15
さて、と…。
目的どおりサーカスのテント前まではやってきた。さっきまでのお祭り騒ぎがウソのようにテントは静まり返っている。サーカスは、ショーが行われたメインテントをぐるりと囲むように鮮やかな色のビニールの壁が作られ、外からサーカスの奥や舞台裏が見えないようになっている。“コ”の字になったその壁は、官舎と同じように入り口はひとつしかなく、その入り口にも見張りの人が立っている。
そこには夕方来た時に分かったけれど、メインテントの裏側にはサーカスの団員専用に小さなテントがいくつも作られ、いろいろな機材が置かれているようだった。サーカスの人たちはこのアメストリス中を転々として生活しているようだし、ホテルやモーテルを取って生活している様子じゃない。たぶん、作られた仮設住宅のような小さなテントで生活しているんだろう。モンゴルの遊牧民族のテント、ゲルのように。アーサーはこのサーカスの中でも間違いなく花形だし、夕方のあのスタッフたちのアーサーに対する神経質さから言えば、アーサーはこのサーカスでかなりの地位にありそうだ。だとしたら、アーサーのテントは奥の方だろう。
けれど、数が多そうだ。まさかひとつひとつを覗いていって中を確認するわけにはいかないし…でも、とにかくやるっきゃない!
官舎を抜け出してきたように、わたしは箒に跨り、飛び上がる。
そして塀をさくっと越えて、ゆっくりと地面に降り立つ。それだけでもうどっと疲れてしまう。集中するために止めていた呼吸がどっと沸きあがって、ずるずるとその場にしゃがみ込む。飛行の疲労感だけじゃなくて、今まで経験したことのないスリルに心臓がバクバクと高鳴る。
不法侵入なんてやった事ない!ああ、見つかったらどうしよう!!!
一呼吸をしっかり吐いて、ぎゅっと箒を握りなおして、なるべく目立たないように中腰になって、サーカスのキャンプ内を移動する。メインテントの奥には、やっぱりいくつものテントが並んでいる。時折シチューのような良い匂いもしてきて、この場所で人が生活をしているのが分かり、普通ならほっと安心するようなものだけれど、今はただ冷や冷やとするばかり。
目立たない場所にあるテントの影に隠れて考える。────アーサーなら一体どのテントに住んでいるだろう?
アーサーはこのサーカスの目玉になっていたし、団員からも尊敬…というより畏怖されていたようだった。多分、ほかの人とは違うようなテントに住んでいる筈。まるでハリウッドのスパイ映画の女スパイにでもなったつもりで、こそこそと中腰でテントの影からテントの影へと移動する。ふいに人影を見つけて、わたしは息を呑んで身を潜める。人影は二人、男の人のようだった。
「ったく、また今回もアーサー様々ってか」
ぼそぼそとした声だけど、はっきりと聞こえた“アーサー”という言葉に、わたしは意識を集中させた。
「仕方ねぇだろ。どんだけ見たってトリックが分からねぇ。前の町じゃ、手品や奇術の批評家っつートリック破り野朗が頭抱えて発狂したらしいじゃねぇか」
「ああ、俺はそいつに散々酷評されたがな。…クソッ、忌々しい」
「お前の手品は王道ばっかりだからな。田舎じゃ喜ばれるが、ちょっとデカい街じゃ珍しくもなんともねぇよ」
どうも男たちはアーサーの愚痴を言っているらしい。
聞くに堪えないスラングでアーサーを罵る言葉が続く。あの調教師の人といい、この人たちの口ぶりといい、アーサーはここの目玉だけど、それ以上に仲間内から嫌われているのかな。なんて事を考えていたら、男達がこっちへと歩いてくる!!!まずい!!
慌てて物陰にさっと身を引っ込めた瞬間、背中に軽い痛みが走り、振り返って息を呑む。……ららら、ライオン!!!
思わず「あっ!!」と声を上げて箒を取り落としてしまう。身をもたれさせていたのは、ライオンの檻だ!ライオンはじゃれているつもりなのか、ネコのようにその鋭い爪を檻に絡ませる。もしも本気で爪を立てていたのなら、と想像してぞっとする暇もなく、唸るように響いたライオンの声と、上げてしまった声に男達が走ってくる。
どうする!!どうする!!!ああ、神様!!!
