俺達のように絶望するでも、ロス少尉達のように同情するでもなく、彼女はそこに居た。俺にとってはもう触れたくもない研究書を、一つ一つ目を通しながら拾い上げる。彼女が何を考えながらそれを拾っているのか、俺にはわからない。いつもの無表情で拾い上げる様を、俺はただただ見ていた。
「帰りましょう。」
ロス少尉達が退室した後、それまで俺が叩きつけ床にばらまかれた研究書を黙々と拾っていたエルが静かに口を開いた。トントンと資料を揃えると、彼女は真っ直ぐに俺を見つめる。同情だとか気遣っているだとか、そんな視線ではなかった。でも決して冷たい視線ではない。ゆるりと視線を合わせると彼女は僅かに目を細めた。
そんな視線に背中を押されて、重い腰を上げて溜息を一つ。とてもじゃないが宿に戻って落ち着くような気持ちでもない。けれど、他に行くところもない。アルフォンスに帰るか、と小さく問えば弟も小さく落ち込んだ声で肯定の言葉を紡ぐ。
図書館の前に立って溜息をもう1つ。じゃあなと後ろ手に手を振る。ではまた。事務的に返す彼女に、何でか、何か言葉を掛けなくてはと思った。もう俺達とは反対の道へ足を動かそうとしている彼女の背中に声を投げかける。
「エル!」
そうやって名前を呼べば、彼女はゆっくりとこちらを振り返った。
何か?言外に問う彼女の視線。俺は視線をあちらこちらにさまよわせながら必死に言葉を紡いだ。
「お前は、もし賢者の石で記憶が戻るとしたら、使うか?」
「使います。」
あまりの返しの早さに瞠目していると、エルはもう一度ゆっくりと、使いますよ、と繰り返した。その瞳は遠目から見ても解るくらいに強く、真摯な瞳だった。
何故。お前だって賢者の石の材料がわかっているだろう。あの研究は悪魔の研究だ。自分で聞いたことなのに、何故だろう。彼女に使わないと即答されていたら、もしかしたら腑に落ちたのかもしれなかった。それでも彼女は俺の望む答えを与えてはくれない。
何の犠牲も無しに何かを得ることは出来ない。解りきっていたはずの等価交換の法則は、今は俺の気持ちを落ち込ませるだけなのだった。
「あなた達に、誰かの命を犠牲にしろとは言いません。でも、私とあなた達は違う。私は、誰かを犠牲にする事で今の地位にいる。誰かを犠牲にしながら存在している。」
そこまで言って彼女は黙ってしまった。夕日の逆光で表情はわからない。けれど、何でかいつもの無表情では無い気がした。気がしただけ、だけれど。
…私、は。小さく呟いた声はひゅるりと吹いた風に吹き飛ばされそうな位弱々しいものだ。いつもと違う様子に内心で焦ってしまう。
「…マスタング准尉…?」
アルフォンスが不安げに訊ねるも、彼女はそれに答えることなくゆっくりと目を瞑った。ぎゅ、と隠された瞳がどんな感情を映しているのか、俺にはわからない。それでも、彼女の様子は、そうだ。まるで。
「まだ仕事があるので失礼します」、と小さく言い、彼女は駆けて行ってしまった。次第に小さくなる青い背中はいつもよりずっと小さく見えた。追う気には、到底なれなかった。
きっと、アルフォンスには聞こえていなかった。その背中が去る前に、彼女が言った言葉。風の音に掻き消されるくらい小さな声を、俺の耳だけは拾ってしまった。
「私は、貴方達みたいに綺麗じゃない。」