17
イッしょっしゃーッ!!二階廊下掃除終了ッ!!
うっし!と雑巾をぎゅっと握り締めて、ピカピカになった廊下を振り返る。顔が映るほど、っていうのは素材の関係上不可能だけど、それでも窓もピカピカだし、毛玉ひとつ落ちていない完璧な廊下にうっとりする。ここに自販機があれば栄養剤の一本でもぐいっとやりたいほど、今体中にエネルギーが満ち溢れているような気がする!今のこのテンションならトライアスロンだってやるし、なんならリングに上がってやってもいい!というほどテンションが高い。
それもその筈。寝てないからだ。
結局、昨日は一晩中アーサーからこの世界の魔法の使い方ってやつを教えてもらっていた。
それはつまり、簡単に言えばこの世界は錬金術によって成り立っている。魔法的な錬金術が使える。だから錬金術的な魔法を使えば良い、という屁理屈で、その錬金術的な魔法の為には物質を理解しなくっちゃいけない。「魔法☆」なんていうファンタジーなものから一変、急に理数科学の授業になった。大変だった…。
保守的な、いや現実主義のうちのお父さんの「魔法もいいが、普通の勉強くらい知っておけ」というお言葉の元、送られてくる現代日本の通信教育でなんとか普通の学校の普通の授業のような内容の知識ベースはあったけれど、それとこれとは話が別だ。結局一晩中、魔法を使うためのテクニックを叩き込まれた。そのお陰で、とりあえず、箒の乗り方はマスターした。
この世界で、わたしは高く飛び上がる事はできるけれど、その高さをキープしたり、移動したりが上手くできなかった。
けれどアーサーにテクニックを教えてもらって、距離や時間を延ばせるようになった。まだちょっと不安定だけど、練習すればクィディッチができる位になるだろうってアーサーは言ってくれた。とりあえず、昨日はすぃ〜〜っと部屋まで帰る事ができたし。昨日の夜は本当に嬉しかったなぁ。夜空の清潔さや冷たさや、これから知っていく事への好奇心にわくわくが止まらなかった。
この浮かれたテンションは、徹夜のせいだけじゃなくて、空を飛べたことや、魔法を使えるようになるかもしれないこと、それからアーサーという同じ世界を共有する仲間に出会えた嬉しさだった。自分をひとつずつ取り戻していくような気持ちだった。
そりゃもちろん、全ての元凶はある意味アーサーのせいだけど、火事はアーサーのせいじゃない。
アーサーも運の悪いやつだ。わたしはそれに輪をかけて運の悪いやつだ。でもこの世界に来た事をちょっとだけ前向きに考えられるようになった。大佐さんや、ジャンや、リザさんや、エルリック兄弟や、ヒルダ。良い人に出会うことができたし、良い経験になった。知らない事がまだまだいっぱいで、向こうへ帰れたら今よりもっと立派な魔女になれるかもしれない。
ああ、夜が待ちきれない!!
そういや、なんか今日は軍が騒がしいな。
窓から外を見下ろせば、外に軍人さん達が沢山集まり、整列している。上から見ると一糸乱れずって感じでキチンと整列された規則正しさに流石、と関心するけどそれはともかく、さっき行ったオフィスから待合から何から何まで、ピリピリとして、バタバタとしている。上手く説明できないけれど、目には見えない雰囲気が張り詰められているのが分かる。わたし達みたいな一般の掃除スタッフが立ち入ることのできない、武器庫なるエリアの方からは普段は聞こえないようなバタバタガチャガチャと何かを慌しく装備するような音も聞こえていた。
今日は何かあるんだろうか?
