死の世界はスローモーション

息が、うまく出来なかった。
ヒシヒシと肌に刺さるその男の気配はただの人間のそれではなく。痛みとは別の理由で背中にじっとりと浮かんだ汗が冷えて冷たくなるのを偲月は感じた。目の前に突然現れた男は“チビちゃん”と称した少女の皮を被ったAKUMAの残骸を見渡し、ひとつ頷く。

「せっかく俺がサポートして人間殺させて進化させてやったのに、もう破壊ヤラれちゃったんだ?」

やっぱりそれなりに時間掛けなきゃ無理だな、と誰に言うわけでもなく、男は口に笑みを象りながら言う。火を点け加えた煙草の煙を大きく吸い込んで、天に向けて灰色のそれを吐き出した。そんな些細な動作を呆然と見つめていた偲月の視線に気づいたのか、男はAKUMAの残骸から偲月へと視線を移した。目が、口が、笑っている。

「それともお嬢ちゃんが強かったわけ?」

ゾクリ、とその向けられた笑みに身体がすくみ上がる。喉の奥からヒュウッという高い音が鳴り、それを悟られないよう生唾を飲み込む。

「ノ、ア…!」

掠れる声は、確かにその単語を紡いだ。小さく聞き取りづらかったが、男の耳にはしっかりと届いたようで。ニヤリと笑った後煙草を口から離し、ポンポンと偲月の頭を叩いた。

「お疲れさん。お嬢ちゃんがエクソシストじゃなかったら助けてやるんだけどねぇ」

触れられる掌は、大好きな人のそれとは体温も感触も何もかも違う。それに酷く嫌悪感を抱き、偲月は力の入らない左手でその手を振り払った。ただそれだけの動作で眩暈がし、息が上がる。それでも彼女の双眸は赤いまま。払われた手をプラプラと振り、男は楽しそうに笑った。そして、ある一点を指差して言う。

「それ、さ。イノセンスだろ?」

その一点とは、彼女が右手で抱きかかえている光。男から隠そうと、必死にイノセンスをかき抱きながら男を睨みつける。その視線に気を良くしたのか、男は更に笑った。

「せっかく守ったところ悪いんだけどさ、貰うよ、それ」

男が光に向かって手を伸ばそうとしたとき、偲月が叫んだ。

「イノセンス…!」

それは手の中の光に向けた言葉ではない。彼女の身体に溶け込んでいる、彼女の対AKUMA武器のイノセンスを呼んだ声だ。偲月のイノセンスの能力は、AKUMAに内蔵された魂の解放による内部破壊。AKUMAにとっては驚異的なその能力だが、魂を解放するというそれはつまりAKUMA以外の敵に対して攻撃能力を持たないもの。それでも、と偲月は意識を男に集中させる。

昨晩AKUMAを壊し、そのまま徹夜で見張りについていたとき。彼女は神田にノアについて多くを聞いていた。神田自身、アンノウンと称されるノアについて詳しく知ってはいなかったものの、自分の持つノアの情報を総て偲月に伝えていた。何気なく聞いていたノアに関しての情報。偲月は、頭の中で判読する。

ノアの一族は、オリジナルのノアの遺伝子を受け継いでいるもの。
ならば、魂ではなくそのノアの遺伝子にイノセンスが反応すれば…!

カッと偲月の瞳がより光る。この反応はAKUMAの魂に触れたときと同じ感覚。ノアの核に触れた!と、魂を解放する要領でイノセンスの力を込めようとした瞬間。

ドクンと、心臓が、不気味なほど大きく鳴った。

「カッ…!」

恐ろしいほど大きな衝撃が心臓に打ち込まれ、偲月は背を反らせる。声と共に鮮血が空を舞い、雪の上に散った。口内に広がる鉄の味。体内の臓腑が引きちぎられるような激痛が脳へと伝わり、一瞬意識が飛んだ。
何が起こったのかわからなかった。しかしそれは目の前のノアも同じことで。興味津々に彼女を見ていた彼の目は、今は驚愕に見開かれている。

「なん、で…!?」

言葉を発するたびに喉から血がむせ返る。血を吐きながら、偲月は目の前のノアを仰ぎ見た。イノセンスは確かに男の核であるそれを掴んだかにみえた。そう、確信した。その瞬間、体内に溶け込んでいるイノセンスが異常なほど反応し、心臓を中心に激痛が走ったのだ。その痛みと衝撃は、先ほど銃弾で撃たれた下腹部の傷よりも大きい気がする。

「何か身体の中を探られてるような気持ち悪い感覚はしてたんだけど。何してたわけ?」

力なく投げ出された偲月の右腕から転げ落ちたイノセンスを拾いながら、ノアの青年−ティキ・ミック卿は手に掴んだその光を握り込む。次の瞬間光は爆発し、サラサラと粉末に姿を変え雪の上へと零された。風に吹かれ、元はイノセンスだったそれが空中へと散っていく。

「まあどうでもいいんだけど。つか俺が手ぇくださなくてもお嬢ちゃんこのまま死にそう?」

苦笑気味に言ったティキは、イノセンスの粉末のついた手袋を軽く叩く。一瞬のうちにイノセンスが消え去ったことに偲月は驚愕しながらも、ぐわんぐわんと揺れる頭と意識を必死に保とうとひたすら考えていた。何をと問われれば答えに窮する。もう何でもよかった。今敵を前にして意識を失うということは、無防備に命を晒すこととなる。今何も出来ない自分がそれと何か変わりがあるのかといえばそれもそうなのだが、意識を手放してしまったら総てが終わる。

血が、足りない。
本能でそれを悟ったとき、偲月の思考はほぼ意思とは関係なくもう働こうとしていなかった。気力でどうこうできる状態を通り過ぎてしまった今、何かを考えることすら出来なくなる。

淀む視界。揺れる世界。音すらも聞こえず、これが死に逝く瞬間なのかと静かに思う。
もう何も出来やしない。後は死ぬのを待つだけだ。冷静な自分が囁きかける。目を閉じれば楽になれると。
気力さえも失っていたにとってその誘惑は、何よりも甘く優しいもので。

もう、いいよね。

睡魔とは違う、別の重さを含んだ瞼をそのまま閉じてしまおうとしたとき。

『寝るなボケ!!』

声、が聞こえた。

目を閉じることを憚ったその声の主が誰なのかなど、考えるまでもない。しかし彼の姿も近くにいる気配も何ひとつしない。今の声はただの幻聴。幻聴だとわかっていても、やっぱり怒られたな。と偲月は微かに笑う。そうだね、寝ちゃ、ダメだね。

心の中で小さく頷き、偲月は最後の力を歯と顎に込めた。柔らかな舌に歯が食い込んだ瞬間、痛みと新しい血の味が口内に広がる。それによって飛びかけていた意識がほんの少し覚醒した。血の味が濃くなる。痛みが増す。それでも偲月は構わずに顎の力を込めた。

「でもまあお嬢ちゃんエクソシストだし?やっぱり殺しとくわ」

バイバイ・とノアが笑ってそう言い、手を偲月の方へと向ける。

音が、消えた。


・・・


ものすごく、恐いものがある。
恐くて恐くて。目を閉じて、耳を塞いで、何処か遠くに消えてしまいたいほど恐い。

目の前で、命が消えること。

でも、今はもっと恐いものがある。
死ぬことも恐い。人の命が消えることも恐い。

でも、それよりももっと。

ユウに逢えなくなるのが、一番恐いよ。