手折られた花

それはあまりにも突然で、かつ、前触れもなく自然で。
何も疑いもしなかったしあり得ないことだと思ったけれど、私自身が異能と呼ばれる力を宿しているのだから、私以外にも異能を持つ人だっていないわけがないと考えるのが自然だった。
頬に伝う血は生温くて、こんなときだからこそ生きているということを強く感じてしまった。




そろそろグリムジョーが帰ってくるかも、とナキームと交代してディ・ロイが部屋を出て行ってから暫く経った。ナキームは寡黙だ。何も喋ることなく静かに入り口のそばの椅子に座っていた。
凪自身それには慣れっこになっていたので、今日読み切りたかった本の活字を追うことに集中した。

本のページをめくるほんの一瞬、脳裏にちらつくのはディ・ロイとの会話の後の感情。人質であるのは事実。いつこの生活が終わるかわからない。気を抜きすぎてはならない。改めて自分に言い聞かせながらも心はどこかで何も起こるはずはない、と思っていて。だからひょこりと顔を覗かせたディ・ロイを見てもかけらほど警戒心など抱かなかった。

「ナキーム。グリムジョーが呼んでる」
「わかった」

ソファに座ったままナキームが部屋を出ていくのを見送って、また視線を本に落とそうとした。が、いつもならディ・ロイが勝手に話しかけてくるのに今日は彼の声がしない。少しの違和感を覚えて顔を上げれば、いつのまにかディ・ロイがすぐそばまで近づいてきていた。
少し驚いて目を瞠りながら、「びっくりした。どうしたの?」と本を閉じながらディ・ロイを見上げる。見上げた瞬間、その違和感はさらに強くなった。
いつも笑っている彼の口角が上がっていない。固く閉じられた口元は別人のそれのよう。…ディ・ロイ?と思わず名を呼びかけた瞬間、目の前に何かが走った。反射的に身体を捻って避けたことと、何かが顔に当たった衝撃でソファに倒れ込んでしまった。右の頬があつい。何が起こったかわからず思わず頬に指を伸ばせば、さらりとしたものが指先に絡まった。どくどくと脈打つそこと、つんと鼻腔に届いた鉄のにおいで、これは自分が流した血だと気づいた時、このディ・ロイがディ・ロイではないと確信に変わった。

姿はディ・ロイそのものだ。そのものだが、私の知るディ・ロイとは姿以外ひとつも似たところはなかった。頬から手を離して、身体を起こし気休め程度にディ・ロイの姿をした者と距離をとる。距離をとるといっても自分は今ソファに倒れ込んでいて、そこから起き上がろうものなら相手の手の中にある刃物ですぐに裂かれてしまうだろう。下手に動くことはできない。

そもそも、この状況はなんなのか。
グリムジョーがわざわざ自分をこんな方法で暗殺してくるはずはない。自国の人間?もしくはグリムジョーかディ・ロイに罪をきせたい王族の誰かか。

とにかく、自分は人質としての役目などとっくに失くしていたらしい。

小さく細く息を吐き出し、目の前の刺客を睨む。いつ死んでもいいと思っていたし殺される運命も受け入れるつもりだったが、こんなわけのわからないまま死ぬのは納得いかない。

ましてや、ディ・ロイに化けた奴に殺されるなんて。絶対嫌だった。ディ・ロイに罪がなすりつけられるのは絶対に避けなければ。

ターバンの奥で鋭く光る視線はディ・ロイが絶対にもっていないもの。凪はじりじりと迫る刺客から目を離さず、ソファの背に食い込むくらい身体を後ろにそらして気持ちばかりの距離をとる。カツン、と履いていた靴が脱げて床に落ちた。本当に小さな音で、こんな音に気づいて誰か駆けつけてくれるなんて思えなかったし、実際靴が脱げたことに気づいていなかった。

凪の血で汚れた刃物を目の前に掲げて、「今度は首を狙う」と低く唸ったディ・ロイの姿をした者の声は、ディ・ロイのそれだった。脳が混乱するが、絶対にディ・ロイではない。

「あなた、誰…?!」

少しでも時間を稼がなくては。
何故かそう思って刺客と会話を試みるが、相手は一切答えない。今度こそしくじらないようにと狙いを定めているようで。
ふうふうと、息が荒くなる。死を目前にした野生動物の呼吸と似ていて、こんな呼吸を自分がすることになるとは思ってもいなかった。今になって頬の傷が熱く痛みを発し始める。ずきずきとしたものと、流れる血が顎を伝ってソファと衣服を汚していく。もうこれ以上後ろに下がれない。表情が思わず歪む。後少しでも後ろに、と手を伸ばした時だった。

クッションとクッションの間、背もたれと椅子の間に指先が入り込んだ。その瞬間、指先に何かが触れると同時に頬の傷と同じ痛みがそこに走る。しかしそれは頬のものよりもずっと小さな痛み。
凪が思わず目をそちらに逸らした時だった。
刺客が腕を振り上げ刃物を凪の首めがけて落としてきた。凪は咄嗟に指先に触れたそれを掴んで、なりふり構わずそれを身体ごと刺客に向ける。手に握り込んだものがなんなのか、それが何か認識したとき、どうしてこんなものがここにあるのか、たくさん考えることがあるのに、考えたいことばかりなのに、思考はすっかり停止してしまっていた。







「グリムジョー、呼んだか?」

自室に戻る最中、凪のそばにいるはずのナキームと鉢合わせた。いや?と答えれば、ナキームも同じく首を捻り、ディ・ロイに呼びにこさせたろう?と言ってくる。

「はあ?ディ・ロイはさっきまで俺と…」

言いかけると同時に何かが頭の中でかち合って、グリムジョーは顔色を変えた。意味がわからないという表情のナキームを捨て置いてグリムジョーは走り出す。

自分はナキームを呼んでいない。そしてナキームはディ・ロイが呼びにきたと言ったが先程まで確実にディ・ロイは自分といたからそれは不可能。そして、どこに、呼びにきた?

脳裏に凪の姿が過ぎる。

『…あの子がどうにかなるの、俺たちだって見たくないからさ』

言われたばかりのその言葉とざわめく感情が、繰り返し繰り返し頭の中でこだまする。うるせえ、とグリムジョーは舌打ちしながら駆けた。




開け放たれた自室からは異様な雰囲気が漂っていた。全力で走ったため肩で息をしながらそこに飛び込めば、いつも凪が座っているソファは血の海で。その中心に、凪と、凪に覆いかぶさる人がいた。ふたりはぴくりとも動かない。

「凪!」

思わず彼女の名を叫んだ。
こんな風に凪の名を呼びたくなどなかったのに。血の気が引いた。