………大佐さんも、ジャンも、リザさんも、怪我しなければ良いんだけど、
夕方になって、帰り支度をするロッカー室のラジオから朗報が飛び込んだ。
『本日昼過ぎ、軍部は現在アメストリス中を騒がせている連続誘拐事件の犯人を逮捕し、多くの女性達を保護する事に成功したと発表されました』
清掃着から私服に着替えていたわたしは、ヒルダと顔を合わせて、驚いた。
ヒルダも満面の笑みを浮かべる。よかった…。ようやく解決したんだ…!
ラジオから聞こえてくる男性アナウンサーの声もどこか弾んでいる。それで騒がしかったんだ、と朝の喧騒を思い出して納得する。掃除に行けば、いつもはいる筈の大佐さんもいなかったし、ジャンのいる筈のオフィスも3,4人の人が残っているだけでがらんとしてたっけ。もう帰ってきているんだろうか、様子を見に行かなくっちゃ。
また明日!とヒルダに手を振って、わたしはジャンのオフィスを目指す。
いつも、仕事が終わったら一緒に帰っていたから、早く終わった方がお互いのオフィスへ迎えに行く、という習慣が暗黙のうちにできていた。オフィスに、ジャンはいた。ぐったりと疲れた様子で深く深くジャンのデスクに沈んでタバコを吸っていた。邪魔にならないようにドアの陰からこっそりと「ジャーン、ジャン」と呼ぶと、わたしの声に気がついたジャンがなんだか浮かない顔をしてやってくる。
「お仕事お疲れ様!ラジオで聞いたわ!事件解決したんだって!」
「まだ事後処理が山ほどあるさ。それにうち二人は軍人だしな。それより悪いな、今日は当直で帰れねぇんだ。一人で帰れるか?」
「…うん、それは平気だけど、ジャンは大丈夫?」
俺?と驚いた顔で自分を指差すジャンに、あー、ジャンが一人で帰れるかって意味じゃなくて、と説明する。だってここんとこずっと働きづめみたいだし、朝は無精ひげも生えてたし、寝てないみたいだし、と説明すると、ジャンは頭をかいて苦笑した。んなのは慣れっこだって。ジャンはわたしと目線を合わせるように少しかがんで、わたしの頭に大きな手を載せる。
「お前こそ、あんまり危ない事はするんじゃないぞ」
「うん?」
「……いや、いいんだ。そんじゃ真っ直ぐ家に帰れよ」
うん、と頷くわたしを、ジャンは真っ直ぐな真剣な目で射抜いていた。
まるで、本当に大切な事を託すような目だと思った。
なんだったんだろ、ジャン。
一人軍を出ようと歩きながら、さっきのジャンの妙に真剣な表情を思い出す。
大人が子供に躾をするような事を言っていたけれど、なんか、もっと別の意味があったような…。まさか空飛んで夜出歩いたこと知ってる?……いやいやいや、まっさかねー。たぶん、今日は事件に関わった仕事をしてたみたいだし、そのせいかな…。
カツンカツンと音を立てながら、夕暮れに差し掛かる軍部の階段を下りていく。
いつもの門番の人にお疲れ様でーす、と頭を下げたとき、目の前に見えてきた大小の影にあっ、と嬉しくなる。エドワードとアルフォンスだ!!声をかけるまでもなく、二人はわたしに気がついたらしくエドワードなんか「おー、夢子!」と手を上げてひらひらと振りながらやってくる。わたしも手を振りながら急いで階段を駆け下りて、二人と合流する。昨日会ったばかりなのに、なんだか久しぶりに会ったみたい。
「昨日は楽しかったね!」
「奇術もすごく面白かったね。兄さんなんて宿に帰ってもずっとその話ばかりで」
「あっ、馬鹿っ!別にそんなんじゃねぇよ、ただ科学者としてだな…その、」
言葉に詰まるエドワードに、ふっと噴出してわたし達は笑った。
軍のお堅い門に笑い声が響いた。
「あ、そういや事件解決したんだってな、さっき号外が配られてたぞ」
