内輪の話になっていく。今までどこかで顔を見ても話をする事もなく通り過ぎた人達と急に話題が弾み出した勢いと不思議さにノれずにいるうちに、すっかり話題についていけなくなっていた。


幹事のフジタさん行きつけだという創作居酒屋は、アボカド料理が中心となっていて、お決まりの間接照明のついた個室に、壁には色とりどりのペンキをつけた筆をデタラメに振り回したような色の軌跡がいくつも重なったいわゆるモダンアートが飾ってあって、アンティーク風n額縁のついたミラーがいくつも壁に掛けられ、間接照明の光を受けて輝き、透明感のある女の子が歌うボサノバが掛かっていて、全てが合コンのためにお膳立てされたような店だなと思った。


なんだか、居心地が悪い。
「女の子って、こういうお店好きデショ?」
「女の子って、アボカド好きデショ?」
「女の子なら、アンティークっぽいの好きデショ?」
「女の子は、オシャレな料理は写メ取って加工してSNSにあげるデショ?」
「彼氏、欲しいんデショ?しばらくセックス、してないんじゃない?」
と、店の雰囲気の全てが言っているようで、押し付けられているようで、それでいて心の底でどこかに出会いを求めていた自分を見透かされ、欲望を引きずり出されているようで、お膳立てされた全ての上を飛び交っていく上っ面の会話と探り合いが面倒で堪らなかった。



一応わたしの為に先輩が企画した合コンだったらしいけれど、男性陣の注目はわたしを素通りして派遣の女の子に集中している。
彼女が喋りだす言葉を男性陣は待ち、彼女が笑った話題を繰り広げて、彼女が「そっか」と話題を流すと途端に次のジャンルへと転がった。センパイが目で「ごめん」と謝ってきたのに、鼻に皺を寄せて「全くですよ」と返しておいたけれど、本当はどうでも良かった。それよりも、男の人の目から見て、こうも露骨に価値があるないを突き付けられる時、わたしは少し意地悪な気分になる。じんわりとした痛みを隠すために、(その子社外に彼氏いなかったっけ?)と意地悪に内心で呟いて、放置されて固くなったチーズを食べた。



「山田さんって、アレでしょ、あの、ほら、ね?テレビの…」


フレッドペリーのネクタイをしたなんとかサンが突然そう言った時、ぱっとみんなの視線が集まって、わたしは思わず露骨に鼻白んでしまったけれど、そんなわたしの表情を気にする人はセンパイ以外にはいなかった。センパイが「それはもういいじゃん」と言ってくれたけれど、話題はどんどん転がっていって、わたしはやけに甘いカンパリビールに口を付けた。



「いや、あれまじびっくりしたよー。朝ニュース見て出社したら、え、なに、うちの女の子だって言うじゃん?まじかよってさぁ」
「それな。総務が朝からピリピリしてたもんな。部長が青い顔しててびっくりしたよ」
「ホントですよね。うちもお母さんがアンタの住んでる地域じゃないって電話してきてね、大変だったんですよぉ」
「わかる。地元がニュースになると親ってめちゃくちゃ心配するよね」
「一人暮らし?あー、じゃあ親御さん心配するよ」
「そうなんですよ、だからあれからお父さんがパンツ送ってきて、これを干しとけ〜なんて言うんですよ。もう最低。段ボール開けたらお米とゴムの伸びた父親のパンツですよ?」


女の子の言葉に男性陣がどっと笑ったけれど、わたしには笑えなかった。とても良いご両親だと思った。
そしてどうして自分がこんなにも彼女に対してなんとなく後ろめたく思ったり、疎んだりするのかが分かってしまって、わたしはこの場から浮かないように、口元に笑顔だけ貼り付けたまま、心臓が鈍いような音を立てて鳴るのを感じた。当たり前に両親の関係が良好で、当たり前に仕送りされて、当たり前に愛されて、当たり前に甘えている事も知らずに甘えられる女の子。きっと、彼女は自分がどれだけ幸せなのかも分からないくらい、幸せな女の子なんだろうと思った。もちろん彼女にはわたしの知らない苦労もあるんだろうし、自分を不幸ぶりたい訳じゃ決してないけれど、でも、愛されている女の子だと思った。



事件の後、電話をくれた母の声は確かにわたしを心配してくれている声だったけれど、受話器の向こうで母の新しい家族の団欒が聞こえていて、その暖かな空気から隠れるように電話をくれた母に、わたし達の間に流れる時間の質がすっかり変わってしまったことを悟った。
「うん、大丈夫。何もされてない。大丈夫だから。そっちのみなさんにもよろしく」
何度もわたしを心配してくれた声にもっとすがりたかったけれど、わたしはあの電話を簡単に切った。父親違いの妹が母を呼ぶ声がしたから。
おかあさんは、もうわたしのものじゃなかった。





