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ぐっとグリップを握り締め、トリガーのロックを解除する。
肌に吸い付くようによく馴染むグリップを何度か握りなおして、手に馴染ませる。
目で合図してやれば、ブレダも同じように銃のセーフティを解除して頷く。逸る呼吸を飲み込み、男の消えていった小汚いアパートを睨む。アパートは治安の悪い下町にある、古く、見るからにオンボロで、地震が来ればひとたまりもないようなアパートだった。裏口では女のいる飲み屋があり、夜の近くなった通りでは男の罵倒や、女の呼び込む甘ったるい声がここまで聞こえ、足元には油か掃き捨てられたガムかが黒くこびりつき、溜まったゴミが誰に掃除されるわけでもなく風化する時を待っている。

厄介だ。

せめてコンクリート製であれば足音を掻き消すことができたろうに、これじゃまるで自分の存在をアピールしているようなもんだ、と一歩踏み込んだ足元がギシギシと余計な音を鳴らすのに舌打ちする。しかし準備は万全だ。
通りの向こうからカチカチと点滅するライトの明かりが見える。デスクワーク以外は、迅速な大佐さまのお陰で既にこのアパートには包囲網が敷かれていることを知る。ブレダが指でサインを作って合図するのを気に、突入を決める。その僅かな間にスニーキングではなく突入として飛び込むことを決定し、背後に控えている小隊に指で合図をする。

「いくぞ」

俺達は、一歩身を乗り出した。



おおーっ、と歓声が上がり、わたしもアルフォンスも大喜びで拍手する。
目の前のステージでは、サルの運転する自転車に5人も女の人が乗り合わせている。
しかもみんながみんな、相手の手のひらや頭の上に立ちバランスを取り、逆立ちをしたり、地上でもありえないようなポーズを、ありえないでバランス力で、ありえない場所でとる。さながら中国雑技団だ。

「すごいすごい!」
「うわぁ、骨ちゃんとあるの!?体柔らかっ!」
はしゃぐわたし達の隣では、エドワードがさっき買ったジュースをじゅーっと飲みながら、それでも、すげー、と感心したような声を出している。やがて女の人たちとサルは自転車に乗ったまま、ステージ裏へと引っ込んでいき、そして、パッと音を立ててテント内の全てのスポットライトが消えて、辺り一面は暗闇へと変わる。

一瞬の静寂のあと、それまで上げられていたものとはまるで違う歓声がわーっと上がる。
その歓声はいっそ狂気的ですらあるような、異常なものだった。エドワードとアルフォンスとわたしは驚いて辺りを見回すけれど、何人もの人が立ち上がり、大声を上げているのが暗闇でも見えた。

「アーサー!!!俺達はアンタを見に来たんだ!!!」
「アーサー!!悪魔との契約者アーサー!!」
「アーサー結婚してぇ!!」

男の人たちの興奮した声から、女の人の黄色い歓声まで、様々な声が上がり、このアーサーという人がこのサーカスのメインなんだと分かる。でもちょっと異常なくらいの歓声だ。

「なんだろ、すごい人気だね」
「この人たちはリピーターなのかな」
「すっげー、声」
わたし達はあまりの音量に耳を押さえて顔を見合わせながらきょとんとするけれど、観客席の歓声は鳴り止まない。それどころか、ステージが無声でありつづけるかぎり、より興奮は高まり、待ちきれない何かを待つような、爆発してしまうんじゃないかと不安になるような声が届く。けれど次の瞬間、パッとステージの真ん中に明かりが灯った。



その天井からのスポットライトは、一本の白く輝く道のように白い光を作り、ステージの上の白いバラを輝かせる。
そしてそれを合図にするかのように、観客席はさーーっと静かに、波が引いていくように音がなくなり、みんなが息を潜めて、さっきまでの興奮がウソのように、その輝くバラをただ静かに、とてつもない緊張を孕んだ静寂の中見守った。