「うん。そうみたい。良かったね。保護された女の人たちも、みんなすぐに家へ帰れるってラジオで言ってたわ」
エドワードの言葉にそう答えると、エドワードとアルフォンスは顔を見合わせる。
アルの表情はともかく、エドワードは見るからに怪訝そうな顔をしてわたしを見る。
「んな他人事で良いのかよ?アンタもその記憶のない被害者の一人じゃなかったのか?」
あーっと、そういう設定になってたんだっけ。────あれ?じゃあ……
急に胸がざわりと波立った。そして気がついた事にわたしは急に不安になる。けれどエドワードは笑いながら「頭にいっぱつガツンと衝撃でもくれば案外ぽろっと思い出すかもな」なんて言ってアルフォンスに「兄さん…女の子にそれはないでしょう」と注意され「別に鈍器で殴れとは言ってねーだろ!」なんて答えている。そんな二人のやり取りがどんどん遠くから聞こえるように曖昧で、ざわざわとした不安に胸が押しつぶされそうになる。
そうだ、わたし、もうここにはいられない。
「ま、直にアンタの事もわかるだろうさ、安心しろって。すぐ家に帰れるって。そんで、こんなお堅い軍とはおさばらさ」
「じゃあ僕たちは大佐に用事があるから行きます。夢子さん、事件は解決したけど、どうか気をつけて帰ってくださいね」
「う、うん、ありがとう。じゃあね、二人とも。またゆっくりお茶しようね」
おう、と答えるエドワードの背中を見送って、わたしはゆっくりと二人に背を向けて家へ向かって歩き出す。歩き出すうちから早歩きになって、駆け足になって、とうとう本気で走り出す。どうしよう!どうしよう!体は居ても立ってもいられなくて、どうしよう!という言葉ばかりがぐるぐると頭の中で回っている。
そうだった!わたしはもう、ここにはいられない!!
大佐さんがわたしの衣食住を提供してくれたのは、わたしが「事件の被害者」だと思っているからで、曖昧な事しか言わなかったのに、何も聞かずにいてくれたのは「事件のショックで記憶が曖昧」だからだ。でも全部ウソだ!わたしは事件になんかちっとも関係していないし、何もしらない!あの犯人達がたまたま使っていた、廃屋になったと思われていた教会が、魔法界とこの世界をつなぐルートだっただけ!ああ、わたし!何もかもウソだ!大佐さんにも、リザさんにも、ジャンにも、あの二人にも、みんなウソだ!ウソで固めたわたしなんだ!
わたしは被害者じゃない!
記憶が曖昧でもない!
来た場所だって分かっている!
17歳でもない!
わたしは、山田夢子で、記憶もはっきりしていて、ホグワーツの生徒で、19歳で……!!!
わたしは…わたしは────……っ!!!
「ちょっと休憩しようか」
アーサーが杖を振る手を止めてしまって初めて、自分が全くアーサーの話を聞いていなかった事に気がついた。
「あっ、ごめんなさい。次はちゃんと集中するから」
「いや、いいんだ。こっちで魔法を使うのは神経がいるからね。ゆっくりやっていこう。お茶を入れようか。君って夜にクッキー食べるのは気にするタイプ?」
「…ううん、平気。手伝おうか?」
僕の趣味だから、と笑ってアーサーはテントの中の簡易キッチンへと向かう。最も、アーサーが指揮棒のように杖を振ると、小さな棚から二人分のティーカップやポット、ソーサー、銀のティースプーンや小箱に入れられた茶葉が踊るように宙を舞ってテーブルの上にお行儀欲ならび、次々にきちんと自分の仕事を分かっているかのようにお茶を入れ始める。その可愛らしさに思わず笑みが浮かぶ。
「さ、座って。あと1分蒸らしてからお茶は飲んでね」
「はい」
お茶に関してはティーパック、もしくは急須があればいっかー、なわたしは素直にお茶にはこだわりを持つらしいアーサーに、アーサーの優秀な生徒の一人かのように返事をして、勧められるがまま一人がけのソファーに腰を下ろす。
