ああ、まるであの時と同じだ。口の中でそうごちた。
誰にも知られることの無い私だけの重い想い。大佐だって、きっと本当の私の気持ちはわからない。わからせないように生きてきたのは、私自身なのだから。
降りしきる雨に頭を冷やされる。あんなに感情を露わにしたのは久々だった。顔の筋肉が引きつったように感じる。ずぶ濡れの私の後ろから黒いコートを掛けて、頭に手を乗せたのはマスタング大佐だった。
「すみません、」と言う声は掠れてしまった。
「エル。」
「…すみません。私、」
許せなかった。犯罪者なんて何人も見てきているのに、被害者の涙だって見てきたのに。
ニーナ。無邪気な笑顔は苦手だったけれど、嫌いじゃなかった。ちっとも煩わしくなかったと言ったら嘘になるかもしれないが、それでもあの子の笑顔が消えないといいと思っていたのだ。
だから、それを消したタッカーが許せなかった。ニーナは、人体実験なんかで弄ばれていい命なんかじゃなかった。
タッカーに銃を突き付けたのは、ニーナのためじゃない、私のためだ。私の怒りを鎮めるためだ。ニーナに、アレキサンダーに止められていなければ、きっと私はあの時引き金を躊躇なく引いていた。
「エルリックさんに偉そうなことを言っておいて、子供なのは、私の方ですね。」
「君の判断は間違っていなかった。」
「泣かないなんて、なんて薄情な女なんでしょうね。」
「…泣くだけが優しさじゃないさ。」
ビニールシートを掛けられた床には、夥しい量の血液がぶちまけられていた。内部から破壊されたような遺体は痛々しくて誰しもが顔をしかめてしまうほどだった。
私はビニールシートを剥がして、その長い毛並みに手櫛を通す。血濡れの毛並みは指が通らずに爪の間に固まった血液がまとわりついた。
ああ、ニーナ。せっかく綺麗な髪の毛だったのにね。姿は変わっても暖かかったその体は、死後硬直が始まっていて、逆に私の掌の体温を奪っていく。数日間ニーナとアレキサンダーに掴まれていた軍服の袖と、タッカーへ銃を向けた時に引っ張られた上着の裾は少しだけ伸びている。
彼女達が生きていた、小さな証。
「エル、少し休め。」
「いえ、仕事は仕事、ですから。」
「命令だ。休め。休まないのであれば、街の見回りへ行け。ここに居ることは許さん。」
「…ずるいですね、マスタング大佐は。」
神妙な面持ちの大佐の肩を拳で叩いて、私はタッカー氏宅を後にした。ニーナを二度も救えなかった私は無力だ。涙の一つでも流れればすっきりするのかもしれないのに、私のそれは枯れ果ててしまったように何の反応も示さない。
自分の感情の希薄さに嫌気が差して、ありったけの力で壁を殴る。パラパラと落ちるのはコンクリートだけ。
少し血が滲んだ右手は、彼の、エドワード・エルリックの拳を止めた手だ。
ぎゅうと握り締めた右手。私はこれからこの右手で、どれだけの命や誰かの幸せや誰かの希望を取りこぼしていくのだろう。これからこの手はどれだけ私以外の血で濡れていくのだろう。降りしきる雨はそんな汚れまでは落としてくれない。
ニーナ。ニーナ。ごめんね、ニーナ。あなたを、助けてあげたかったよ。