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「准尉!エル・マスタング准尉!」



焦ったような大きな声で呼ばれた名前に私は足を止めた。現れた憲兵は、急いでいたのかブーツには泥が跳ね、傘を差していないため黒いコートはしっとりと濡れている。

私が振り返ったのに彼は安堵の息を吐き、背筋を伸ばして敬礼した。



「マスタング大佐からの伝令です!一度本部に戻るようにとのことです!」



まだ若く見える彼は少し緊張したような面持ちで、敬礼を崩すことなく言い切った。

本部に戻れと言うことは、非常事態なのだろう。私は憲兵に軽く敬礼をし返して、来た道を引き返そうと踵を返す。左腕に付けられた古びた腕時計を見ると、長針はあと数分で頂点を差すだろう位置にあった。ふう、と一つ息を吐く。

この仕事は本当に心の休まるときがない。しかし、今はそれがむしろ有り難いと思った。1人でいたらきっと無駄な事を考えてしまう。ぐちゃぐちゃと巡り巡る思考は邪魔になる。忙しい中に身を置けば前のことだけ考えられる。

いや、この青い服は、私の覚悟だったはずだ。何を捨てることになったとしても、自分の命を捨てることになったとしても、決して立ち止まらないと。

この軍服に腕を通したとき、そう決めたはずだ。追い求めるものがあるならば、立ち止まってはいけない。立ち止まったら、そこで終わりだ。

一度顔を叩いて、先程まで締まらなかった顔を上げる。目を開けて前を見据える。私は結局、前へ進むしかないのだ。そう改めて決意した私は一歩を踏み出した。

この目に映るものが希望でも絶望でも、踏み出したこの足は止めない。



「あ、失礼。」

「…。」

「…?」



とん、と、路地から出て来た男性と肩が触れた。顔に大きな傷のある男だ。男性は雨だと言うのにサングラスを掛けている。見下ろすその目はレンズがフィルターになってこちらからは窺えない。
私の黒いコートに包まれた青い軍服を下から上へ睨めつけて、最後にぴたりと交わった視線を先に反らしたのは男性だった。

「すまなかった」、そう私に声を掛け私とは逆の方向へ足を進める彼。雨の匂いに隠れて彼から僅かに臭ったのは、血の臭い、だ。

「あなた」、と声を掛けると、彼は足早に去って行ってしまった。彼の腕を掴みかけた手は、コートに少し触れるだけで空を切った。逃げるように走る彼。時計台の方向だろうか。

…違和感と、疑念。それはきっと、思い過ごしではない。



「…マスタング大佐に伝令を。」

「え、…は、はっ!」 

「怪しい人物を見つけた。事情聴取の後に本部に戻る。」



憲兵の返事を聞く前に、私は男性を追い掛けた。あんなに血の臭いが染み込むような人間、軍人か犯罪者くらいしか、いない。

ニーナの亡骸を撫でた手。アイザックをこの手で葬った手。取りこぼした物も、私が壊した物も、全部この手に染み込んでいる。

ああ、そうだ。きっと、そうだ。

私もきっと、同じ匂いがするのだ。