―――――ヤマトさん、あなたが暴いた我が家の真実なんてこんなものです。
どうしてだか堪らなく、堪らなく、あなたに会いたい。


あなたに、会いたい。





時々目の前の眼鏡男子と当たり障りない会話をして、でも結局ずっとセンパイと喋っているうちに、コースの二時間が終わり、合コンは終わっていた。
店を出たときにアルコールに火照った頬に冷たい夜風が当たって気持ちよくて、あの居心地の悪い個室から解放されたことにほっとした。どうも雑居ビルは息苦しくて好きじゃない。タバコで焦げた絨毯の引かれた狭いエレベーターや、いくらテナントを改装していても古さを隠しきれないコンクリートの雑居ビルの雰囲気が、やっぱり好きじゃないな、と思った。女の子を中心に二次会へ行こうと声が上がったけれど、わたしは駅が遠い事を理由にして、我ながらその場から逃げるように大股開きで歩き出した。


なんだか、疲れただけだったな。




「山田さーん、帰り地下鉄ですか?」
さっさと手を振って解散したつもりだったのに、呼び止められた声に振り返ると眼鏡男子が慌てたようにわたしを追ってきていた。足早いですね、なんて言いながらへらっと笑った顔に邪気がなくて、ちょっと笑った。嬉しくない、といったらウソだ。
「帰りはXX線です。えぇっと…」
「僕の名前覚えてないでしょう?」
ぎくっとして息を呑むと、眼鏡男子は気にしてないというようにへらへらと笑って、そういえばさっきの自己紹介で聞いた苗字をまた名乗ってくれた。その事が恥ずかしかった。自分がすごく高飛車で、交わるつもりなどないなんて、名前なんて覚える必要がないと、あの場をどこかで見下していたことを知った。

嫌なやつ。


「ごめんなさい、わたし、すごく失礼でしたよね」
「いや、僕もああいう雰囲気は苦手だから分かるよ」


そうか、わかるのか。分かる人には、分かってしまうのか。
この人なら、わたしをどこまで分かってくれるんだろうか。






駅に向かって歩き出した時、鼻先にぽつりと冷たいものが当たったのを感じて顔を上げると、あっ、と思う間もなく小雨が降り始めていた。周りでも雨に気づいた人たちが慌てたように店の軒先や、速足で駅の方向へと向かって歩き出した。晴雨兼用の日傘はロッカーに入れっぱなしだ。ちらっと彼を見ると丁度目が合ったところだった。


「駅までダッシュします?それとも止むまでもう一杯?」
「もう一杯」


眼鏡くんが、にこりと邪気のない笑みを浮かべたので、迷わず選んだ。
もしもメガネの底で少しでも雄が見えたのなら断ったけれど、純粋な提案だったから、少し名残惜しかった。この人も、そんな気持ちになってくれたのかな。わたしと名残惜しいと感じてくれたんだろうか。分かってくれたんだろうか。もうなんでもいいや。雨が強くなってくる。酔っていた身体が冷めていく。冷たくなっていく。どこかで休みたい。この人なら、優しそうだから。始まるのなら、始めてもいいと思う。



「じゃあ、すぐそこのおでんのおいしいお店に行こう」


凪だ。
いつまでも失ったものを思い返してじくじくとしたって仕方がない。
わたしがなにもしていないのに、わたしの事を見抜いて、わたしの事を考えてくれる人なんていない。そんなものは、おとぎ話の世界だけ。そしてわたしはおとぎ話を信じる子供よりもずっと年を取ってしまった。もし彼に、この先を誘われたなら、NOと言う理由だってなかった。



新しいものが欲しい。
わたしのことを考えてくれる新しいものが!




けれど表通りから飲み屋街へと入った時、わたしは走れなくなってしまった。
濡れ鼠のサラリーマンたちが行きかう飲み屋街で、ちょうど一軒の店から作業着の男の人たちが出てきた。おじさん達の中に、一人、背が高くて背筋の伸びた男の人を見つけてしまい、動けなくなった。嘘だと思った。でも、嘘じゃなかった。



「ヤマトさん」

口にした途端、わたしは泣いていた。馬鹿みたいだけれど、泣いていた。
ヤマトさんの驚いた顔から目を離すことができなかった。



わたし、この人のことが好きだ。