ふいに腕をぐっと背後へと引っ張られた。振り返る間もなく、さっきまで話し込んでいた男達が目の前に現れ、もう、おしまいだ!とわたしが後悔するよりも早く、男たちの顔がさっと青ざめる。
「ル、ルイスさん…!」
ルイス?
振り返るけれど、その顔は丁度テントの影でよく見えない。だけど背の高い、男の人だという事だけは分かった。
「あ、あの、その子は…?」
「僕の友達さ。特別にライオンを見せてあげようと思ったんだけど、驚かせてしまったみたいだ。それより女の子連れ込んだことは内緒にしてもらえるかな?」
こ、この声はアーサーだ!!アーサー・ルイスってことか!!!そ、そりゃ、もちろんです、とさっきまでの罵声や愚痴はどこへやら、彼らが日本人ならば土下座でもするような腰の低さでそそくさと答えて、男達はそそくさと走り去っていった。
アーサー!!逃がさない!!
ぐっとアーサーの服を掴むと、影の中でアーサーが笑ったようだった。
そしてアーサーはわたしの手首をつかみ、自分の服を掴まれたまま、一歩前へ出る。するとアーサーの顔はテントの影からゆっくりと明るみに出てくる。ショーの時とは違って、仮面をつけていない顔は、思っていたよりも若くて、少し癖のある黒髪。ブラウンの瞳。形の良い額。整った顔立ちの人だ、とすぐに思った。むしろ整いすぎている位の美青年だ。人間味がないほど。
だけどいざとなると言葉が出てこない…。
沢山、聞きたい事があったのに、上手に言葉にならない。舌はただもつれ、言葉の出てこない歯がゆさが堪らない。途端に英語を忘れてしまったような気分になる。ううん、日本語だっとしても何も言えない。
「僕はレイブンクローだったけど、君は?」
あぁっ!とわたしはアーサーの服を掴んだまま、顔がくしゃくしゃに歪んでしまいそうになるのを唇を噛み締めて堪えて、ただただ必死に、何度も何度も繰り返し頷いた。握り締めた手がアーサーの服をぐしゃぐしゃにしてしまうのに、握り締めた手はぶるぶると震えて、体中に言葉が溢れて、声にならない。舌の上で全ての言葉が砂糖菓子のように溶けていってしまう。アーサーはそんなわたしの手を離して、そっと頭を撫でる。ジャンのちょっと乱暴で、だけど親しみのある撫で方とは違う、そっと触れるような撫で方だと思った。
わたしはアーサーにしがみ付いて咽び泣いた。
アーサーは、やわらかく、そっとわたしを抱き締めた。
『はぁ?夢子に撒かれただと?』
受話器の向こうから響いた大佐の、呆れも驚愕も全てが入り混じった声に俺はうっ、と傷つく。
しばらく辺りを探したが、やはり夢子は見つけられず、一度官舎へ戻り、合鍵で夢子の部屋を確認した。当然、部屋はもぬけの殻だった。それから大佐に電話をして、夢子がこんな夜中に出歩いていた事、尾行をした事、そしてふいに撒かれた事を報告したらこの声だ。
『それで、夢子は確かに部屋には居ないんだな?』
「だから、そう言ってるじゃないっスか。いないんです、どこにも!それに夢子は俺の尾行には絶対に気づいちゃいませんでしたよ!動きは素人丸出しだし、むしろ無防備なくらいでした。それが突然、道を渡った瞬間消えたんですよ!」
『…そんな荒唐無稽な話をどこから信じれば良いというのだ?素人の少女一人にお前が撒かれたなんて事事態、信じられん。それに夢子がどこへ出かけていったのかの検討もつかんのか?』
なーんの手がかりもクソもないんですよッ!と受話器に向かって半ばヤケクソのように怒鳴り返せば、大佐はしばらく何か考えているんだろう黙り込んだ。俺と違ってオツムのよろしい大佐さまの事だ。何か素晴らしい指示でも出してくれるんだろう、と大佐の指示を忠犬よろしく待っていれば、返ってきた言葉に閉口する。
『面倒だ。今はそれどころじゃない』
面倒って、アンタ……。
だが大佐の声の向こうから鳴り止まない電話の音や、こりゃフュリーだな、あいつの『大佐ぁ、早くこの同意書にサインくださいぃ!じゃないと次の聴取が取れません〜!』という情けない悲鳴から中尉の指示から何からドタバタとした慌しい音が聞こえてくる。確かに、今夢子の事は足手まといだ。
『とりあえず夢子の件は置いておく。今は構ってられん。お前は明日、夢子が普段出勤する時間までその場で待機。もしもいつもの時刻から15分待っても夢子が現れない場合は急いで軍に来い。明日は朝一で女性の身柄の保護へと作戦行動を移す。上はマスコミにバレる前に一人でも多く女性を保護したいとさ。こっちはこれから徹夜で事情聴取だ。明日の現場の指揮はお前に任せる。いいな、すぐに来いッ!
