不変を願う
『ごめん、先に帰って寝てるね』
任務を終えて携帯端末を取り出せば、数時間前に楓からメールが入っていた。
通常時ならなんてことない文面だが、今は違う。今日は休みだったはずだろうと訝しさと色々突っ込みたい気持ちを抑えて早急に帰宅してみれば、確かに先に帰ると言うメールの文面通り自宅には楓がいた。いたけれど。ベッドで寝ているとばかり思っていたのに、寝室ではなくリビングのソファで胎児のように身体を丸めて眠っていた。普段であれば寝るならベッドで、と起こすか運ぶかするのだが、ここ最近の中では珍しくすやすやと気持ちよさそうに眠っていたので、彼女に聞こえないよう小さく嘆息し、寝室から持ってきた毛布をかけてやった。
楓の妊娠発覚からしばらく経って安定期にも入り、彼女を酷く苦しめていた悪阻も大分おさまったということで楓は仕事復帰した。もちろん復帰と言っても任務になど出せるわけがなく(これは自分が絶対許さなかったし、伊地知も大反対してくれたので話が早くて助かった)、高専の医務室で家入と共に怪我人がきたら治療をする、それ以外は在宅で補助監督のサポートという業務レベルに留まっている。とはいえ反転術式は通常の倍呪力を消費するのだから、人を治す前に自分とお腹の子を大事にして欲しいところである。それをそれとなく彼女に伝えても、楓は「大丈夫大丈夫!本当に辛かったら休むから!」と譲らなかった。正直これを機に呪術師を引退して欲しいくらいなのだが、これもまた楓は素直に頷かないことはわかっている。なんなら伊地知に「育休ってどれくらい取れるものなの?」と聞いていたから、産んだ後もある程度のところで復帰する気なのだろう(やめてくれ本当に…)。
呪術師として生きていくにあたり、子を持つと言う選択をするのは容易いことではない。金銭的には余裕があるのでその点に関していえば何不自由なく育てることができるだろうが、その分いつ自分たちが命を失うか、という重大なリスクをはらんでいる。自分も楓も非術師家系出身で親族に呪術師はいない。そのためいつも当たり前に親が存在していた家庭で育ったが、今の自分たちはそれとは異なる。生まれてくる子にとってはいつ何時親がいなくなってしまうかもしれないという恐怖の中、家族をしていかなければならないのだ。そんな背景もあり、両親共に呪術師という環境で子を持ち育てることがどれほど自分たちにとっても恐ろしいことなのか十分理解しているつもりだ。ふたりでも十分楽しいし、10年近く夫婦をしているが幸いマンネリとはほど遠く夫婦仲も良い。このままふたりで、ということも考えたが。
『万が一だよ?万が一お互いのどっちかが死んじゃった時、残った方の生きる意味、なくなっちゃわない?私たちの場合』
ある日真剣にそう問うてきた楓の言葉は、割と腹の奥にずしんときた。お互いの命の重石になるために夫婦となった自分たちだ。いつ死んでもおかしくないこの世界に身を置き続けるに当たって、死ねないための心残りを作っておかないと死に急いでしまう。特に楓は他人を庇って自分が死ぬタイプの呪術師だ。それを防ぐために結婚したようなものだし(もちろん愛はあるし、あるからこそこの形を選んだ)、それは今も変わっていない。でも確かに、重石がなくなってしまったら。自暴自棄もいいところになる。
『命をね、簡単に作って自分達の都合の良いように…重石にしたいって聞こえちゃうかもしれない。本心ではないにしろそう思われても仕方ない言い方しちゃってるのはわかってるの。でも、やっぱり私は明日死ぬかもしれないから、そうなった時のために七海を支えてくれる存在をちゃんと遺しておきたい』
真剣な顔をしてそう言ってきたかと思うと、くるりと表情を変えて、単純に私、七海との子が欲しいだけなんだけどね!と、少し照れたように笑った楓の顔を、私は一生忘れることはないのだろう。
