窓枠に身体を預け空に浮かぶ月を眺めていた。月の前に灰色がかった雲が重なり、光が少しだけ遮られる。しかし上空の風が強いのか、その雲はあっという間に月を横切り再び白い光が凪の目に入ってきた。少し遅れて窓からふわっと地上の風も吹き込んでくる。生ぬるい風だった。吹き上げられ靡いた髪を思わず手で押さえた時、「よォ」と低い声がそこに響いた。反射的に振り返れば、ラフな寝間着姿のグリムジョーが立っていた。ポケットに両手を突っ込んだままこちらに歩み寄ってくる。距離が縮まるにつれて影になっていたその顔が月に照らされてよく映えた。
「眠れたか?」
凪から少し離れたところでグリムジョーは足を止めた。こんな深夜に約束をしたわけでもなく会うことになった状況下で、眠れないのかではなく眠れたかと聞くところが彼が聞きたいであろう本質を捉えていて。周囲に対する横暴な振る舞いや乱暴な言動から誤解を生んでいそうだが、自分への態度やその言葉の真意を読み取る度に、初対面でこの人は愚かではないなと思った直感が確信に変わりはじめる。
「少しだけ。夢見が悪くて」
正直に答えて、あなたも?と問いかければ、似たようなもんだと返ってきた。
ふたりきりで顔を合わすのも言葉を交わすのもはじめてだった。そもそも自分がこの国に来てまだ一日も経っていない。あまりにもあっという間の忙しない時間の経過に感覚が麻痺していたが、この人とはじめて顔を合わせてから同じ空間にいた時間など数刻にも満たないのだ。そして今こうしてここに自分の足で五体満足で立てているということも不思議でしかない。
この国に入る瞬間、次に眠る時は死ぬ時かもしれないと本気で覚悟していたのだから。
「もっと酷い扱いされるのかと思ってた」
穏やかな空気すら流れているような気がして、心に秘めていたものがぽつりと吐露される。自分の声に続くものがなく彼の方を振り向けば、グリムジョーは床と天井を繋ぐ円柱に身体を預けこちらを見ていた。視線を向けても特に返事はない。続きを促されているかはわからないが、間を埋める意味も含め先に聞いておきたかったことを切り出してみた。
「私のこと、どうせ聞いてるんでしょう?」
ほんの少しだけ、グリムジョーの目が細められる。何か警戒するような色をはらんだ気がした。ああ、やっぱり・と凪は心の中で自嘲をこぼす。もしかしたらそれは身のうちだけで止まらずに表情にも浮かんでしまっているかもしれない。
国に到着し輿で運ばれている間にも、醜女という単語は凪の耳にも届いてきた。その謂れと共にもうひとつ、流れている噂があるはずだ。
先に切り出してしまおうと口を開いた時だった。
「てめえが喋りたいなら聞いてやるよ」
グリムジョーの声が低く響く。
喋りたいかどうか選択肢を与えられるとは思っていなかったので、一瞬開きかけた口を思わず噤んでしまった。喋りたいのかと自問自答するがそもそもこの話題を切り出したのは自分だ。もしかしたらいっそ拒絶されるなら早く拒絶されて楽になりたいとどこかで思っていた自分がいるのかもしれない。
意を決して何から話そうかと思案し顔をグリムジョーに向けた瞬間、かさっと耳元のすぐ近くで何かが擦れる音がした。咄嗟にそこに手を伸ばすと、髪に刺さったままの生花が指先に触れた。
ああ、祝いの宴とやらに出るために髪を結われた時に編み込まれたものだと思い出す。眠る前に全て解いたと思っていたが、一輪だけ髪に絡みついたままになっていたらしい(与えられた部屋には鏡がないのだ)。花の存在を忘れて眠ってしまったので頭の重みで薄い色の花は潰れ萎れていた。ちょうど良い、とそれを髪から引き抜く。引き抜いたはずみで数枚花弁がはらりと床に落ちた。
「話すより見た方がわかると思う」
よく見ててね、と月の光が一番明るい場所に腕を伸ばし花をグリムジョーの方に示す。そして空いている方の手で細い花を撫で上げれば、花がすっと首を上げ萎れた花弁が瑞々しく再び咲いた。瞬間、月の明かりとは異なる、緑色の光がその場に灯ったようにみえた。小さくて細い花だったのでそれはほんの一瞬の出来事だったが、グリムジョーはそれを見逃さなかったらしい。彼は目を瞠りながら柱に預けていた背を少し浮かす。暗闇の中でもはっきりと咲き返した花を凝視しているのがわかった。
「これが噂の異能」
凪は咲き返ったばかりの小さな花を手の中でくるっと回す。
なんの力なのか、なんのための力なのか自分でもわからない。ただこのわけのわからない力が異能と呼ばれるものであることは間違いなかった。別に生きる上で必要ないし、なくても困らない。むしろ、あることで異能の子と呼ばれ気味悪がられるという負の面しかなかった。右の腰に手を添えながら凪は自嘲をこぼす。
「なんの役にも立たない上に普通じゃないし、そもそも花はそのまま散らせてあげるのが一番美しいと思うの」
まだ幼く純粋だった頃の自分。もう一度咲いてほしいと願ったのがそもそもの間違いだったのだろうか。花は終わりがあるからこそ美しい。それを理解できたのはこの力が何の役にも立たないとわかってからだけれども。
咲き返した花を持つ手をそっと下げようとした時、いつの間にかそばにいたグリムジョーがそれを凪の手から抜き取った。弾みで触れた彼の指先から冷えた自分の手の甲に熱が移る。