それから、ブレダから聞いたが夢子への監視の任を解いて欲しいらしいがこれじゃ許可できん!いいな、夢子が万が一帰ってきた場合、その後も夢子への監視は続行!更に厳しく接しろ!情を移すなッ!以上ッ!!』
それだけ言い切ると大佐が乱暴に電話を切った。
舌打ちするべきか、溜息をつくべきか迷って、俺は大きな溜息を吐き出した。
「これを飲むと良い。気分が落ち着くから」
アーサーはわたしを彼のテントの中へと案内し、カモミールティを淹れてくれた。わたしはまだぐずぐずと止まらないしゃっくりや、込み上げる嗚咽を噛み殺すのに必死だった。会えた!やっと会えた!!同じ世界を共有する人に、やっと会えた!!
さっきここへ忍び込んだ緊張だけじゃない。今までの全ての事へ張り詰めていた気持ちが一気に溶け出して、胸が熱くて、堪らない。せっかくアーサーが入れてくれたお茶も、手が震えて、カップを手に取っただけで上手く飲めない。アーサーが微笑む。明るい場所で見るアーサーの目の色は深いブラウンで、その柔らかな目を見ていると、それだけでだんだん不思議と気分が落ち着いてくるのが分かった。精一杯微笑むと、アーサーも微笑返し、わたしと向かい合うように一人がけのソファーへと腰を下ろした。
「どうしよう、わたし、きっと酷い顔してる」
「僕こそ、驚きすぎてどういう顔をしたら良いのか分からないよ」
アーサーが困ったように笑って、わたし達は顔を見合わせてから、ちょっと笑った。
「わたしは、夢子・山田。マグル出身で、日本の生まれ。寮はグリフィンドール。今は最高学年で、でも一年留年しちゃったから19歳。ここへ来たのは2ヶ月近く前。」
不思議と、アーサー相手だとなんだって喋れるようだった。
当然だ。だって、アーサーはわたしと「同じ」だから。この世界へ来てから、誰にも言うことのなかった事だって、アーサー相手なら話せる。だってアーサーは、同じ場所から来ているんだ。隠すことなんて何もない。そんなわたしの気持ちに答えるように、アーサーも言葉を続ける。
「じゃあ計算すると、僕が卒業した年に君が入学してきたんだね。僕は魔法族の生まれで、両親も先祖も皆魔法族だよ。さっきも言ったけど、寮はレイブンクロー。ホグワーツを卒業してから、しばらく魔法省で働き、4年前、この世界へやってきた。自分の意思でね」
「自分の?じゃあ、向こうへ帰れるの!?」
わたしの言葉に、アーサーは困った顔をする。
そうするとその形のよい髪と同じ、黒色の眉が少し下がり、優しげな顔はやはり優しげに困り、わたしはアーサーの表情から答えは「NO」だと知り、失望する。────帰りたい。この世界に不満があるとか、そういう事じゃない。ただ、わたしは帰りたい。家族や、友達に会いたい。
「どこから話せば良いのかな…。君は、この世界が錬金術によって発展を遂げている事はもう知ってるかな?」
頷くわたしに、アーサーは満足したように頷き、そして、アーサーはわたしに話し始めた。
ホグワーツ卒業後、アーサーは、魔法省の神秘部で働いていた。
神秘部では、時間や、死後の世界、予言の管理だけじゃなく、魔法以外の世界のことも研究していた。それが、ここ、アメストリスだ。今の魔法界は、魔法界だけで独立した世界となっている。マグルの国のトップとの連携はあるものの、それは有事の場合に置いてのみだし、基本的には魔法界という世界の中で外部との接触を避けて、“鎖国”しているんだという。しかし、魔法界が魔法界という形で存在した瞬間からそうだったわけじゃない。
紀元前から続く魔法史の中、気の遠くなるような昔、魔法使い達はこの世界の存在に気がついた。そして、この世界が魔法でも、それまで彼らの知っていたモノでもない、全く別の力が働くことを見つけた。それが、錬金術。
この世界の錬金術は、それまで魔法界や、マグルの研究していた錬金術への常識を根本的にひっくり返した。物質の原理を理解すれば、なんらかのエネルギーにより、等価交換の法則の下、その物質の姿形を変えたり、何かを練成したりすることのできる世界!言葉と魂を理解して使う魔法でもなければ、マグルの科学でもない、全く別の力!!