あのハロウィンの日、渋谷で二人とも死にかけた。呪術師に悔いのない死はない。けれど、いざ本当に死を意識した時、生きている間にやりたいことや叶えたいこと全て吐き出して、できることから実現させていこうとふたりで話し合った。ふたりで一緒に叶えていこうと。その一番はじめに楓が言ったのが子どものことだった。
自分も楓との子が欲しくなかったわけではない。ただ、呪術師をしている以上それがあまりにも現実的ではなくて、ただ自分には楓がいてくれるだけでよくて、その可能性を自分の中から選択肢としてあえて外してしまっていた。けれど、楓の思いを聞いて、何度も話し合った結果が今。眠り続ける楓の穏やかな表情を見たら、ああこの選択は間違いではなかったんだと思いたい。
「…ん、七海?」
くぐもった声が聞こえて、ふと視線を彼女に戻せば、楓は目を擦りながらこちらを見ていた。視線と気配を感じ取って起こしてしまったか。
「起こしてしまいましたか」
「ううん、大分寝てたから…。お帰り」
「ただいま」
彼女の形の良い額にキスをして、身体を起そうとする彼女の腰に腕を回してカバーする。今はまだ腹の膨らみも大きく目立つことはないが、通常時よりは腹が重いのだろう。楓は自然と腹を庇うように自分の手を添えてパパ帰ってきたね〜と腹に向かって話しかけている。…まだ照れくさいのでそういうのはちょっと控えて欲しいのだが、それをいうのはナンセンスだと思うので黙って腹を撫でるに留まった。
「今日も高専に行ってたんですか?」
あなた休みだったでしょう、と眉を顰めれば、楓はバツが悪そうに、ちょっとだけ…と言った。
メールの文面。今から帰る・という言葉から高専に行っていたことを察していたが(あの時間まで彼女が出歩くことはまずないので、行くとしたら仕事…高専だ)。
「怪我人が多く出たみたいで、硝子先輩が大変そうって聞いちゃって。身体も平気だったし、急遽高専行ったんだ」
「それなら私にも事前に伝えてから高専に行け。あと寝るなら寝室へ」
昨日から出張で一泊留守にしていた身としては、そのあたりは報連相してほしい事項である。それを伝えれば、任務の邪魔になるかと思って、と楓はへへっと笑った。笑い事ではないのだが…。
「でも流石に反転術式連発は疲れたかな、前の半分くらいで疲れが来る感じ。体力落ちてる気がする」
「体力云々じゃなくて妊婦だからだ。ただでさえ反転術式は呪力も消費するし、楓は加減を知らないから」
今は自分ができると思った半分以下のレベルで抑えろ、とあえて腹を撫でながらいえば、楓にしては珍しく、そうだねぇ…と言った。悪いが我が子をだしに使わせてもらう。そこまでしないとあなたの母親は本当に無茶をするのです。
「夕食は?何か食べましたか?」
「ううん、帰ってきた瞬間寝ちゃったんだよね。お風呂入って何か作ってから寝ようと思ってたんだけど、どういうわけか抗い難い睡魔に襲われて…」
「それは無理をした証拠です。簡単なものを作っておくので、あなたはバスルームへどうぞ」
キッチンに向かおうと立ち上がれば、ワイシャツの裾をついと掴まれた。ん?と振り返れば、上目遣いの楓が。お風呂一緒に入ろうよ、といたずらをした子どものように笑いながら言った。二日ぶりの七海だし!と訳のわからないことを言ってのけるが、別に嫌でもないので快諾し、ついでに彼女の腕を引いて立ち上がらせる。
「この間買ったパジャマおろしますか。今日は少し暖かい」
「そうだね!もうあっという間に夏になっちゃうね」
他愛のない会話を紡ぎながら、まずは寝室に向かった。願わくばこのなんてことのない日常が、子が生まれてからもずっと続きますように。そう心から願う(これが求めていた幸せなのだろう)。