いずれ捨てるはずの思い出

自分の背よりずっと高い本棚にぎっしり並べられた本の背を指でなぞりながら、ふと目に止まったタイトルのそれを引き抜いた。自分の国でも本を読んで一日の大半を過ごしていたが、この国に送られてからも変わらず本を読めることは心の安定を保つことの一助となっている。
本の表紙をひとつ撫で、それを手にソファに向かう。
この国に嫁ぐという名目で人質として送り込まれて早三月。季節も夏に変わった。与えられた自分の部屋には窓がないので、暑いこの季節、日中部屋に閉じ籠るのは少し厳しい環境だった。そのため夜になり涼しくなるまではグリムジョーの部屋やテラスで過ごすことが多い。
好きに過ごしていいと言われたが特別することもないので、グリムジョーの部屋にある本を一日一冊読むと決めたけれど、これを読み切るには季節を一周しなければならないなと思っている。

先程まで座っていたソファに腰をかけ、サイドテーブルに本を置いて一息ついたとき、開け放たれた扉の縁を律儀にノックしてこちらを覗き込んでいたディ・ロイと目が合った。

「凪、お茶しない?」

ニカッとギザギザの歯を見せて笑ったディ・ロイは、視線を下に落として自分が押してきたワゴンを示す。お茶をしないかと凪の意志を問うてきているが、既に準備万端なところがディ・ロイらしい。少し目元を綻ばせながら、凪は小さく頷いた。ディ・ロイはそれを待って部屋にワゴンを運び入れる。今日は特別暑いからアイスティーにしたよーと、温度差で表面に水滴がついたカラフェを持ち上げた。それをグラスに注ぎながら、紅茶ってホットとアイスでそれぞれ合う茶葉が違うんだって、知ってた?と喋り続けている。
特段凪の返事を待つことなく一方的に喋り続けるのがディ・ロイで、いちいちそうは思わないか?と同意を求めてくるのがイールフォルト、寡黙なナキームに何か困っていることはないかと顔を合わせるたびに尋ねてくれるのがエドラドだ。その四人を黙って見守り適宜指示を出しているのがシャウロン。
ここで過ごすうちに側近たちの性格や役回りもわかるようになってきた。なんだかんだ一番多く時間を過ごしているのはディ・ロイだろうか。一番若くグリムジョーや自分とも年が近いからかもしれない。彼特有の親しみやすさをもっていた。

ディ・ロイに渡されたグラスを両手で受け取れば、冷たさが掌に伝わって熱った身体を少し冷やしてくれた。一口飲めば、柑橘系の爽やかなフレーバーが鼻から抜けてすっきりとした味わいが気持ちも涼しくさせてくれる。

「シトラス?美味しい…」

思わずそう口にすれば、そうそう!シトラスだって言ってた!とディ・ロイがまたニカッと笑う。基本グリムジョーの離宮での食材調達はイールフォルトが引き受けていると聞いた。紅茶をはじめとした嗜好品から日常の食材まで、彼が吟味して仕入れているのだとか。
本来グリムジョーの立場であれば側近がそんなことをしなくとも給仕係が割り当てられ側近はその名の通りグリムジョーの側から離れることなく過ごすのだろうが、とにかくグリムジョーの離宮には人がいなかった。敢えてそうしているのだろう、グリムジョーはこの離宮に側近五名しか近づけない。そこに自分が入っているのは少し違和感を覚えるくらい。
ほんと暑いよねーとディ・ロイはぱたぱたと自分の手を仰いでみせた。

「…ねえディ・ロイ。私、いつまでここにいるんだろう」

人質の身でありながら自由すぎるほどの生活を与えられ(この宮から出ることは推奨されていないが)、それが今日まで当たり前のように続いている。末の皇子であるグリムジョーに嫁ぐという形式で送り込まれたせいか、今時点でグリムジョーの宮に滞在しているが、いつ彼が自分を放り出すかわからないのも実態だ。この状況だってグリムジョーの意思が変われば終わるし、彼が意図せずとも彼より力のある者…例えばこの国の王が人質としての存在価値がないと判断すればすぐに処分される可能性だってある(もちろんその判断はグリムジョーだってできるわけで)。

