曇り空に風穴を

「日渡先輩、大変だ」
「え? どったのアドニスくん」
「羽風先輩がレッスンに――来ている」

大真面目な顔でそう言ったものだから、思わず吹き出してしまった。

昨日、薫くんに言われた通りLINEを送ったら、本当にレッスンに現れたのだ。アドニスくんもびっくり、晃牙くんは「今日ドリフェスでもあったか?」とか真顔で私に聞いてくるし、零さんはかなり不思議そうに首をかしげていた。

ていうか薫くん、君は仲間にこの反応をされるほど来ないと思われているのか……いいのかそれで。

「ふむ、いったいどうしたのじゃ薫くん?」
「ええー。真面目に来たのにこの反応はないよ」
「はは、気を悪くせんでおくれ。いやなに、次の『S1』での課題曲を練習したいと思っておったところじゃしのう。来てくれて助かるぞ」
「零さん、『UNDEAD』も『S1』に参加するの?」

そんな話は聞いていなかったけれど、いつの間に参加すると決めたのだろう。このご時世、わざわざ『S1』に挑もうなんて変わり者は少ないというのに。それこそ、『Trickstar』くらいの。

「ああ。なに、我輩も千夜にかっこいいところ見せたいのじゃよ。我が愛し子が、うっかり星の瞬きに魅せられては叶わんからのう……♪」

冗談めかして、零さんはくっくっといつもの不敵な笑い声をこぼす。けれど、伊達や酔狂で『S1』に挑むわけではなさそうだ。
彼の考えを聞き出したいと思ったけれど、零さんの続けた言葉で遮られる。

「ああ、そういえば。千夜よ、先ほど『Trickstar』の明星くんがおぬしを探しておったぞ」
「え、スバルくんが?」
「うむ。それにしても、うちの千夜はモテすぎて心配じゃのう……我輩もついて行ってしまおうかのう?」
「なーに言ってんの零さん。スバルくんが探してたなら、プロデュース関連でしょ。で、どこにいるか知ってる?」
「もちろん知っておるさ。この学院のことなら、なんでも。……と言いたいところじゃが、候補を絞る程度しかできぬなぁ。普段と様子も違っておったし」

スバルくんは今、あんずちゃんと一緒に行動するように零さんから言いつけられている。そしてあんずちゃんは、現在『Trickstar』の為に衣装の原案を考えたり、栄養学を学んだりしているそう。

なので、居るとすれば被服室か保健室の二択だ。とりあえず、被服室の方から見てみよう。

「えー!? 千夜ちゃんほかのユニットのところに行くの!?」
「薫くん、逃げちゃダメだよ」
「ちゃんと戻ってくる? 野郎だらけの場所でずっと練習なんて、ぞっとしないんだけど」
「おいスケコマシ! さっさと着替えやがれ」

私に迫っていた薫くんを、晃牙くんがべりっと引き剥がした。そのままロッカーのほうまで引きずっていったので、今のうちに逃げ出そうと思う。



被服室の扉を開ける。
中には二人分の人影が、と予想したけれど……外れた。

「! 日渡先輩……」

被服室の窓際で、ぼんやりと座っていたのはスバルくん一人だった。一瞬、いつものように眩しい笑顔を見せようとしてくれたけれど、力なくその口元は上がりきることができなかった。

「どうしたの、スバルくん。一人?」
「うん。そう……朔間先輩、ちゃんと伝えてくれたみたいで良かった」
「……なんか元気ないね」

まだ出会って数日しかたっていないけれど、わかる。初めて会ったときの彼は、もっと明るかった。けれど今は、まるで雲に隠された鈍い星のようだった。

「あの……俺、すっごい失礼かも、しれないんですけど。でも、日渡先輩に聞きたいことがあって……」
「私に……? 構わないよ。じゃあ、ちょっと隣失礼するね」

スバルくんの隣に、丸椅子をもってきて座った。広い教室の中、たった二人しかいないのに、隅っこにいるのもおかしな話だけれど。
彼は私のことを横目でちらりと見ては、惑うようにため息をつく。

「スバルくん、こっち向いて」
「……うん」

しょげた犬のように、若干うつむいた彼が私に体を向ける。青くてきれいな瞳が、頼りなく私を上目遣いで見つめていた。
なんとなく、ぽん、と軽く頭を撫でた。頭をくしゃくしゃにするほど撫でる距離感は、まだ私たちの間にはない。けれど、こうしてあげるのが正解だと思ったのだ。

「嫌な思いをしたの?」
「嫌な思い……ううん、俺はなんともないんだ。むしろ、しののんやRa*bitsのほうがよっぽど……」
「――! なずな達に何かあったの?」

明星くんが語ったのは、昨日の『S2』の話だった。
彼が受けた衝撃はとても大きかったらしい。

昨日のドリフェスは『紅月』と『Ra*bits』が出演ユニットだったそう。スバルくんは、後輩の紫之くんが校内アルバイトで資金稼ぎをし、やっとの思いで公式ドリフェスに参加できたのだと喜んでいた。

