霧雨の空の下



珍しい光景を見た。
誠と吉岡くんが何やら話をしているのだ。
二人が話している光景もそうだけど、そもそも吉岡くんがクラスの誰かと話している様を見るのが初めてかもしれない。
どちらから声をかけたかまではわからないけれど、吉岡くんは無表情のまま、誠は若干眉を顰めている。

「おい、恵美」

そんな様子をぼんやり眺めていると、突然名前を呼ばれて小さく飛び上がってしまった。
誠が視線をいつの間にか吉岡くんから私に移し、ちょっと来いと手招きしている。

「なあに?」
「いいだろ、吉岡?」
「噂を確かめられるなら、何でもいいよ」

相変わらず表情を崩さず、吉岡くんがぼそぼそと言ったと思うと、彼は踵を返し自分の席へ戻って行ってしまった。
彼の言動に状況を飲み込めずにいると、誠が声を潜めて言った。

「三日後の深夜、迎えに行くから来いよ」
「え?どういうこと?どこに?」

誠に合わせ声を抑えて聞くと、にやりと口角を上げて一言、私に言い放った。

「旧校舎だ」



誠が笑みを浮かべた瞬間、嫌な予感はしていた。
ああいう顔をした時、彼はたいてい悪いことを考えている。
今まで私が巻き込まれたことはなかったから、とうとうか、と腹を括るような心持ちだった。

言われた通り深夜2時半に家を出ると、既に誠が到着していた。
うちの正面の壁面に寄り掛かっていた彼は、私の姿を確認すると軽く片手を挙げた。
二人並んで学校へ向かう。
この時間に外出することも、夜の学校に行くのも初めてだった。
もちろん、旧校舎へ入ることも。

「ねえ…旧校舎って、立ち入り禁止でしょ?入って平気なの?」
「しょっちゅう行ってるから大丈夫だ、慣れたもんだよ」
「………」

たまに昼休みにいないときは旧校舎を探検している…なんて話していたことがあったが、本当だったとは。
既に使われていないのと、老朽化が進んでいるということで、先生たちは立ち入り禁止を決定した。
そんなところにしょっちゅう…。
危ないから止めてよ、と言ってはみたが、逆に旧校舎の面白さを説かれてしまった。

「そもそも、どうして吉岡くんと話してたの?」
「俺も驚いたよ。あいつから声をかけて来たんだ」
「吉岡くんから?」

普段クラスの誰とも話しているところを見たことがない。
そんな彼から話しかけられたとは。
聞くと<深夜3時33分33秒に合わせ鏡をすると何かが起こる>らしく、それに付き合ってくれと頼まれたという。

「何で誠に?」
「さあな。別に断る理由もないし、ついでにお前に旧校舎を案内してやろうと思ってさ」
「ええ、怖いよ…」
「俺がいるんだ、心配いらねえよ」

確かに誠がいれば不安は微々たるものなのだけど。
<何かが起こる>という言葉が引っかかって、頭から離れてくれなかった。

学校に着くと、既に吉岡くんは到着しているようだった。
懐中電灯と袋を手に、ぼんやりとどこかを眺めて立っている。
その姿に一瞬恐怖してしまった私の横で、誠は普段と変わらない声色で声をかけていた。

「吉岡、待たせたな」
「ああ、新堂くん。彼女も来たんだね。じゃあ行こうか」

私がいることも意に介さず、吉岡くんは淡々とした言動で敷地内へ足を踏み入れていった。



電気が通っていない旧校舎は一面闇に包まれ、月明かりがあるとはいえ、懐中電灯ひとつでは心もとない程だった。
念のために持ってきていた懐中電灯を付けると、吉岡くんとは別方向を照らす。
老朽化の話の通り、木造の床や壁は大部分が割れたり欠けたりしていて、内部は黴のような埃のような匂いと澱んだ空気が同居している。
ぎいぎいと三人が歩くたびに、床の板が不規則に軋み音を立て、時々散らばっているガラスの欠片が甲高く鳴る。
旧校舎に入ってからの私は、とにかく恐怖でいっぱいで、空いた片手で誠のパーカーの裾を力強く握り締めていた。
暗く何があるかはっきりとわからない視界、恐怖心を煽る板の音、異界に来たとさえ思えてしまう匂いと空気感。
そんな私を半ば引っ張っていくように一歩前を行く誠と、数歩前をすたすたと迷いなく歩く吉岡くん。
どうして二人は平気そうに歩けるんだろう…。
恐怖と困惑がない交ぜになった気持ちのまま、私たちは目的地に到着した。

「ここだよ」

抑揚のない声で吉岡くんが見上げた先に、件の姿見があった。
懐中電灯の光が不意に反射し、視界が遮られる。
私が懐中電灯を消すと、月明かりの射さない踊り場は、吉岡くんの足元だけをぼんやりと明るく照らした。
空気はひんやりと冷え、外と世界が違うのではないかと思わせるほどに寒気が走る。
誠にくっつくように距離を詰めると、普段と変わりない彼は腕時計を確認していた。