ここにくるにあたり想像していた最悪よりもずっと恵まれている環境で、なんなら自国にいたときよりも心は自由だ。
だからこそ考えずにはいられない。いつこの生活が終わりを告げるのか。好きにしていい期間は突然終わる可能性の方がずっと高いのだ。

「どしたの急に」

自分のグラスにアイスティーを注ぎかけていたディ・ロイは動きを止めて凪の問いに問いで返した。凪は思ったままに言葉を紡ぐ。

「私、人質としてこの国に来たのよ?いくらあの人が好きに過ごせって言ったところで、王がそれをいつまでも野放しにしているとは思えなくて」
「んー…でもさ、人質っつってもグリムジョーの嫁として凪はこの国に来たしねえ」

嫁…と口の中で呟く。
確かに彼の言う通り名目は嫁いできたことになっているが、あくまで対外的な聞こえの問題でそうしただけで、自分の存在は圧倒的に人質の意味合いの方が大きい。それにグリムジョーに嫁いだからといって特に夫婦のような関係はなく、彼の裁量ひとつでこの離宮に置いてもらっているだけだ。会話はするし共に食事もとるし、一緒にいる時間も必然的に増えたが、お互いがお互い必要以上に干渉せずに過ごしいるのでそれは一緒にいると言ってしまっていいのか微妙なところだけども。

「正式な婚姻の儀は交わしてないし、交わしたからって人質だからいつ殺されるかわからないじゃない?それに私を押し付けられた彼にとって、私がここにいるメリットなんてひとつもないじゃない」

会話することで頭の中で自問自答していたことが整理されてすらすらと言葉になって出てきてくれた。そうだ、グリムジョーにとって自分の存在に何ひとつメリットはないのだ。女として身体を求められてそれに応えていればグリムジョーにとっても欲を満たすという意味でメリットになったかもしれないが(正直人質ができることなんてそれくらいだ)、彼はそんなこと一切求めてこないどころか触れてさえこない。じゃあ彼は何を目的に、なんのために自分をここに置き続けてくれているのか。さながら保護に近いのでは?という疑問すら湧く。ただ、彼がそうしている理由が、意図が一切わからない。
溜息混じりに疑問を口にしてみれば、ディ・ロイが、あー…と少し天を見上げながら返事に窮していた。そして少し考えるそぶりをみせたかと思うと、凪のそばにすすっと近寄り、いつもよりずっと声を小さくして言った。

「俺が言った・て言わないでね。…グリムジョーの母親も、人質としてこの国に来たんだよ」
「…そうなの?」

ひとつ頷いたディ・ロイは続ける。
グリムジョーの母親は、他国から嫁がされたわけではなく、単に人質として送り込まれた皇女だったと聞く。見目の麗しさを今の王が気に入り側室に召し上げられグリムジョーを生んだ。しかしそれは彼女にとって耐え難いものだったのだろう。王の子を持たない側室たちから受ける嫌がらせや、側室といえど道具のように扱われる日々。彼女の心は壊れ、ある日塔の上から身を投げた。

「人質だからって酷い目に遭わすの、グリムジョー嫌なんだよ。でも、他の人質に手出しはできないでしょ?だから自分のところにきた凪のことは悪いようにしない、多分シンプルにそういうことだと思うよ」

あくまで俺の考えだけど、と最後にディ・ロイは付け足した。長年グリムジョーと共にいる彼が言うのだ、あながちそれは間違っていないと思う。
そうなの…と今度は疑問系ではなく納得の意味合いを含んだ相槌を打つ。塔の上から身を投げた、別の国の皇女が自分と重なる。あてがわられた先がグリムジョーでなければ、いつ自分もその選択をしたか。いや、その選択さえ与えられることなく凌辱され殺された可能性の方が高いだろう。だって、自分は人質なのだから。

改めて自分の立場を認識する。
勘違いしてはならない。好きに過ごさせてもらえているのは今恵まれているから。いつこの日常となりつつある暮らしが終わるか分からない。

油断はしていないつもりだったが、少し気が緩んでいたかもしれない。

「教えてくれてありがとう」

ディ・ロイに礼を述べて、凪は少しぬるくなったアイスティーを一口飲んだ。先程は爽やかに感じたシトラスの風味が、今度は苦く感じた。