あの日のきみの映像をくりかえしては

彼女の細い指が萎れた花を撫で上げ、その瞬間緑の光に包まれた花が息を吹き返すように再び咲き返ったとき、正直驚愕はしたが畏怖の念は欠片も湧かなかった。

少し寂しそうな色をのせた彼女の伏せがちな瞳と花を交互に見比べたとき、目の前で見せつけられたその不思議な現象のことを心底どうでもいいと思ってしまったのだ。

花は綺麗だと言われるけども、それよりも月明かりに照らされながらも翳りを帯びた彼女の方が、よっぽど美しく感じた。

ただ、それだけだった。


・・・


「もう仲良くなってんじゃん!」

ディ・ロイが朝とは思えないほどの声量で叫ぶ。キンっと頭に響いたその声を防ぐように、うるせえよ!とグリムジョーは片耳を抑えながら言った。


窓から朝日が射し込めばいつものように自然と目が覚めた。眉間を抑えながら眩しさに耐えつつ身体を起こす。寝起きだというのに不思議と頭ははっきりしていて、昨夜の出来事を反芻し、グリムジョーはゆっくり目を開けた。
最初に脳裏に浮かんだのは、その表情を少し翳らせた凪だった。次は自嘲めいたものを浮かべた彼女、その次は驚いたように目を見開いて自分を凝視している姿。写真を見ているかのようにはっきりと凪の表情や姿が頭に浮かんでは消えていく。
なるべくあなたに迷惑かけないようにするから!と半分叫ぶような声音が背に浴びせられたとき、凪がどんな表情をしていたかはわからなかった。
記憶の中のその瞳と声の端々に彼女本来の強さが垣間見えた。しかしその強さは少し危うさも感じられるものだったが。


日が昇り切る少し前、グリムジョーは凪の部屋に向かった。一応扉をノックすれば、昨日の夜とは違う凛とした声で返事があった。内側から扉が開かれる。扉の前にいたのがグリムジョーだと凪は思っていなかったのだろう。自分を見上げながら驚いたような顔をした凪に、朝の挨拶をするわけでもなくただ一言、朝飯食うだろ・と声をかけた。
既に起きて行動を開始していたらしい彼女は、昨夜のような無防備な姿ではなくしっかりと身支度を整えていた。その彼女がまた驚いたように目を瞠ったが、すぐにひとつ頷いてみせた。それを確認し、行くぞと声をかけ顎で部屋を出るように示せば、彼女は素直に部屋から出てくる。後ろ手を使うことはせずわざわざ身体を反転させて扉をゆっくりと閉めた凪の肩越しに、部屋の中を垣間見る。部屋の少し奥にある小さな円卓に、昨日彼女自身が咲き返した花が小瓶に生けられているのが目に入った。


凪を連れ部屋に戻れば、せっせといつものように食事を机に並べているディ・ロイがいた。皿を持ったままの彼は、主人と主人が連れ立って現れた凪を交互に見て、冒頭のように大声で叫んだのだった。

「ディ・ロイ、てめえ朝からうるせえよ」
「いやいや!うるさくもなるって!何?凪もここで食べるの?」

凪、と当たり前のように彼女の名を呼び捨てにするディ・ロイに思わず目が据わってしまった。その視線を物ともせず、ディ・ロイはそれならすぐ用意するねーと部屋を出て行った。

彼をはじめとする五人の側近たちはグリムジョー付きの家臣であり本来は皇子であるグリムジョーの政務を補助したりグリムジョーを警護をすることが彼らの仕事なのだが、幼い頃から共に過ごしている分、ディ・ロイを筆頭にその関係性は他から見ると考えられないくらい近しいものがあった。主人に対し従者の域を超えた言動をするが、それが許されるくらいグリムジョーと彼らの距離は近い。本来なら食事をはじめとした身の回りの世話は下男や下女がするはずなのだが、グリムジョーは自分の離宮にその役目を担う者を置いていなかった。必要以上に他人をそばに置きたくないという彼の意向もさることながら、勝手に何でもやってしまう有能な側近がいるからこそ今の生活が維持されているのだが、彼らにとってもそれが普通になっていて特段気にも留めていないようだった。当たり前のように朝から食事の用意をし、グリムジョーの鍛錬に付き合い、…かと思えば突然、今日俺が昼食の担当だから!と勝手にいなくなったりもする。側近たちの間で当番が決まっているらしいがその辺りも勝手に取り決めて動いているので、グリムジョーとしては何も口を出さず彼らの好きにやらせている。それで自分も生活が送れているので何も言うことはないのだ。

