優しい掌


呪術師不足は万年課題な上、今は渋谷の後始末が多々残っている状況。バタバタと等級関係なく術師は駆り出されていたし補助監督や窓も含めて多忙を極める日々。そんな中で動ける術師としてカウントされているであろう私が一身上の都合で一時的に前線から退くことは、たとえ七海の進言があっても難しいのでは…と思っていたのだが。案外、拍子抜けするくらい簡単に医務室勤務の了承は降りた。もともと術式的に前線に出る必要はないと言われていたことや渋谷での大怪我も功を奏したらしい。これを機にしばらくは内勤でいけそうだ。

「へぇ、いわゆる妊活ってやつ?」

医務室で業務を引き継ぎながら硝子先輩に先日七海と会話した内容を伝えれば、彼女は吸い始めたばかりの煙草の火を灰皿に押し付けて消した。私はひとつ頷きながら、クリニックに行くとかそういうのはまだ先かなと思うんですけど、と前置きをしながら先日の家族会議を思い出していた。

「子を持つつもりなら前線に出すわけにはいかないって七海にきつく言われまして」
「七海の意見に全面的に賛成だな。ただでさえ反転術式使えるからって無茶しがちだからな楓は。子どもが生まれてからもずっと私の手伝いをしてほしいくらいだよ」
「いやいや、頃合を見て前線に戻るつもりですよ」

まだまだ先の話になると思いますけど、と笑えば、彼女はカルテに視線を落としたまま案外あっという間かもなと予言めいたことを呟いた。

そんな硝子先輩の言葉は現実のものとなるとは、その時思ってもみなかった。
程なくして子が授かったとわかったのは悪阻がはじまるよりずっと前。定期的に検査薬でチェックしていたので妊娠はすぐにわかった。
その日は深夜、ふと思い立って検査をして、検査薬のマーカーが陽性を示した瞬間二十連勤で疲れ果ててぐっすり眠っていた七海を叩き起こした。急に起こされたせいで寝ぼけ眼だった七海に、検査薬を示して「見て!」と端的に伝えたが、はじめはなんのことか寝ぼけててよくわからなかったのだろう。首を傾げつつ、私のもう片方の手に握られていた説明書を手にして、検査薬と見比べて。意味がわかった瞬間、彼から聞いたことのないような「ん゛!」という声が出て、思わず爆笑してしまった。
深夜だというのに、何その声!と七海に向かって指をさしてお腹を抱えて大声で笑った。いろんな嬉しさと喜びと愉快な気持ちで溢れていて。少しテンションがおかしくなっていたのだと思う。そんな私の笑い声をひとしきり浴びてすっかり目を覚ました七海は彼にしては感情を表に出して嬉しそうに笑い、ぎゅっと抱きしめてくれた。翌日病院で子の心音も確認できて、ああ、あとは無事に生まれてきてさえくれれば良い。そう思った。
思っていたのだけれども。

「楓。具合はどうです?」

目覚ましのアラームが鳴ると同時に起き出した七海はひとり身支度を整えつつ、唸るようにまだ起き上がれない私のところにやってきては様子を見てくれる。無理、だるい、気持ち悪い。私は譫言のように定型文と化したそれを繰り返して、泣きそうになるのを必死に我慢した。
妊娠初期の私を襲ったのはひどい悪阻だった。人によるというが、硝子先輩曰く通常の悪阻に私の場合胃痛がプラスされている、珍しいタイプとのこと。倦怠感と吐き気、それに加えて耐え難い胃痛。食べると吐くので水どころか唾液すら飲み込み難いこの状況は、割と重度の悪阻にあたるらしい。高専に入院するより産科に入院した方がいいと言われたが、正直病院は嫌いなのでギリギリまでそれは避けたかった。幸い水分補給や栄養は硝子先輩が自宅まで来て点滴をしてくれるおかげでなんとかなっていたが、それでも改善しないようなら本格的に入院を考えなければならないなと思ってはいる(ただでさえ硝子先輩は忙しいのに、任務で傷を負ったわけではない私の世話まで診てもらうのは忍びなかった)

「今日も食べるの無理そうですか」
「無理、胃が無理。悪阻に胃痛があるなんて聞いてない」

泣きそうになるのを我慢して七海の伸ばされた手をとって頬に当てる。ひんやりとしたその手が気持ち良くて、もう片方の手も乞うて差し出してもらった。

「家入さんがくるまで耐えれますか?車に乗れるなら高専まで一緒に行くのも手だが、無理ですよね」
「今車乗ると酔って余計吐きそう」

最小限の言葉だけを紡いで、七海の優しさを受け止めつつも自分の置かれた状況を的確に伝えることを試みる。う、と唸れば、七海が背中をさすってくれて、吐きますか?と。首を横に振って、七海任務は?と尋ねれば、ぼちぼち迎えが来る頃…と少しバツが悪そうに言った。仕事なのだから別に気にしなくていいし行ってくれていいのだが、今一人になるのは正直心にくるものがあるのは事実。そんなことを思ってしまうのはホルモンバランスの影響なのだろうか。最近悪阻で碌に眠れていないので思考回路も怪しいところがある。

「行かないで欲しいけど任務だからサボらないで欲しい。七海なんでひとりしかいないの…」

任務に行く七海と一緒にいてくれる七海がいれば…と、さすがの私でも分かるくらい相当に頭の悪いことを言ってしまった。溜息でも吐かれるかと思いきや、七海は少し考えて、五条さんに代わってもらいますか、と言い出した。うそ、五条先輩に貸し借りを作るの一番嫌でしょうよあなた。思わずそう言えば、「楓の体調次第で本当に任務に出られない時は自分が日本にいる限り代わる、と言ってくれましたからね、言質もとってます」とのこと。いつの間にそんな約束取り付けてたの…と呟いている間に、七海は携帯を操作して五条先輩に電話し始めた。二言三言会話して、「承知しました、千疋屋でいいですよね」と七海が言って通話を切る。あ、今しっかり貸し借りした。しっかり借りを返す手立ても結んでた。少しびっくりしながら七海を見つめれば、視線に気付いたのか彼は私の頭を撫でながら言った。

「今日はそばにいます。なんでもするので遠慮なく言ってください。まずは湯たんぽを用意しに行っても?」

なんでも言ってくれと言いつつも、今私がして欲しいことを的確に提案してくれて泣きそうになった。何かして欲しいとか、考えて伝えることすら今は苦痛なのだ。うん、と頷いてありがとうと伝えれば、これくらいなんともない、と彼は小さく笑った。頭を撫でられて部屋から出ていく彼の背を見送りながら、私も悪阻がおさまったら五条先輩に甘いものを進呈しなきゃなぁなんて思った。