けれど、その喜びがいかに踏みにじられるかを、昨日のステージで見た、と。

たった二人の観客の前で踊る、アイドル達の姿。思い描きたくもない、けれど起こった事実からは目を背けられない。

「おれ……おれ、本当に何にもわかってなかった」

歌っても踊っても、誰にも届かないなら空しいだけだ、ということ。
届ける機会すら奪われる、この状況が狂っていること。
自分がいかに、甘い考えだったかということ。

そういう風に切々と語るスバルくんの目には、大粒の涙が溜まっていた。

……そう、この学院では試合すらさせてもらえない。英智の作ったチェス盤の上には、生徒会の駒しか上がれない。敵の居ない、寒々しいボードゲーム。
かつて、レオは英智の策略で負けたけれど、今の全校生徒は生徒会の規範で殺されている。

「俺、とりあえず皆が平等に夢を見れればそれでいいと思ってた。いま、どんなふうに夢を食いモノにされてるのか、全く考えてなかった。あんまりだよ、あんなのは。あんまりだよ、俺、ほんとにバカだったんだ。先のことばっかりで、現実が見れてなかった……」

スバルくんが膝の上で握っているこぶしに、涙が落ちた。

ああ。
スバルくんとレオが似てるって言うのは、訂正しよう。
スバルくんもレオも天才だけど。でも、目の前で涙を流す彼に、最大限の共感を。きっと、彼は私と一緒だ。

「スバルくんの気持ち、わかるよ」

きっとわかってくれると思ったから、私を呼んでくれたんだよね。

「なんて、軽々しく言われたらいやだろうけどさ。でも、うん。同じ思いをしたことあるから、貴方のことが分かるって思わせてほしいんだ」
「同じ気持ち……」
「そう。まぁ、私の場合はスバルくんとは逆でさ。未来のことをこれっぽっちも考えてなくて、現実だけで手いっぱいだった。目の前を守ることで精いっぱいで、これから先どうなるか、予測を怠ってしまったの」

かつて生徒の大半が所属していた『チェス』と、その解体。『Knights』はそこから派生したユニットだったけれど、見事に踊らされ、『元チェスだった仲間』を次々と討ち果たす掃討員の役目を背負わされていた。

レオは日に日に消耗して、言動が荒くなった。
泉はその消耗を見て責任を感じ、自分が言い出したからと思い詰めて「もうやめよう」と口に出すことができなくなった。
鳴ちゃんもその時はまだ一年生だったから、うかつに動かない。凛月はいつも通り動かなかった。けれど、そのいつも通りである凛月が、もっとも正解に近い在り方だったと、後になって気づいた。

動けば血を流す針の筵(むしろ)。それが、『Knights』に与えられた皇帝からの制裁だ。

憎しみは、水に落としたインクのよう。ほかのユニットを倒せばインクが一滴堕ちる。一度落ちたインクは、何をしても水の中から消えることがない。要するに、――打ち消せないほど憎まれた。

生徒からの得票が勝敗を決める、英智の決めたシステム。彼は、騎士自らの手で処刑台と観客を作らせたのだ。

あとはもう、お決まりのコース。
戦う意味もなく、必要性もなく、権利もなく――ただ消される。

「……もしかして、日渡先輩は、友達が生徒会に潰された経験があるの……?」

スバルくんが恐る恐る言った。私は、微笑んだ。

「そうかもね」
「朔間先輩が、日渡先輩に相談しろって言ったのは、そういうことだったんだね。経験してるから……」
「いや、スバルくん。あれで零さんだって、潰された張本人だったりする。だからね、別に私が特別なわけじゃない。私たちってば気楽なもんよ。だって見てただけだもん」

で、見てただけのあなたは何がしたい?
そう問いかけると、スバルくんの瞳が瞬いた。

「言っとくけど、復讐とか報復とかは言わないでね?」
「でも、千夜は復讐したいんだって朔間先輩が」
「あー、なんで言っちゃうかなあの人。せっかくカッコつけてたのに台無し」

イタズラっぽく言って、椅子から立ち上がる。

「まぁ許してよね、スバルくん。女は大なり小なり陰湿な生き物なんだからネ?」
「無茶苦茶すぎるよ、その理屈!」

そう言って、スバルくんはおかしそうに笑った。腹を抱えて、明るい声をはじけさせて。いつものように。

「あ、それそれ。スバルくん、その顔だよ」
「え、なにが?」
「いつもの顔。それが一番、キラキラしてる」
「ほんと? えへへ、ありがと。俺、キラキラしたもの大好きだからさ。そう言ってもらえてうれしい!」

椅子を大きく鳴らして、スバルくんもまた立ち上がった。
座っているときは小さく見えたけれど、立ち上がった彼は十分大きい。頼りになりそうな一等星だ。

「うれしい気持ちにしてもらったし、ちゃんとお返ししないとね!」
「え? お返し? いいよそんなの」
「何言ってるの! 俺、お金好きだけど別にケチじゃないよ! それにこのお返しは、お金いらない! 直接的には! たぶん!」
「いや、どんどん自信なくなってない?」

いったい何をくれるつもりなのだろう。
スバルくんは不思議がる私の腕を掴んで、ずんずん歩き出す。被服室から出て、レッスンしようと言ってくる。なるほど、やる気が彼のくれるお返しなのだろうか。

「レッスンに対するやる気がお返しかぁ。確かに、必要経費として飲料水とかいるもんね」
「え? 違うけど?」
「違うの? じゃあなにをくれるの?」

ぱ、と腕を離して、彼は私より数歩先を駆けだした。慌てて追いかける私を振りかえった、彼は、

「革命!」

夕日にその笑顔を照らされ、宵の明星のように輝いていた。