その日は朝から天気が悪かった。もやもやと嫌な胸騒ぎがするような、淀んだ天気だった。
ゴロロロと、遠くから雷の音が降っている。じめりと湿った空気はこの後の雨足を予想させ、鬼ごっこが出来ずに残念がる少女の顔が思い浮かんだ。その日に限って少し混んだ道路に苛立ち、無意識にアクセルを踏む足に力を入れた。
*****
今日は降るなこりゃ。
エドワードが言う。私は車のエンジンを切ってすぐに、違和感を感じた。エンジンの音を聞きつけて駆け寄ってくるはずの存在が、ないのだ。
ざわざわ。ざわざわ。
大きな風に揺さぶられた木々。その枝に茂る木の葉が激しくぶつかり合い、悲鳴のような音を立てる。木々と一緒にざわめくのは風だけじゃ、ない。
何故かぞわりと嫌な予感がする。私は右手をホルスターに掛けて、扉を開けた。しん、と静まり返った玄関ホールは、昨日までの雰囲気を塵一つも残していない。「誰もいないのかな」、と周りを見回すエルリック兄弟。気付かないのか、この空気に。
タッカーさん?ニーナ?
名前を呼ぶも反応は返って来ない。アレキサンダーの鳴き声すら、聞こえない。私は自分が早足になるのを自覚した。もはやエルリック兄弟に気を遣う余裕もない。それほどまでに、この館の雰囲気は、異様だ。おかしい。何かが起きている。
ざわざわ。ざわざわ。
扉を閉めても風の音がごうごうと鳴り、窓を揺らす。ちきり。ゆっくりとピストルの安全装置を外すが、手の中の重みは、それでも私に安心を与えてはくれない。
暗い研究室に、その姿はあった。エドワードが男の背中に向かって笑って声をかける。
「なんだ、いるじゃないか。」
「ああ、君たちか。見てくれ、完成品だ。」
人語を理解する合成獣だよ。タッカー氏の声が遠くから響く。
"それ"を視界に入れた瞬間、心臓が爆発しそうな程大きく鼓動した。
長い毛並み。前髪のような毛の隙間から覗く虚ろな瞳。それはまるで犬のようにも人のようにも見えた。
ニーナとアレキサンダーは相変わらず現れない。感嘆するエドワードをよそに、私はふらふらと廊下に出て、小さく「…ニーナ…」と呼ぶ。声が馬鹿みたいに震えた。
まさか。まさか。
胸騒ぎは止まない。それどころか、大きくなっていく。ニーナ。ニーナ。どこにいるの。返事をしてよ、ねえ。ニーナ。
そんなことは、あってはならない。こんな最悪な想像、現実に起きては、ならない。胃がせり上がるような不快感、顔から血の気が引くような、戦慄。
はやく、はやく出てきて、ニーナ。
「いいかい?この人はエドワード。」
「えど わーど?」
「信じらんねー本当に喋ってる…。」
「あー、査定にまにあってよかった。」
「えどわーど、
えどわーど 、
えど わー ど 」
「おお…、」
「お
にい
ちゃ」
「!!」
エドワードの目が大きく見開かれた。ああ、気付いてしまった。彼もきっと、気付いてしまった。いつもは強い金の瞳が、動揺からか少し揺れていた。
遊んで、とでも言うように足元に擦り寄ってくる合成獣を、いつものように撫でた。
気持ちよさ気に細めるこの瞳を私は知っている。撫でるとサラサラと流れるこの毛並みを、私は知っている。垂れ下がるこの耳も、地面を駆ける大きなこの足も。私は全て知っている。全てが彼らに重なる。苦手だった無邪気な笑顔が、脳裏を過ぎった。
ぺろりと私の指を舐めるその仕草。途端に頭が沸騰したように熱くなる。喉が詰まる。手が震える。この感覚は、一体なんだ。
「タッカーさん。人語を理解する合成獣の研究が認められて資格取ったのいつだっけ?」
「ええと…2年前だね。」
「奥さんがいなくなったのは?」
「…2年前だね。」
「もひとつ質問いいかな。」
ニーナとアレキサンダー、どこに行った?
怒りに満ちたエドワードの顔で、ようやくわかった。
そうだ、私のこの感情は。
「…君のように勘のいいガキは嫌いだよ。」
怒り、だ。