すたすたと再び自分から距離を取ったグリムジョーを目で追えば、彼は月の光が一番差し込む場所まで移動し、頭上に花を掲げてそれをまじまじと観察している。月の光に照らされて彼の顔がこれまで以上にはっきり見えた。眉間に皺を寄せたその横顔は、とても端正な造りをしていた。
「ほんとに咲いてんな」
「先に言っておくけど、動物や人を生き返らせたりすることはできないよ」
へえ、と興味があるのかないのかわからない相槌をグリムジョーが打つ。そして花を持つ手を下げながら凪の方に歩み寄って、その手の花を彼女の髪に差し返した。宴の席で編まれていたように、そっとそれが耳元に戻される。ほんの一瞬、彼の親指が耳に触れた。先程手の甲に触れた時と同じで、その指先はあたたかかった。
「てめえにゃ悪いがその力もここじゃ宝の持ち腐れだな」
「え?」
「こんな砂漠ん中じゃ花も碌に咲いてねえからな」
顎で窓の外の砂漠を示しながらグリムジョーは凪を見下ろす。そんな彼の様子と予想だにしなかった言葉に凪は思わず目を瞠った。
「…気味悪くないの?普通じゃないでしょこんなの」
「異能なんて仰々しい謂れしてるからどんなもんかと思えば、別にここじゃ使い時ねえし誰か死ぬわけでもねえ。使い時ねえもんを気味悪がる程俺は暇じゃねえんだ」
頭上から落ちてきた言葉はすらすらと、本心から述べられているように聞こえた。瞬きを忘れた眼で彼の顔を凝視すれば、グリムジョーはバツが悪そうに顔を背けながら自分の右の頬をひとつ掻いた。
「あー…なんだ?お前普通の女と変わんねえよ」
普通、と言われ凪はこれ以上ないくらい自分の瞳が開くのを感じた。普通じゃないでしょと自分自身に言い聞かせるように言ったそれに対する否定なのか。口の中で普通…とごちれば、グリムジョーは、いや、と視線を斜め上にやりながら腕を組み直す。
「普通じゃねえか。お前皇女にしちゃ相当気ぃ強いだろ、あと男に一切媚びねえ」
視線を再び凪に移し、グリムジョーははっきり言い切った。
媚びないのは誰に対してもだと思うが、気が強いというのはどうなのだろう。しかも相当、と強調するような枕詞までついている。そんなこと言われたことがなかったからか、気がづいたら反射的に言葉が出ていた。
「私はここでどんな目に遭ったとしても、皇女として誇り高くあろうと覚悟してきた。それだけよ」
「プライド云々の話じゃねえ。そもそも気が弱え奴は自分から喋り出したり反論なんざしねえんだよ。今のもそうだろ」
お前、最初から俺らにびびってねえしな、とグリムジョーは呆れたように言った。その言葉の裏には、敵国に人質として嫁がされた凪の置かれた立場と背景を示唆しているのだろうが、彼は一言も、人質といった直接的な言葉は使わなかった。
そして、強いやつは嫌いじゃねえ・と小さく言葉を付け加えた。
放心する凪を見下ろしながら息を吐いたグリムジョーは、さらに凪の足元まで視線を落とす。そして何かに気づいて訝しみながら声を上げた。
「お前裸足じゃねえか」
「すぐ戻るつもりだったから…」
凪が足を重ねて指先を擦り合わせながら言えば、砂漠の夜は冷えんだよ、早く部屋に戻れ・と彼は先に自ら踵を返した。
彼の足音だけが空間に響き渡る。その音がリズム良く耳に届く中、凪は放心したまま思考を停止していた脳を無理やり動かした。
普通と言われ、気が強いと言われ、嫌いじゃないと言われた。
立て続けに発せられた彼の言葉の数々になんと答えればいいかわからない。あまりにも自分の認識と程遠かったものを浴びせられた。そしてそれはある意味自分の存在を肯定してくれるような言葉たちで、この短時間で激しく心の奥底が動き回って動揺が身体を走り抜け、そして今は逆にほわほわしたあたたかみまでも感じてしまっている。
慌てて眼前の視界に意識を戻せば、廊下の先の暗闇に消えそうになっていたグリムジョーの背をかろうじて捉えることができた。
角を曲がりかけた彼に向かって声を張り上げた。
「、なるべくあなたに迷惑かけないようにするから!」
言葉に詰まりながらも咄嗟に出たそれは本心ではあったが、こういうところが気が強いと言われた所以なのかもしれない。そもそもこうやって当たり前のように人と会話をすること自体、久しぶりだった。異能と呼ばれ自室に篭って本を読み、いつか死ぬ日を待っていた。そんな自分が今こうやって、死ぬ覚悟をして嫁いだ国で当たり前のように立って人と言葉を交わしている。なんて不思議な時間なのだろう。与えられた刺激が脳の奥でぱちぱちと鳴り続いていた。
凪の言葉を背で受け、グリムジョーは後ろ手を振りながら廊下の角を曲がっていった。その気配が消えるまで凪はその場に立ち竦み、暫くして身体の震えを感じ我に返る。砂漠の夜は冷えるという彼の言葉を思い出し、慌てて自室に引き返した。ぱちぱち鳴り響いていた頭の音は鼓動の高鳴りに変わった。それは一向に止みそうにない。寝台に潜り込んだところで眠れる気はしないが、冷えた身体をあたためるため部屋に戻ってすぐ寝台のシーツに包まる。
先程グリムジョーに耳元にさされた花を優しく抜き取って、そっと寝台の端に置いた。彼の指先が触れた手の甲と耳とを交互に撫でて、凪はぎゅっと瞳を閉じた。移った彼の体温はすっかり自分の中に馴染んでしまっていた。