あっという間に凪の分の食事も並び終えたディ・ロイが飲み物の準備を始める。椅子に座り凪と向かい合って食事を摂る。
こうやって向かい合って座るのもはじめてだなとぼんやり思うが、そもそも食事を共にすることもこれがはじめてだ(昨夜突如開かれた祝いの宴とやらでは一切食事を摂らなかったし、あの時は凪と横並びだった)。
今日の朝食を作ったのはエドラドだな、と火のよく通った卵を突き、グリムジョーは焼きすぎなくらいカリカリになったベーコンにフォークを刺した。従者たちの性格はその料理にもよく反映されている。これまたこんがりと焼かれたパンに齧り付きながらちらりと凪の方を伺えば、彼女はまだ湯気の立つ紅茶に口をつけていた。イールフォルトが厳選しているという紅茶の葉はその日の朝食に合わせて変えられる。紅茶の繊細な味の違いが分かるほどそれに詳しくもないし自ら好んで飲むわけではないが、目の前の凪がその紅茶を口に含んだ時、ほっとしたように目を綻ばせたのを見て思わずこちらまで目を細めてしまった。これまでとまた違う表情を浮かべた彼女を無意識に見続けていると、その視線に気づいたのか凪もまた視線を上げた。
そして紅茶のカップをソーサーに戻しながら、少し首を傾げながら彼女は言った。

「あの…私は何をしたらいい?」
「あ?別に何も。好きに過ごしとけっつったろ」
「何もすることがないのも拷問だよねー」

ディ・ロイが凪のカップに紅茶を追加で注ぎながら合いの手を入れてくる。勝手に会話に割り込むなとディ・ロイを睨むが、彼はあえてこちらを見ようとしない。なんなら鼻唄混じりに空いた食器を回収し始めた。
そんなディ・ロイに視線を送っていた凪だったが、またそれが自分のもとに戻される。

「あなたは何をするの?」
「いつもと同じだ。これからくそめんどくせえ朝議に駆り出されて、終わったら鍛錬して、あとは適当な時間に飯食って本でも読む」
「グリムジョー、意外と読書家だからね。見た目まじでただの輩なのに」
「うるせえな」

ディ・ロイお前いい加減にしろよ、と睨め付ければ、やっぱ輩だわーと彼はケラケラ笑いながら皿を持って部屋を出ていく。その姿に溜息をつきながらグリムジョーは卵を口に詰め込んだ。

父王は毎日開かれる朝議に皇子たちも参加させる。基本国の政治は家臣に任せきりで、父王や兄たちは主に次はどの国を侵略するかという話題にしか前のめりにならないのだが、自国のことは勿論、近隣諸国のことを把握するためにはこの朝議でもたらされる情報や議論は欠かせない。渋々というていで出ているが、情報を得るという意味では締め出されない限り自分はそこに通い続けるだろう。

少し冷めた紅茶を飲み干してグリムジョーは壁にかけられた時計を一瞥して立ち上がった。部屋の入り口に控えていたシャウロンを確認し、行くぞと声をかける。
ポケットに手を突っ込み部屋を出ようとして、ふと思案し凪の方に振り返る。座ったままこちらを見ていた凪の前にはまだいくつか手付かずのまま食事が残っていた。

「凪」

はじめて凪の名を、凪に向けて投げてみた。
確認のためにその名を口にしたことはあったが、呼びかけるという意味でははじめてで。
しかしその名を既に何度も呼んでいたかのような錯覚に陥りそうになる程、その名は自分の口に、声にすんなりと馴染んだ。
自分でも予想外だったが、先にディ・ロイにやられたのが無性に腹立たしかったらしい。自分の名を呼ばれ肩を上げた凪の反応がおもしろい。纏っている空気感は凛としたものを秘めているのに、少しばかりの動揺が隠せていないのが手に取るようにわかる。その様子を少し眺めてからグリムジョーは口を開いた。

「暫く戻らねえから、それ食い終わったら部屋に戻るなりてめえの好きなように過ごしとけ」

再度好きにしていいと念を押すように声をかければ、凪が腰を浮かせながら言った。

「本、読んでてもいいかしら」

真っ直ぐ自分に投げられていた凪の視線が不意にずらされる。グリムジョー自身もそちらに目をやれば、壁一面に並べられた書物が目に入った。
国にあった本は読み尽くしてしまったの、と凪は続けて言う。国とは彼女の生国のことだろう。
ここにあるもんなら好きにしていいぞ、とグリムジョーが返せば、彼女はほっとしたように頬を緩ませ、ありがとうとお礼を言った。またひとつ知らない彼女の表情が記憶に刻まれる。
返事はしないまま、シャウロンにもう一度行くぞと声をかけ、今度こそグリムジョーは部屋を出た。



願わくば、彼女のあらゆる表情を、声を、言葉を、すべて脳に焼き付けてしまいたかった。
凪のすべてを自分の中に取り込んでしまいたかった。

そう願ったときにはもうすべてが遅く、また、それを叶えるにはあまりにも時間が足りなかったことに気づくのはもう少しあと。そこまで遠くない未来なのだが。

それを俺はまだ知る由もなかった。