────ふいに、バラが歌い始めた。


何か遠隔スピーカーがあるかとおもったけれど、そんなものじゃなかった。本当に、バラが、歌うのだ。
囁くように、しかしこの大きなテント中に広がるようなこの世のものじゃないように美しく甘い声でバラが歌い始め、わたし達は息を呑む。エドワードも目を見開き、息を呑んでバラを見守る。テントの中はまるで水を打ったように静まり返り、その沈黙の中を、まるでバラだけが特別な、神秘的な生命であるかのように、歌を歌う。歌詞はなかった。ただ官能的ですらあるような甘いメロディーが、しっとりと寄り添うように耳へと滑り込み、わたしは鳥肌を立てる。

瞬間、バラはぼっと激しい炎を上げて燃え落ちた。


わたし達は誰もが何も言うことはできずに、ただ息を呑んだ。
そして炎はぐんぐんと高い火柱へと代わり、特別席にいるわたし達の頬にまでビリビリと熱い熱気が伝わるようで、ただ目を見開いて炎を食い入るように見つめる。炎はテント中の隅々にまで行き渡るような明るさだったが、やがてそれもさっと消え、するとそこにいたのは、すらっと背が高く、白い仮面をつけた黒髪の男の人だった。


また割れるような歓声が響いた。






「アパートで取り押さえた男は4人。尾行していたダン・マクニール、35歳。元軍人の医療部隊出身。それから、コリン・ウイリアムズ、40歳、主に結婚詐欺。ポール・ジョーンズ。28歳。元人身売買グループの司令塔。最後にビクター・ブラウン。34歳。元軍人の特殊部隊出身。体術に秀でている。彼らはポール・ジョーンズを司令塔として一連の犯行をしてきたと供述しています」

ざっと纏め上げられた資料に目を通し、中尉が読み上げていく。
ハボックとブレダの手柄で取り押さえることに成功した男達。ダン・マクニールは、自分は元軍人の医療部隊出身で、独学で上官の精神ケアの技術を学び、そして記憶の掻き消しをすることに成功したと供述している。調べれば確かに在籍していた記録はあった。先のイシュヴァール戦の負傷により足を悪くしたことが原因で軍を辞めている。他の者たちの経歴も叩けば埃ばかりが出てくる物騒な経歴の持ち主ばかりだ。


彼ら曰く、
コリン・ウィリアムズの話術で女性を誘い出し、ダン・マクニールの催眠術で女性を催眠状態にし、ポール・ジョーンズの指示で女性を売っていく。そしてビクターは彼らの護衛。邪魔に入ったものを消している。殺されていた憲兵3人も、その後殺した二人の憲兵も、こいつの仕業だと。シンより伝わったという体術で、見た目に傷を付けずに殺す事ができるという。現金の振込先の手口は、コリンがそれまで結婚詐欺で使っていた手口だと。4人の男はそれぞれの特技を生かして、この犯罪をやってのけていた。

そして、保護された女性は10人。アパートの部屋に監禁されていた。最も、監禁、といっても鍵をかけられていたり、足枷をつけられていたわけではない。ただ、部屋の中で大人しく座っていた。彼女たちは、既に洗脳は終えられ、軍が突入しても悲鳴ひとつ上げることもなければ、安心した様子もなく、ただ無感情に軍人を見つめただけだったという。

つまり、既に商品として完成されてしまっていたのだ。

しかし、マクニールによれば彼女達にかけた催眠はいくらでも解除できるという。
事実、ひとりの催眠状態に掛かった女性を前に解除をもとめれば、マクニールは女性の目の前でライターの炎を見せ、「おわり!」と子供のように無邪気に叫び、すると女性は途端にはっと表情に生を取り戻したという。


4人は供述に好意的で、むしろ自分達の成し得たこの“偉大”な犯罪について誇りすらもっているように振る舞い、取調べをさせているファルマン相手にまるで酒場で己の武勇伝でも聞かせるように声高らかにべらべらと事の次第の全てを話しているという。


