「はあ?」
「だから、凪が不安がってるってば!」
門をくぐった瞬間、ディ・ロイが待ち構えていたかのように扉の影から姿を現して、ぐいぐいと腕を引っ張ってキッチンの奥まで連れて行かれた。とっとと部屋に戻ってシャワーでも浴びようと思っていたのだが、とんだ寄り道だ。なんだよ、と頭を掻きながらディ・ロイを見下ろしながら尋ねれば、何の前触れもなく先ほどの言葉が返ってきたのだった。
凪の名前が出たことで、グリムジョーの眉がぴくりと顰められる。それを無視してディ・ロイは言い募る。
「好きにしろって言われて凪もほんとに好きに過ごしてるけどさ、あれじゃいつ自分がどうなるかわかんねえから不安になるって!人質だとずっと思って気を張ってるわけだし!」
「人質なのは事実だろ」
「そうなんだけど!」
うー!!とディ・ロイは思いをうまく言葉に出来ない苛立ちを頭のターバンを掻きむしることで発散させている。いや、発散できていないか。うーだのあーだのと、何か言いたげだが言葉が出てこないようで、そんなディ・ロイの様子を見ていたエドラドが口を挟んでくる。
「自分がどうなるかわからねえ毎日は相当きついと思うぞ」
好きにしろって言ってもなあ、と腕を組みながら言うエドラドに、そうそれ!そゆこと!!とディ・ロイが叫ぶ。なんだよてめえら、とグリムジョーは壁に寄りかかりながらため息を吐いた。
戻るなり何がどうして側近たちに囲まれなければならないのか。凪に何かあったのかと問うが、別に、とのこと。なんなんだ本当に。
「だからさっさと嫁にして身の安全を保証してやれよ」
「てめえら話合わせてんのかよ」
先程道すがらシャウロンに言われたことを思い出す。だがそれは否だ。呆れ顔でシャウロンを一瞥すれば彼も目を伏して首を横に振った。
彼らがいうように、凪を対外的に嫁にしたとしても凪の身の安全が保証されるわけではない。むしろ正式な妻になることで凪はよりこちらの都合に巻き込まれることになる。
「シャウロンにも言ったがな、嫁にしたところであいつが狙われねえ保証なんてどこにもねえからな」
側近たちを睨みながら低く唸れば、じゃあどうすれば、とディ・ロイが半分泣きそうな声を上げた。んなもん決まってんだろ、とグリムジョーは即言葉を繋げた。
「国に戻すんだよ」
空気が一瞬止まった。
「ここにいること自体が危険なんだ。あいつが望めば国に戻す。それまで保護しておくだけだ」
人質としての価値がないと判断し自国に戻す。これは何も不思議なことではない。殺したり奴隷に堕としたりといった方法もあるが、そんな胸糞悪いこと自分はしようと思わないし、自分から凪をこの国の中で自由にすればそれこそ兄王たちの思う壺だ。人質である凪を本当に解放するのであれば彼女を国に送り届け、どこからも手を出せなくする。…属国となっている凪の国に再び攻め込むメリットがない今、凪を自国に戻すのが最も彼女の身の安全が守れるはずだ。
ずっと考えていたことを言葉にせず脳内で考えをまとめていると、黙っていた側近たちが目を配らせて、代表するようにディ・ロイが口を開いた。でもさ、と手を恐る恐る胸の位置まで上げて、グリムジョーをまっすぐ見て言った。
「グリムジョー、凪のこと好きじゃん」
予想だにしなかったディ・ロイの言葉に、思わず目が見開いた。一拍遅れて、はぁ?!と口から声が飛び出た。シャウロンやエドラドだけではなく、いつの間にか騒ぎを聞きつけ集まっていたイールフォルトまでもが腕を組み頷いていた(今はナキームが凪についているらしい)。
「てめえ馬鹿なこと言ってんじゃねえよ」
「いやだってさ、凪を国に戻すならもっと早く帰してんじゃん!」
こんな長い間保護する意味なくない?!とディ・ロイは言い募って、なあ?!と仲間達に同意を求めた。それに対しても彼らは何度も頷いて見せた。てめえら…とこめかみに青筋が立つのを感じながら、胸の奥がざわざわと鳴り始めた。何を言い出すかと思えば。しかし、その不穏なざわめきを止めたのもまたディ・ロイの言葉だった。
「グリムジョー。凪は自分がいつか殺されると思ってるよ」
ぴくりと眉が動いた。あ?と続きを促せば、いつまでもこの状況が続くと思ってないから不安なんだよ、とディ・ロイは話をはじめに戻してきた。そしてこれまでよりももっと口調を落ち着かせて、グリムジョーを見据えて静かに淡々と言い切った。
「好きでも好きじゃなくてもいいからさ、あの子平気そうだけど多分平気なふりしてるだけだよ。…あの子がどうにかなるの、俺たちだって見たくないからさ。頼むよ、王様」
王様。
グリムジョーは彼らにとって主であり唯一の存在だ。末の皇子であるグリムジョーを王と呼ぶのをこの宮にいる者以外に見聞きされれば、本物の王への不敬罪となりただではすまないだろう。しかし、彼らは時折グリムジョーを王と呼ぶ。それは、彼らにとっての王こそグリムジョーであり、グリムジョーも彼らにとって王であるから。この場で王と呼ぶディ・ロイの本気さを感じて、グリムジョーは返事に窮して思わず舌を打った。
「凪のことは悪いようにはしねえ。ただそのやり方にてめえら口出すなよ」
言い捨てその場を後にしながら、グリムジョーは考える。やり方に口を出すなと言ったものの、彼女を国に戻すという選択肢以外今の自分は持ち合わせていなかった。そばに置き続ければそれだけ危険な目に遭うのは間違いない。好きだとかなんだとかはどうでもいい。このざわついた気持ちは後でどうにでも処理する。
凪に決して危害を加えさせない。そのためになら自分の気持ちなどどうでもよかった。
今思えばこの時とっくに自分の心に答えは出ていたのに、それを認めようとすると彼女を不幸にしてしまうかもしれないと警鐘が鳴り響いていたから。素直に自分の心に従えなかったのだ。
凪の心を考えるには、余裕がなかったのだ。それはきっと、今もまだ。