沁み渡る、そう、綺麗すぎるほどに

ぐらりと揺れる身体。重力に逆らうことが出来ず倒れた身体は、自分のものとは思えないほどひどく冷たく。それでも必死に顔を上げて、偲月は目の前の少女だったものを、悔しさに歪んだ顔で睨んだ。少女をAKUMAだと全く警戒しなかった自分の失態が招いたこの現状に、偲月は悔しさと罪悪感に苛まれつつ、心臓が鼓動を打つたびに血が溢れ出る右の下腹部を手で押さえつけた。打ち込まれた弾丸はAKUMAのウイルスを含んでいるが、寄生型の偲月にそのウイルスは効かない。しかし貫通しているとはいえ傷は決して軽いものではなく。痛みを堪えるために噛み締めた奥歯が、ギリッと口内で鳴った。

「いつから、AKUMAだった…!?」

言葉を一音発するごとに、胃の中のものが逆流しそうになる。どこか冷静な自分が、昨夜も今朝も何も口にしていなくて良かったと思った。そう、自分が最後に口にしたものはこの少女から買ったキャンディひとつ。
それを思い出して、偲月は更に表情が歪むのを感じた。それが痛みからなのか、寒さからなのか、それとも哀しみからなのかは自分でも分からない。

「いつからでしょうー?でもお姉ちゃんにキャンディを売ったときはまだ“私”だったよ」
「私…?」

AKUMAは自分をAKUMAにしたものの皮を被って人間に成りすます。つまりは今眼前で笑う少女の“中身”は少女とは別の人間の魂ということになる。しかし、AKUMAは“私”と自分を称した。手放してしまいそうになる意識を保つために、必死に混乱する頭の中で考える。無邪気に笑いながら言う少女の発した単語に違和感を覚え、偲月は眉を顰める。そうだ、はじめから違和感はあったのだ。“私”と称し、“私”の外見を持つAKUMA。その意味に、偲月ははっと目を見開いた。

「双子…!?」

当ったりー!と少女が嬉しそうに笑う。けれどその笑みは少女という人形に貼りついた、全く心のこもっていない気味の悪いそれで。

「妹がね、私をAKUMAにしたの。だからまだ私は生まれたてで本当なら自我も持たない下っ端なAKUMAなんだけどー。片っ端から人間殺して、最短で進化したのでしたー!」

手に取ったイノセンスに頬擦りしながら、少女は笑って言う。あの方がいろいろ助けてくれたから出来たんだけどねーと添えられたその声は、某然とAKUMAを見る偲月には届いていなかった。

「せっかくイノセンスも見つけたし。エクソシスト殺したら、私、もっと進化出来そうじゃない?」

カチリ、と少女の身体が変形し、大きな銃口が偲月の頭へと突きつけられる。

「バイバイ、お姉ちゃん」

先ほどと同じ言葉を、全く同じ声音、口調で言い切った少女。しかしその姿はもう少女と称することは出来ない、ただの哀しみの機械へと成り下がっていた。キュイン、と音と立てて銃弾が偲月へと発射されようとしたそのとき。

「眠れ…!」

掠れて、裏返りながらも発せられたその文句。半ば叫ぶようにして発せられたそれは、AKUMAの動きを寸でのところで止めた。偲月の双眸がより赤く光る。この絶体絶命の状況で、彼女がひとつだけ犯さなかった失態。それは、身体に負担がかかり体力を大きく削られるとわかっていながらも、イノセンスの発動を止めていなかったことだった。
AKUMAが襲ってきたときすぐに少女を護ることが出来るようにと、苦しいのを我慢してずっと発動し続けていたイノセンス。それが護るはずだった少女を破壊するために使われたというのは、何とも皮肉でありAKUMAにとっても誤算であっただろう。

ガラン、という音と共に崩れ落ちたAKUMAの身体。そして、解放された少女の魂。解放する寸前に、昨夜会った少女の魂の声が聞こえた。ごめんなさい。と、ずっと謝り続けていた。

「気づいてあげられなくて、ごめんね…」

きっと、自分と別れてすぐにあの少女は死んだ。事故だったのか、AKUMAに殺されたのか。何にせよ、残された少女の妹は苦しんで苦しんで哀しんだ。伯爵の甘い誘惑に負けて、姉の命を乞うた。そして、蘇った姉によって殺された。

心の中であの少女と今自分が破壊した少女に祈りを捧げ、偲月は力の入らない腕で這って目の前に落ちたイノセンスを掴む。それを握り込みながら、近くの木に背を預けもたれかかった。
額に脂汗が浮かんでいることを嫌な感触で悟りながら、偲月は湧き上がる痛みを逃すかのように大きく息を吐き出した。ズキズキと走る痛みと共に、目の前の揺れが大きくなる。

ユウは、大丈夫かな…?

自分達を逃がすためにAKUMAを引きつけてくれている彼の身を案じ、偲月は遠くに目を馳せる。
自分を追ってここにたどり着き、こんな状態の自分を見たとき彼は一体どんな反応をするだろうか。きっと怒られる。だから寝ろっつったじゃねぇかと凄い剣幕で怒るに違いない。
簡単にその情景を想像できて、偲月は小さく笑う。そして彼が迎えに来るまで暫く眠ろうと重くなった瞼を閉じようとした。そのとき。

「チビちゃん壊したの、お嬢ちゃん?」

第三者の声が響き、反射的に偲月は目を見開いた。不思議と一瞬にして覚醒した意識と視力。先ほどまで自分以外の気配すらなかったそこに、今は静かに立ち出でているものがある。自分の血によって周囲の雪は赤く染まっている。だから目の前の世界の色は、白と赤しか存在していないはずなのに。
白の中に浮かぶ、黒。

考えられないほど時間が進むのが遅い。それに比例して彼女の動きも遅くなる。偲月は恐怖にも似た感情を瞳に乗せて、目の前に立つものを足先から見上げていった。徐々に明らかになるそのものの姿。バランスの取れた身体に、黒のスーツ。怪しい笑みを浮かべて自分を見下ろす灰色の肌を持つ男の姿。その額には十字架にも見える聖痕が。

不意に、昨夜の彼の声が蘇る。
アンノウンって何?と訊ねた自分に、彼は、さらりと答えたのだ。

『アンノウンってのはな…』

「はじめまして、エクソシストのお嬢さん?」

ニコリと笑ったその男の笑みは、ゾクリとの背筋を逆撫でた。

頭の中で、大好きな人の声が鳴る。

『伯爵側についた、ノアの一族だ』