「奴(やっこ)さん、今まで沈黙を守ってきた分、喋りたくって仕方なかったらしいっすね」
私の執務室は禁煙だ、と言ってやろうと思ったが、今日の働きに免じてハボックの喫煙を心のうちで許可した。ただし一本だけだ。そうとは知らずハボックは、たかだか一本のニコチンの為に幸せそうな顔をしている。
「そうだな。だがまだやつらが黒幕だったとは限らん。まだ背後に何かいるかもしれん。仮に奴らが黒幕だったとして、一体どこで、全く別の業種をしていたやつらが出会い、この事件を起こそうとしたのか調べなくてはならん。それに四人中二人は元軍人だ。これから電話が鳴り止まんぞ」
「そりゃ楽しみなこって」
ハボックの吐き出した煙は真っ白な塊になって空気中に散布していく。


「それで、やつらが黒幕だったとして、夢子の処分はどうするんすか?」


ふいにハボックの声が真剣味を帯びる。
みればさっきまでだらしない顔でタバコを吸っていた顔とは打って変わり、生来の妙に生真面目な部分が見える顔付をしている。こいつ、私の返答次第では上官に逆らうんじゃないか、と思わせるほど、その顔にはくっきりと、夢子が心配だ、と書かれている。

「奴ら、彼女について何も話していないらしいな」
「…あの時のグループは自分達の命令に従わせたとは供述してるんすけど、“余分な6人目”については何も。あの時は事前に軍が突入するという情報を得て引っ込んでいたらしく、夢子については何も知りません」

その場の空気がたちどころに重たくなる。
ハボックはぎゅっと拳を握り締めているし、中尉も複雑な表情を作っている。そして私自身も、夢子については哀れな被害者で居て欲しかったという気持ちが強くなっていたのを実感し、言葉が出ない。被疑者に感情を移入させるほど甘くはないと思っていたが、しかし夢子というのは多少変な所はあっても、別に傍に置いていて気分を害するような娘ではなかった。むしろ、そのくるくると無邪気に変わる表情などは眺めていて楽しいものであった。


────しかし、では一体、彼女はどこから現れたというのか?


この事件にはまるで関係のなかった彼女は、一体、どこから、なんの為に現れた?
もし仮に、彼女がたまたま運よく犯人らの目にとまることなく、あの教会に入り込んだとして、たまたま地下倉庫なんて場所に行ったとして、ならば何故記憶が曖昧だと言うようなことを言う必要があるのか。彼女の目的はなんなのか。彼女は“どこ”から来たのか?どこの町から来たのか?どこの道を通って教会へ入っていったのか?まるで何も分からないままではないか。

「昔、娯楽小説で読んだことがあるのですが、ある少女がブドウ酒で服を汚してしまい、着替えようとクローゼットを開けた瞬間、その中に吸い込まれ、5000キロも離れた町に現れた…。という話が実話としてあるそうですが、そんな非科学的なことは…」

中尉が自分でも何を言っているのか困惑している表情を、普段ならとても利発的な顔に浮かべる。苦笑しようとしたのに笑うことができず、ぎこちない表情で唇を噛み締める。確かに、ある日ふっとあの倉庫に沸いて現れたというなら、いっそ簡単に納得できる。が、しかし錬金術師としてそんな非科学的なことは認められない。


だがこうなっては頭からその話を否定することでもできなくなり、また再び重い沈黙が降りた。


「何故私たちに嘘をついているんだ、夢子───」










アーサーと呼ばれた奇術師の奇術の数々に、わたし達はすっかり心を奪われた。
彼がそのすらっと長く、真っ白な手袋をつけた指をすこし翻すだけで、指先には青い炎が灯り、やがて炎は大きく冷たい渦のように広がり、奇妙に幻想的な光景の中、やがて青の渦からは青色に煌く蝶が輝く燐粉を撒き散らしながら、宙へと飛んでいく。わたし達はただ馬鹿のように口を開けて、歓声をあげて、狂ったように拍手を繰り返す。そしてアーサーはそんな狂気的な拍手にも怯むこともなく、ただ唇に微笑を湛えて、無残にも蝶をまた燃やしてしまう。