「3時31分だ。33分になったら言うからな」
「わかったよ」

すう、と吉岡くんが深呼吸をしているのがわかる。
闇に目が慣れ、吉岡くんの姿が認識できるようになると、がさがさと袋が音を立て、一枚の鏡が取り出された。
女の人が使うような化粧鏡だった。
姿見に向けないように手に持ち、誠の一声を待っている。
合わせ鏡の話はあまり詳しくないけれど、少なくともいい話は聞いたことがない。
どくん、どくんと、心臓がゆっくりと、しかし大きな音を立てている。
頭というか耳元で同じ音が聞こえているような感覚から、裾を握る手に力が籠った。

「33分だ」

ごくり、と喉が鳴る。
吉岡くんの懐中電灯の光は、小刻みに震えているように見えた。
誠のカウントダウンが始まる。
無意識に一歩、私は後ずさってしまった。
……20秒。
この後目の前で何が起こるのか。
平然としている誠と真逆の私は、緊張、不安、慄然でいっぱいだった。
……25秒。
手には冷や汗をかいていて、懐中電灯が落ちないようしっかりと握り直す。
……30秒。
私は呼吸も忘れて、吉岡くんの背中を見つめた。

「33!」

誠が言うのと同時に、吉岡くんが化粧鏡を正面に向けた。
私の位置ではそれぞれの鏡に映るものが見えない。
ただ相変わらずの無表情で、眼前の鏡を見つめる吉岡くんの表情だけが認識できた。

「……っ!」

私は息を呑んだ。
その吉岡くんの顔が歪んだと思ったら、姿見から女性の姿がゆっくりと現れたのだ。
半分は美しい顔と黒髪だけれど、もう半分はただの骸骨。
黒いドレスのようなローブのような姿で、吉岡くんを見下ろしている。
その見た目に死神を想起し、呼吸を忘れるほどに目の前の光景に釘付けになる。
怖い。
その女性は囁くように、吉岡くんに何かを言っているようだ。
…怖い。
みんなどうなってしまうのか。
…こわい。
怖いのに、金縛りにあったように全身が硬直し、動かすことができない。

「手の血を飲みたいんですか?」

初めて聞く吉岡くんのはっきりとした声が、乾いた空間に響き渡る。
肯定を示すように、女性はゆっくりと頷いた。
それを確認すると、吉岡くんは一歩、また一歩と姿見——否、女性に向かって行く。
一瞬息を呑んだ誠が彼の名を叫んだ。
それも聞かず、おぼつかない足取りで女性の目の前に立つと、左手を迷いなく差し出す。
顔半分でにっこりと笑いながら、死神のような彼女は真っ白な手を吉岡くんに向けて伸ばした。

「……!」

ずるりと落ちそうになる懐中電灯をなんとか持ち直す。
吉岡くんの背中で見えないけれど、恐らく手に口を寄せ、その血を……。
私の思考は完全に停止していて、目の前の光景をただ受容していた。

途端、ぐらりと吉岡くんの背中が傾き、がたんと大きな音と共に床に倒れ込んだ。
割れた板が乾いた音を立てて散開する。
私は吉岡くんの様子を確認するべきなのに、それができない。
目の前の死神が、私を射抜かんばかりに見つめていたからだ。
見開いた片目と、吸い込まれそうな闇を湛えた空洞が、確実に私を捉えている。
自分が呼吸をしているのか、ちゃんと立っているのかわからないほど、全身の感覚が奪われていた。

「…この血の代償に、何が欲しい?」

美しく微笑むように、彼女は言った。
…血を捧げた吉岡くんではなく、私ないし誠に向けて。
声が出ない私たちの視界の端で、微かに倒れた人影が蠢いているのに気づくと、死神はそちらに視線を移した。
僅かに首をもたげた吉岡くんは死神に向かって何かを言っているようだった。
不意に、死神は再び微笑んだかと思うと、ゆっくりと姿見の奥へ溶けるように消えていった。
私がそれを最後まで見届けるかどうかというタイミングで、床が鈍く鳴る音が響く。
視線だけを音の方へ向けると、吉岡くんが倒れ込んでいる姿が目に入った。

「あ……」

ようやく目の前の出来事を現実として認識し始めると、麻痺していた恐怖が蘇ってくる。
信じられないが、姿見から現れた死神のような女性。
その女性に血を与えた吉岡くん。
そしてその彼は今…。

「……!?」

吉岡くんの現状に向き合おうとしたとき、急に片手が引っ張られ、足がもつれて転びそうになった。
誠が私の手を引き、走り出したのだ。
視界から吉岡くんが消える。
誠は私から懐中電灯を奪い取ると、目の前を照らしながら全力疾走した。
二階は床の状態がひどく、抜けている部分やガラスが散らばっている箇所が多くある。
彼はそんな場所を避けながら私を引っ張っていく。
姿見も、吉岡くんも、もう見えない。
私は前を向いて進まなければならないはずなのに、視線はあの踊り場の方から逸らすことができなかった。