「寝不足だけじゃなくて、なんだか落ち込んでいたみたいだけど、僕で良かったら話を聞かせてくれないかな」
わたしは少し迷ってから、首を振った。
ここにやってきてしまったのは、まあちょっとはアーサーのせいだけど、わたしの嘘はアーサーのせいじゃない。
「ううん、ちょっと眠たいだけ、だから」
「そう」
アーサーは目を細めて微笑んだ。
でもその目はわたしの抱えている秘密と不安の全てを見抜いている目だった。
「大佐ァ、今日の報告書これてマジで最後っす」
マジで、にひどく力を込め、あ゛ぁ〜、俺もう限界です、と情けない顔をしながら執務室に入ってきたハボックから報告書を受け取り、ざっと目を通してサインする。「Mustang」の「g」をさっと書き終えた瞬間、どこからともなく「はぁ…」、と安堵の溜息が漏れる。ハボックと、後ろで書類の山を抱えたファルマンと、傍らの中尉、それから私自身の溜息だ。指を見れば今日だけで万年筆を持つ右手の指に真っ赤なタコができている。すっかり万年筆を握った形で固まってしまった手の平を、閉じたり開いたりして動かせば、毛細血管中の血がぎこちなく流れ始めるようだった。
「今日の調書はこれで全てです。改めて逮捕された4人も、これから軍法会議所の管轄に移ります」
中尉の報告にほっとハボックが安堵の息をもらすが、まだまだ仕事は山積みだ。
しかし、できれば今日は仮眠室でも良いからベッドで眠りたいものだ。
「あの、大佐」
ハボックがさっきまでの間抜け面から一変、不安と憔悴の入り乱れたような目をする。
「夢子のことなら、私も正直手を焼いている」
ハボックだけでなく、中尉も表情を曇らせる。
だがどうしろと言うのだ。確かに、彼女は“いない筈の6人目”で“記憶が曖昧”だといった。だが恐らく彼女は洗脳には掛けられていないし、不審な点は“いない筈の6人目”“入れない地下に現れた”“全く未知の母国語を話す”“オカルト趣味”それから、“煙のように消え、煙のように現れた”だ。それ以外は、と簡単に言ってしまうにはひどく不審、いや不審を通り越して“摩訶不思議な”と言った方が良いような点だが、しかしそれでもそれ以外はいたって普通の少女だ。
恐らく本当は事件にも関係していないのだろう。
何か都合の悪い事があり、事件に便乗しているだけだ。いや、そう処理したいだけだ。
「ならば尋問でもするかね?むしろ真っ先にするべきだった」
「…それは、そうなんスけど…」
「事件が解決してしまった以上、“無関係”の民間人を官舎に置いておくのは問題だ。関係者であれば、と官舎の一室を与えたし、特別に書類を作って軍の調査をすっ飛ばして軍で働かせている。…まったく、夢子も何か探られて困るモノがあるのならばいつだって隙をついて雲隠れできるものを、馬鹿正直に毎日毎日律儀に働いて、私には彼女の目的がさっぱり分からん」
しん、と部屋は静まり返る。
軍人の私が言うのもなんだが、消えてしまえば良いじゃないか。もしも本当に、ハボックの言う通り、煙のように消え、不可能な場所に現れることができるならば消えてしまえば良いじゃないか。自分に不利な事があるならば、軍なんて場所にいず、さっと消えてしまえばそれで済むというのに。──それともただ何の考えもなく留まっていたのか?
与えられた仕事と生活の場に、馬鹿正直に感謝していたとでも?……ありうる。十分にありうる。
「いかん。私もどうやら疲れているらしい。正直、彼女は手に余る」
「あの、その件なんですが…」
ふいに口を開いたファルマンに、みなの注目が集まる。
「私が会ってみても良いでしょうか」