彼の指先がちょっと動くだけで、わたし達は彼が次に何をするのかもう堪らなく知りたくなって、ただ息を呑んで続きを待つ。もしも彼がこのまま何もしてくれないのなら、わたし達はいよいよ狂ってしまうかもしれない、と不安になるほど、その瞬間、わたし達の心臓は彼という主を前に服従を決めていた。
彼が気まぐれに微笑む。気まぐれに足をタップする。気まぐれに手のひらを翻す。鼻から上を真っ白な仮面で覆った彼の表情は分からない。だけどわたし達は彼の一挙動一挙動、指の動きから目線の先まで、全てを知りたくて堪らない。


「なんだこれ…すげー……」
「うん…すごい…」
エドワードが感嘆の溜息を漏らし、呆然としたような声でアルフォンスが頷く。


アーサーがゴブレットに向かって杖を振る。
するとゴブレットは大きな鮮やかな色の鳥となって、わっという歓声と共にテントの上へと飛んでいく。


────え、?


それを見た瞬間、わたしの興奮はさーっと冷めていき、それを塗り替えるように冷たく冷静な興奮がせり上がる。
そんなわたしを他所に、隣ではアルフォンスとエドワードが「すげー!」と歓声をあげ、周りの客席からも興奮した歓声がひとつの轟きのようになり、サーカスのテント中をうねる。ただ、わたしだけが、ゆっくりと、おずおずと呼吸をして、冷えていく手のひらの熱を実感している。喉のすぐ下で、どくどくと心臓が大きな音を立てている。どうして、どうして気づかなかったんだろう?

アーサーがさっと身を翻すと、その体は美しく黒いネコへと変わり、大爆発するような拍手に見送られてテントの奥へとちょこちょこと駆けて行く。みんなが大歓声と共にアーサーを送り出すのを見送る余裕もなく、わたしは立ち上がった。

「おい、夢子、どうしたんだよ?」
「…ちょっと行ってくる!」
「はぁ?行くってどこへ?」

怪訝そうな顔をするエドワードを見下ろしながら、うっ、と言葉に詰まった。けれど上手な良い訳が思いつかず、「ちょっとはちょっと!」と言いおいて席を離れたら、後ろでアルフォンスが「兄さんはデリカシーが足りないよ」と呟いていた。トイレ、ではないんだけど…。
とにかくアルフォンスの妙な助け舟にしっかり乗って、わたしは駆け出す。アーサーの“ショー”に興奮した観客たちの間を潜り込むように駆け出して、裏方を目指す。耳には次々とアーサーの“ショー”を賛美する声が聞こえてくる。


だけど、アレはショーなんかじゃない。奇術なんかじゃない。あんなの奇術なんかじゃない!
あれは、魔法だ!
おまけにアニメーガス!とんでもない奴を見つけてしまった!!!


逃がしてたまるか!!








「アーサー!アーサー!一目だけでも顔を見せて!」
「あたし、女優のスーザンに似てるって言われるんだけど、どう!?きっと気に入るわ!」
「弟子入りさせてください!イーストシティでマジシャンとして活動していました!どうか話だけでも!」
「何を言っているんだ!僕はあのマーべラス団で働いていたんだぞ!君よりずっと良いサーカス団だ!アーサーの弟子には僕こそがふさわしい!」
「なんだと!?この田舎もの!!」
「アーサーさん!ぜひ我が出版社で自伝を!プロマイドも売り出しませんか!?」
「いやうちでコラムを書いてください!あなたの望むだけ出します!」
「いーやっ!我が社のインタビューを!」

なんじゃこりゃあ…。
駆けつけた先、サーカス関係者だけが出入りできるテント前で、アーサー!アーサー!という大合唱に、わたしは閉口する。沢山の人たちは、アーサーの出待ちのファンから、女の人から、手品師見習いから、出版社からインタビュー待ちから……とんでもない事になっている。その人たちをサーカスでさっきライオンを調教していたようなガタイの良い男の人から、スタッフっぽい係員の人まで、沢山の人が雪崩れ込もうとする人たちを取り押さえて大声を張り上げている。