来た時に感じていた空気感や床の音といった雰囲気を忘れたかのように、ひたすら旧校舎の階段を駆け下り、廊下を走り抜ける。
誠に引っ張られている私の足元は半ば浮いているような状態で、転ばないように足を動かすので精いっぱいだった。
彼は何も言わない。
ただ手首を掴むその手はとても力強く、その痛みが私を現実に引き戻してくれているのは確かだった。

そのまましばらく走っていると、じゃり、と砂を踏む感触で、自分が外に出たのだと気づく。
その音は重く、遅れて霧状の水分が顔を包むのがわかった。
旧校舎から脱出した私と誠は、霧雨の中、荒い呼吸を繰り返した。
呼吸が落ち着いてくるにつれ、先ほどの出来事がゆっくりと思い出される。
それに合わせて倒れた吉岡くんの姿が脳裏に浮かぶと、私は誠に言い寄った。

「誠…誠!ねえ、吉岡くんは…!」

俯く彼は、ぼんやりと地面を見つめているようだった。
その姿に、私はより焦燥感に駆られ、彼に食って掛かるように正面に立った。

「ねえ…!助けに行かないと!まだ中に…」

刹那、握ったままの私の手首を引っ張ると、誠は私を強引に抱き寄せた。
視界は彼の胸に遮られ、後頭部を抑えられるようにし、少し息苦しさを感じた。

「あいつは……」

私の背中に回った腕に力を込めながら、感情をなくしたように誠はぽつりと呟いた。

「死んだよ」
「……!」

もしかしたら、そうかもしれない。
でもそうじゃないかもしれない。
二つの相反する気持ちが同居していた私の心が引き裂かれるような感覚。
後悔も焦燥も慄然さもなく、ただ淡々と事実を言葉にした彼の声は、私に現実を突きつけた。
吉岡くんの手に口を寄せたあの女性は、手の血に留まらず、全身の血を吸いつくしたのだという。
床に転がった吉岡くんの肌は、彼女の手と同様真っ白になっていたと。

「そんな……」

事実を受け入れられず、無意識に涙がぼろぼろと零れる。
それと同時に、私の頭に雫がぱたりぱたりと落ちてくる。
顔をなんとか動かして見上げると、それは誠の涙…ではなかった。
霧雨が彼の髪を濡らし、その雫が私に降ってきていたのだった。

「誠…?」

てっきり泣いているのかと思った彼の目は、虚ろに正面を見つめている。
それは旧校舎を見ているわけでもなく、先ほどの出来事を思い起こしているわけでもないようだった。
その視線が私に向けられる。
感情が読めないほど冷め切っているような表情。
悲劇があったとは思えないくらい冷静な態度。
私が呆気にとられていると、急に彼の顔が近づき、私の半開きの口が塞がれた。

「ん……っ、ぁ……まこ、と……っ?」

霧雨で冷えた唇は感覚が鈍く、私の口中を貪るように入り込む彼の熱が掠めるたび、ぴりぴりと痺れているような感じがする。
必死に受け止めるけれど、乱暴なそれに息苦しさがこみ上げてくる。
いよいよつらくなって来た頃、誠は唇を離すと、再び私を強く抱きしめた。

「……お前が、無事で、よかった」

耳元に届く掠れた声と雨の雫、彼の体温に包まれて、私は暫くそのまま泣き続けた。
そんな私を守るように、そして無事を確認するように、彼は私が泣き止むまで抱擁とキスを繰り返した。
否、自分を落ち着かせるためだったかもしれない。
まるで先ほどの出来事は夢なのだと、私を、そして自分を説得しているかのように。
縋るような彼の仕草を受け止めながら、私はただ一言、独り言のように口にした。

「私たちが、忘れちゃ、だめだよ…」



翌日以降、吉岡くんを教室で、学校で見かけることはなかった。
先生たちは明言を避け、学年では家出だの事件に巻き込まれただの、好き勝手に言って騒いだ。
先生が明言しなかった…いや、できなかったのは、吉岡くんの姿が確認できないから。
旧校舎のあの鏡の前で倒れていたはずの吉岡くんは翌日、そこにいなかったのだ。
懐中電灯も鏡も袋も何一つなく、はじめから彼はそこに来ていないような風景だけがあった。

誠はあの日以来、その出来事を口にはしなかった。
ただ、私が<危ないから止めて>とお願いしたことは、一切やらなくなった。
…旧校舎に行くことも。
そして、これまで以上に誠は私を大切にしてくれるようになった。

「恵美……好きだ。俺から離れるな、何があっても」

決して口にはしないけれど、彼はあの日を境に変わった。
私も。
好きな人との時間を、大切にしたい。
あの霧雨の日、心に誓ったから。



title by 確かに恋だった 1309



EHL.