雪に埋もれた声

肺が千切れてしまうかと思うほど、苦しいと身体は悲鳴をあげている。しかしだからといって立ち止まればAKUMAに追いつかれる。そして、少女の命に危険がおよぶ。それだけは避けなければ。その一心で、偲月はただ走り続けていた。足場の悪い雪の道は、彼女の体力を大きく削いでゆく。何処に向かっているのかは自分にすらわからない。だが、あの場所から、彼がいる場所から出来るだけ遠くに離れなければ・と本能的に思っていた。
縺れる足を半ば引きずるようにして、偲月はようやく足を止めた。倒れ込むように膝を雪の上へと付いた彼女の顔色はもうない。懇願するような瞳を背後に向け、そこにAKUMAの姿がないことを確認して偲月はようやく息を吐いた。

「すぐに、また、逃げるから、少しだけ、待ってて…!」

少女に向かって投げた言葉がうまく発せれていたかなどどうでもよく思えた。酸素が足りず、朦朧とする意識を必死に保とうと、大きく冷たい空気を吸い込んだ。肺に酸素を出来るだけ短時間で多く取り込もうと努めながら、偲月は周囲を見渡す。

森の中のようだった。
白い雪の積もった広場のようなこの場所は、周囲は木々で囲まれている円状の空間。姿を隠すために敢えて足場の悪く、入り組んだ森の中を走ってきていたからたどり着いたのだろう。誰も足を踏み入れたことがないようなそこは、自分達の足跡以外ない汚れの知らない空間で。空気までも、清浄に思えた。

「…?」

否、違う。空間そのものが今まで自分がいた場所とは違うように思えた。身体を少し動かすだけで息が上がる自分に苦笑を洩らす余裕もないままに、偲月はある一点を凝視する。
雪が光に反射して光っているのかとはじめは思った。けれどこの清浄な空気、雰囲気は、その光から周囲に広がっているように見える。

「イノセンス…?」

思わず零れたその単語に、偲月ははっと気づく。そうだ、あれはイノセンスだ。AKUMAも自分達と同じようにイノセンスを目的としている。だからあれほど大量にAKUMAがこの場に集結したのにも頷ける。

休みと酸素を欲する身体を無視して、偲月は立ち上がる。よろめきながらも、その光へと誘われるかのように一歩一歩踏み出した。ゆれる視界のせいで光がふたつ、みっつと分かれていく。けれど存在しているのはひとつだけ。
ゆっくり足を進め、ようやくイノセンスに手が届く。そう、思った瞬間。

光が宙に浮く。それと同時にイノセンスに被っていた雪がはらはらと零れ落ちた。否、浮いたのではない。何者かの手によって拾われたのだ。
目を瞠り、反射的に顔を上げた。瞬間。

「バイバイ、お姉ちゃん」

子ども特有の高い声と、ドンッという鈍い音と、一拍遅れて灼熱と痛みが下腹部から全身へと走った。
ぐらりと今までの比にならないほど揺れる世界。気持ち悪さと熱がある一点から湧き上がる。掠れる視界を必死に凝らし、彼女が見たものは。

怪しく笑う、少女の皮を被ったAKUMAだった。


「偲月…?」

“何か”を感じて神田は動きを止めた。彼の足元を中心とし、周囲には大量のAKUMAの残骸が散らばっており。無意識に払った六幻から、今しがた斬り捨てたAKUMAの破片がぱらぱらと雪の上へと落ちる。

妙な胸騒ぎがする。

ざわざわとどよめく胸の内を必死に押し隠し、神田は残り数体となったAKUMAに意識を集中させた。