「困ります!アーサーさんはお疲れです!どんな人とでも面会はしないとの言葉です!!」
「アーサー氏は誰ともお会いしません!!」
「アーサーさんにお会いしたければ、また明日!明日うちのチケットを買って見にいらしてください!」
「あ。明日の分はもう全部売り切れちゃってますよー!」


特に調教師だった男の人、その荒っぽい外見とは裏腹にアーサーに対する口ぶりはとても丁寧で、けれどどこか神経質だ。
それだけで、アーサーがこのサーカスでもかなりの地位を得ているのが分かるようだ。けれど、とにかく、アーサーに会わなくっちゃ!覚悟を決めて、深く息を吸い込んで、化粧品の甘ったるい匂いから、よれよれのコートに染み付いたタバコの匂いを掻き分けるように人ごみを歩く。「ちょっと邪魔よ!」と何度も突き飛ばされたけれど、ここで諦めるわけにはいかない!!そっちはミーハー根性でしょうけど、こっちは死活問題だ!!!家族や友達や学校のあるあの世界に帰りたい!!!頭をぐいっと押されて押し戻されたり、肘鉄を食らったり、ボロボロになりながらようやく、最前列に潜り込む。
そして調教師の男の人と目が合った瞬間、ほかの声に負けないようにありったけの声で叫ぶ。


「アーサーさんにお伝えください!ホグワーツから来たって!会って話したいことがあるって!!」

切実だ。切実すぎる。………っ、帰りたい!帰りたい!!!みんなに会いたい!!!
だけど調教師の男の人は、そのぼさぼさの太い眉を寄せただけでしっしと手を振る。
「さあ、もう帰った、帰った。若い女性がふらふらしない!ほら、行った行った!」
不満をぶーぶーと吐き出す連中をぐいぐいと押していき、強引に解散させる。記者の人たちは次の算段をあっさりと始めるけれど、女の人たちはまだ集まってきゃーきゃーと騒いでいた。
「アーサーって絶対に誰とも会わないのよね」と話しているところを聞くと、どうもこういった“正攻法”じゃ無理そうだ。

……後で忍び込んだ方が早いかも。背に腹は変えられぬ…ってか?


「おい、夢子!んなトコで何してんだ?」
聞きなれた声にうっとなって振り返れば、エドワードが怪訝そうな顔をしてアルフォンスと一緒に立っていた。「なんでもない。ちょっとどんなトコかなーっと思っただけだよ!」と誤魔化したけれど、エドワードは「ふーん」とわたしとサーカススタッフを見比べて納得したんだかしてないんだか分からないけれどとりあえず頷いた。









軍は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
そりゃ当然だ。首謀者4人のうち二人は元軍人だ。これだけの事件、「軍お手柄!事件解決!」と大々的に宣伝したかったろうに、結果が出てみりゃ最悪だ。これじゃただ自分の組織の尻拭いをしただけみたいなもんじゃねぇか。軍の特殊な環境で得た「洗脳」と「体術」最悪だ。最悪すぎる。これからマスコミのバッシングが始まるぞ。大佐もさっきからバタバタとあちこちに電話を掛けたり、書類にサインしたり、上からの悲鳴の電話の相手をしたり…普段じゃ見物できないような仕事捌きを発揮する。

催眠術を使っていたマクニールによれば、小さな火を見せ、できるだけ子供っぽい無邪気な声で「おわり!」と叫べばそれだけで誰でも簡単に催眠を解くことができる、という事で医者の立会いの下、保護された女性達や、保護され、記憶がないながらも家族の元へと返されていた被害者の女性達が続々と軍に集まり、次々に洗脳を解除されていく。
軍の客室の一室は、感激の涙や、感謝の声、本当の意味での再会を喜ぶ声に溢れ変える。

こっから事件の調査をする軍人としちゃあ不幸なことだが、被害者の女性達としては幸福なことに、催眠を受けていた間の記憶はないという。ただある期間の記憶がすっぽりと無くなっているだけ、という状況のため、感激して号泣する家族を前にきょとん、とした顔をするものばかりだという。