当然、魔法界のトップはこの力を欲しがった。そして、研究グループが設立された。
グループのメンバーは秘密裏にこの世界へとやってきて、この世界の人間のように振る舞い、偽装し、錬金術の術を学んでいった。その名残が言語や、生活様式として残っているという。それは、長い長い歴史の流れの中で互いに影響しあった結果だ、と。そして何世紀にも渡って研究が続けられた。しかし、“世界の法則”が違う。
この世界では、錬金術が使える。
しかし、魔法は使えない。そして魔法界では当然魔法が使えるが、錬金術が使えない。
────世界の法則が違う。
魔法は、言葉の力だ。
例えば、誰かを褒める。上手に褒めるという言葉を使う事ができれば相手の気分を良くする。それは「相手の気分を変化させる」という一種の魔法だ。言霊だ。それは人間なら当然使っている言葉の魔法。だけど魔法族は、そこからもっと深く踏み込んで、存在する物質や、環境、生物を理解して、それが持つ魂へと直接働きかけて、変化させる。その才能を持った人たちだ。
この世界の錬金術は少し違う。
物質の根本的な存在を理解する。すると物質が持つ物質だけの同じ力の中で、物質を変化させる事ができる。魔法は、魔法族なら練習すれば無意識下でできる事だけど、この錬金術は自分で一から物質の根っこを理解しなくっちゃいけない。けれど理解すれば、誰だって使える。魔法族の血は必要ない。物質を理解しなくてはいけないという点に置いて、変身術はこれに似ている。
とにかく、どういうわけか、そういう風になっているのだ。
そして理解さえすれば使える錬金術の世界なので、魔法界の人間もこの世界を理解すれば、やがて魔法も使えるようになるらしい。だけど逆は無理だった。魔法界の世界の法則の中には、血が必要だ。魔女の血。魔法使いの血。理解すれば、というものではなく、もっと未知数の法則の世界だから、錬金術は使えない。魔法界で物質を理解して、錬成陣を書いても、何も起こらない。
魔法界で使えない力ならば意味はない。
やがて時代は流れ、錬金術は古くなり、マグルも錬金術から科学へ変わり、やがて魔法界でも錬金術は廃れていった。それに、近年魔法界は魔法界だけで世界を形成すべきだ!という声も高まり、魔法界の方針が変わり、マグルとの接触を避けるようになった。もちろん、アメストリスという世界に生きるマグルも同様だ。
そしてお互いの世界を往来する扉は、閉じられた。
それが5世紀前の話。
今ではもうすっかりこの世界の事を思い出す人はいなくなった。魔法界でもこの世界の事を知っている人はどんどん少なくなっていった。だけど、神秘部で働き、世界の成り立ちを研究していたアーサーは、ある日、この世界へと赴き、現地で研究するように言い渡された。
公には、“もう相手にしない。交流は一切しない”という形を取っていても、魔法界の与えた影響は気になる所。そっくりそのままの錬金術が使えなくても、何か別の形で応用はできないか、とか、どうも魔法界の魔法生物もこの世界へひそかに持ち出された痕跡もあるとかで、そういう事すべてをひっくるめて調査するために、アーサーは一人、このアメストリスに送られたのだ。
つまりスパイだね、とアーサーは微笑んだ。