追憶・宇宙一の楽譜

はぁ、と深く息をつく。気を抜くとへたり込みそうな体は、木に寄りかかることでなんとか立っていられる。流している曲はなかなかテンポが速く、追いつくのもキツイくらいだ。

でも、やらないと。
自分はまだ一年生だ。残された時間は多いとはいえ、彼が夢ノ咲学院で過ごせる時間は、きっと人より短いから。

「もう一度、最初から……」
「英智くん、無茶しすぎ」
「っ!?」

ひたり、と冷たいものが頬に触れた。ミネラルウォーターのペットボトル。びっくりして振り返ると、そこに居たのは一人の女子生徒。アイドル科の敷地に、本来ならばいてはいけない存在だ。

けれど英智は、安堵したように苦笑する。

「千夜ちゃん。今日も幼馴染くんのお使いかい?」
「そうそう。でも、前よりは大分楽になったよ。英智くんがくれた、アイドル科の男子制服のおかげで」

そう、女子生徒。
けれど少女は、アイドル科男子の制服を着ている。

彼女と会ったのは、一か月ほど前。
アイドル科にいる幼馴染にあれこれと呼び出されていた彼女は、校則を破ってこっそりと普通科の棟からアイドル科の棟へ移動を繰り返していた。彼女はとてもうまく潜入しては去っていったものだ。けれどある日偶然、個人レッスンで無理をしすぎた英智が倒れているのを見て、無視できずに声をかけてきたのだ。

『大丈夫?』
『う……んん……』
『君、この感じだと熱中症にでもなったんじゃない? ……体も少し熱いし』
『……あれ? きみ、……女の子……』
『あー……内緒にして。お願い』
『……いいよ。だけど、……助けてくれないかな……』
『もちろん! 待ってね、日陰に移動しよっか。ほら、捕まって』

そういって差し出された手に、その時は感動したものだ。人間弱っている状態で、親切にされるとぐらつくらしい。

その後、彼女のアイドル科に潜入しなければならない理由を聞き、アイドル科に潜入するのを容易くするため、英智が『男子制服をあげようか? それなら、ここを歩いてても大丈夫そうだよ』と提案をした。彼女は最初『ええ!?』と驚いていたものの、お礼に後日制服を渡したいと言えば、分かったと頷いた。

そして制服を渡し、その後もこの場所で会った日は会話を交わし、今このような関係に至る訳だ。

「アイドル科って、ほんと女の子みたいに可愛い人がいっぱいいるから、私がしれっと廊下通ってもぜんっぜん怪しまれないんだよね。おかげで、幼馴染に会いやすくなったよ」
「髪を女性のように伸ばしている先輩もいるしね。身だしなみに関してはかなりルーズな科だから、君なら立派に潜入すると信じていたよ」
「うーん、その信用は喜んでいいの?」
「ダメかもね」

二人、何となく木陰に座り、何となく駄弁る。
英智にとっては、こんな些細なことも貴重な経験だった。天祥院、と名乗ることをせず、ただの『英智という少年』として人と対話することは、新鮮な感覚だった。

「英智くん、今日は歌の練習しないの?」
「あ。確かに、ずっとダンスの練習ばっかりしていたよ」
「歌ってほしいな〜。英智くんの歌声、好きだもん」

千夜は期待するような目で英智を見ている。
歌声が好き。アイドルを目指す者として、嬉しい言葉だった。彼女は音楽のことなんか分からないといいつつも、彼女の幼馴染は作曲の天才らしい。昔から天才の作る音楽に触れているはずだ。

そんな、素人目線でありながらも、耳は肥えている人の評価が高いのだ。嬉しくない訳もない。

……なんて自己分析をする悪い癖が出た。ただ、友達に褒められて嬉しい、という感覚を、英智が理解するのはもっと先の話だった。

一曲、彼女が知っていそうなポップスを歌う。
千夜は目を閉じ、穏やかにそれを聞き入ってくれる。
体が弱くて、まともに活動のできない自分でも、こうして人を楽しませることが出来る。それが実感できるのが、たまらなく幸せだ。

「やっぱり、英智くんはすごいなぁ」

歌い終わった後、必ず千夜はそう言ってくれる。
なんとなく恥ずかしくて、平静を装って否定するのだ。

「僕なんか、全然だめだよ。もっと歌が上手い人は、アイドル科にはゴロゴロ転がってる」
「そうなの?」
「そうだよ。僕は生まれつき体も弱いから、恥ずかしながら人より練習量も劣ってしまっている」
「そっか。でも、私はアイドル科の知り合い、英智くんとレオしかいないし……だから、私の知っているアイドル科の中では、英智くんは歌が上手い。それでいいんだよ」
「そうかな」
「そうそう」

さらりと肯定される、むずがゆさ。恥ずかしいような、嬉しいような。

「英智くんさ、今度私の幼馴染の作った曲、歌ってくれない?」
「え? 僕がかい?」
「そう。レオ……あ、それが幼馴染の名前なんだけどさ。レオは毎年、私の誕生日に曲をくれるんだ。で、お前の気に入ったやつに歌わせて、命を吹き込んでもらうといい! って言ってくれてるんだけど……普通科に、楽譜ぽんって渡されて歌える子なんて居ないんだよね」

それは確かに、そうだろう。
軽くカルチャーショックの体験談に近いモノを感じ、思わず笑ってしまった。
というか、笑ってないと、顔が赤くなりそうだった。

「で、英智くんなら最適かなって思って!」
「僕が?」
「うん。というか、英智くんに歌ってほしいな。
私の幼馴染の曲は、宇宙で一番素敵だから――いつも一番のアイドルになりたくて頑張ってる英智くんなら、きっともっと素敵にしてくれるって思って」
「――僕で、いいのなら。いつか楽譜を、持ってきてほしいな」

言葉に詰まりそうだった。けれど、なんとか言い切る。慣れてなさすぎる事態に、動揺してしまっていた。

けれど、千夜は笑ってくれた。

「――じゃあ、その時は今日みたいに、英智くんの歌を独占させてね」
「ああ。約束しよう」
「うん。約束」

けれど、英智は一年生の間、ほとんど体調を崩していることが多かった。
結局、たった一人の観客のためのライブは開けないまま。

むしろ、英智のした決意は、完全に千夜と自分の友情を破壊してしまった。

これも予定のうちではあったけれど。もう二度と見ることができないだろう、『宇宙で一番素敵』な楽譜は、少し、ほんの少しだけ……惜しいと思う。そんな高2の冬だった。