この事件の司令塔だったポールの話によれば、“もっと沢山やった”らしく、俺達軍の捜査の網に掛からなかっただけでまだ何も知らないまま、見知らぬ場所で働かされている女性がいるということだ。だが、いい加減なもんでこいつら自分がどこの女性をどこに売ったかまるで記録しちゃいない。元結婚詐欺のコリンの作った講座へ振り込まれていた金の出所からの地道な捜査をするための班を急遽大佐が作ったり、まだ何もかもがしっちゃかめっちゃかだ。

「おい、ハボック、お前帰らなくていいのか?」

ブレダが「集中力アップのだめだ」という名目の元、ボリボリと板チョコを齧りながらやってきた。お前、こんな時間にんなもん食うと、また太るぞ。来月はまた健康診断があるんだぞ、と言いかけて思ってやめた。今回の尻尾をつかめたのは、忍耐強く売春宿にもぐりこんでいたこいつのお陰だからかな。チョコレートくらい好きに食わせてやるか。

「もうそんな時間か?」
「とっくに9時を過ぎてる。むしろもうすぐ10時だ。そろそろ夢子が帰って来るんじゃねぇのか?」
「それなんだけどさ、いつまで夢子には監視がつくと思う?」
「なんだ?」
「俺としちゃそろそろ盗聴器だって外してやっていいんじゃないかと思ってる。確かに俺らの知らない言語で鼻歌歌ったり、延々と何かをぶつぶつ言ってたりするけどな、別にどーって事ねぇ事ばっかじゃねぇか」
俺の言葉にブレダが眉を顰める。


分かっている。個人的な感情で物を言うのは軍人として適切じゃねぇって事くらい分かってる。
でも俺個人としては、これ以上夢子の生活を探るのは無駄だと思っている。確かに変だ。誰も入れない場所へと急に現れたかのように登場して、結局事件との関係性はなかった、けれど記憶を偽ったり、妙な言語を話したり、ぶつぶつと一晩中呪文めいたことを呟いたりするが、それだけだ。それ以外はどーって事のない普通の餓鬼のように俺には思える。でも変だ。確かに変だ。だから監視が必要だ。分かっている。いや、分かっているつもりだが、どうも俺は軍人に徹しきれないらしい。怪しすぎる不審人物を前に、どうも情が移っちまった。妹分のように思ってしまっている。

「それについては俺じゃなく大佐に言うんだな。俺もあの嬢ちゃんが掃除してんのを遠くから見た位だが、まぁ、確かに…そこら辺にいる普通の若い娘に見えるけどな。ま、今大佐んトコ行ってもロクに会話もできねぇだろうから、話は明日しに行け。とにかくお前はもう帰れ。何も言われていないうちは指示を通せ」


「…そうだな。今夜が最後の盗聴になると良いんだけどな」






帰りもきっちりと律儀に送ってくれたエドワードとアルフォンスと、官舎の前で別れた。
本当ならここでお礼にお茶の一杯でも、と誘いたかったけれど、わたしには今夜、やらなくっちゃいけない事がある。明日、明後日…とぐずぐずして、アーサーを逃がしちゃ困る。一度部屋に戻って、わたしは杖とあの手帳、それから一応箒を手にする。ぎゅっと握った箒の柄の、木独特の乾いた感覚を感じながら、一呼吸する。まだ外で飛んだことはないし、飛行距離や、高さだってどれだけあるか分からない。飛んでいるのはこの部屋の中だけだし、だけど、ないよりはきっとマシだ。箒を握って、そろりそろり、と今来た道をゆっくり戻る。

誰にも出会いませんように!と必死で祈りながら、門に向かって急いだ。
けれどすぐに焦る。門には門番のおじさんがいたんだ!門の横の小さな事務所のような場所で、いつもラジオを聴きながら新聞を読んでいるおじさん。見てないだろーなー、と思って結構良く見ているというおじさん。弱った!ぐるりと辺りを見回す。一応軍の施設だからか、官舎のまわりはぐるりと高い塀で囲まれているし、出入り口はあの門を通るしかない。…ここでこそこの箒の出番、ってね。

周りを確認して、誰も人がいない、誰も見ていない事を確認して、箒に跨って意識を集中させる。魔法界にいた時は、何も深いことを考えなくても、手足を動かす、瞬きをする、呼吸をする。そんな当たり前で、無意識の感覚で飛ぶ事ができたのに、こっちじゃすごく集中力が必要になる。うっかりすると尻餅をつくことになる。
…こんな5メートル以上ありそうな高さからの尻餅は避けたい。

ふぅ、と一呼吸ついて、タンッと足元を蹴り上げて飛び上がる。
ぐんっ、という重力に逆らう妙に重たい力を感じて、体は箒ごと浮き上がり、箒とわたしはみるみるうちに高く飛行し、塀を乗り越えた。呼吸を止めて、そのままゆっくりと塀の向こうの地面を目指して降下する。地面に足をつけた時、あまりの安堵にそのまま座り込みそうになる体を叱咤して、わたしは箒を抱えて走り出した。








官舎の直ぐ近くまで帰ってきた時、走り出す影を見つけ、足を止める。
あの背格好は女か?子供か?事件は解決したとはいえ、まだ一般には知られてねぇし、こんな時間に出歩くなんて無用心もすぎるな。街燈の明かりにぼんやりと浮かぶシルエットを何気なく眺めて驚く。……夢子だ!
そうだ、あの背格好は間違いなく夢子だ!………俺の監視がなかった事に気づいたのか?こんな時間へどこへ?

俺はすぐに夢子の後を追う。
前方を小走りに急いでいく夢子の動きは素人丸出しだ、楽に尾行できるだろう。
今まで、夢子は「掃除の仕事の為の体力づくり!」と言って仕事から帰ってきてから官舎のまわりをぐるぐると走っていた。せいぜい30分、長くても1時間もすれば帰ってきていたし、時間もそう遅くは無い、明るい時間に走っていた。だが今はもう夜だ。それもこれからどんどん物騒になっていくような時間に、夢子が一人で出歩いた事はなかった。

それになんだありゃ?
あんなデカい箒抱えてどこへ行こうっていうんだ?


軍で叩き込まれたストーキングスキルで夢子の後を追う。
そんなスキルを使わずとも、あの無防備など素人の背中ひとつストーキングしていく事なんて驚くほど簡単な事のように思えた。夢子はぐんぐん、脇目も振らずにまっすぐにどこかへと向かい、やがて夢子は街の中へと入っていく。土曜の夜という事もあって、夜の街はこれからまだまだ一杯やろうって連中から、こんなご時勢にも懲りずに露出の多い服を着た女が立ち、箒抱えて小走りに歩いて行く夢子は目立った。時折視界の隅に飲酒運転を取りしまる憲兵の姿を見つけ、冷や冷やする。夢子を補導したりすんじゃねーぞ…。尾行中なんだからな。

随分街中へ入っていくんだな。
見上げれば軍司令部の明かりが見える。
あの中じゃまだ蜂の巣をつついたような騒動になっているんだろう。
夢子はしかしどんどん賑やかな街中からは離れて、少し寂しく、人影の少ない場所へと入っていく。どこへ向かう気だ?


────ふいに、視界から夢子が消えた。



は?


慌てて探すが、夢子の影はどこにもない。
夢子と同じように道を渡った中年の男や、女は当たり前のようにそこに存在しているのに、夢子の存在だけが急に、ふっと消えた。向かいから来た男を捕まえて、箒を抱えた女の子がいなかったか!?と聞いたが、男は「さぁ…そんな目立つ子は見ていませんね」と不思議そうな顔をする。だが夢子は確かに、今、さっきまでそこを歩いていたんだ!


ありえねぇだろッ!
夢子の動きは素人丸出しだったし、あんな目立つ箒抱えて歩いているっていうのに、見失う筈がない!それにここは一本道だぞ!!
瞬きをした一瞬のうちに、夢子は煙のように消えてしまった。


「おいおい、勘弁してくれ……監視は今夜で終わらせるつもりだったんだぞ…ッ」

盛大にした舌打ちは、誰に拾われることも無く足元へと掻き消えた。