もう君も気づくころだろう

凪!と悲鳴にも似た、普段聞いたことのない彼の声が自分を呼んでいた。身体を起こそうとするが、自分の上にのし掛かった重いなにかが邪魔をして指の一本も動かすことができなかった。全身に血を浴びているのか、今はディ・ロイの姿ではなくなった刺客と触れ合った肌がねばついて気持ち悪い。ゆっくりと視線を声が聞こえた方に向ければ、血相を変えたグリムジョーがこちらに駆け寄ってきたところだった。

「…グリムジョー」
「生きてんのか?!」

凪の声に目を瞠りながら、もう動かない刺客を凪の身体から剥ぎ落とし、グリムジョーは凪の身体を検分する。どこ怪我してる、と聞いてくるほどに血まみれで一見しただけだと自分の血か刺客の血か判別できないほど血でまみれていた。

「痛いのはここ…」

いつものように声を発しているつもりでも、想定外の出来事に身体ごと震えが声に伝わっているようで、呂律が回っているかわからなかった。ここと示したのははじめに切り付けられた右頬。そのとき、自分の手に握り込んでいるものが小さな短刀であることに気づいた。グリムジョーの足元に無造作に転がされた刺客の胸を貫いた感触が今も手の中に残っている。
なんで短刀がソファの間にあったのか。そして咄嗟に身体ごとぶつかって難を逃れることができたが、少しタイミングが違えばそこで転がっているのは自分だったと思うとさらに全身に震えが襲ってきた。

グリムジョーは凪の示した頬に触れようと指を伸ばしたが実際に触れることはせず、ついで未だ短刀を握り込んだままの凪の手を取った。 

「ゆっくり離せ、間違っても引くなよ」

彼が言っている意味が分からず首を傾げれば、グリムジョーは小さく「お前刃を持ってんだよ」と呟いた。そのときはじめて短刀の柄ではく、柄に近い刃の部分を自分が握り込んでいることに気づいて。生唾を飲み込み、彼に言われた通り手をゆっくりと離す。引いたりすると指が落ちてしまう。それを彼は言いたかったのだろう。
カラン、と床に落ちた短刀は、自分の血と刺客の血で濡れていた。刃で傷ついた両手を呆然と見つめる。咄嗟のことで指先に触れた刃を柄など関係なく掴んだ結果だ。この傷は、命と引き換えについた傷。…そう思った瞬間、頬よりもさらにずきずきと熱を持った痛みが走り始めた。思わず吐き気に襲われえずきそうになれば、グリムジョーが「他に傷はねえな?」と身体を検分し終えたのかそっと抱き上げて寝台まで連れて行かれた。血まみれの身体が寝台に寝かされて、そこがあっという間に血で汚れる。

「待って、私血で」
「うるせえ。血を洗い流してすぐ傷の手当てだ。それ以外てめえは何も考えるな」

乱暴な物言いだが、黙って大人しく寝ていろということだろうか。さすがにこの状況を脳が把握してきたのか、自分の身に起こったことに目眩もしてきた。頭の回転が速いグリムジョーはそれ以上に状況を把握しているやもしれない。

「凪?!」

グリムジョーの声を聞いて駆けつけてきたのか、いつの間にか部屋には側近たちがいて、凪の姿を見てディ・ロイが悲鳴を上げた。冷静にエドラドが刺客を足蹴りしてその姿を確認する。

「お前がやったのか?」
「いや、俺が来た時はもう刺客それはそうなってた」

それはすなわち凪が自分で対処したということを示していて、エドラドはそうか、と頷いて思いっきり刺客を蹴り上げた。
ディ・ロイは刺客の姿を見て、「なんでこいつ俺の格好してんの…?」と動揺の声を上げる。顔や背格好はすでにディ・ロイではない、見知らぬ男だったが衣服や頭に巻いたターバンはディ・ロイに化けていたままで。凪は小さく「その人、ディ・ロイと同じ顔してたの」とディ・ロイにとっては酷かもしれない事実を伝えた。案の定、ひっ!と声を上げたディ・ロイに、シャウロンがその刺客の顔をじっと覗き込む。

「兄王の側近だな。不思議な力を持つと噂があった」
「は!それがディ・ロイに化ける力だってことか?…ざけんな」

不思議な力、それすなわち異能。凪が持つ力とはまた別の、誰かに成り代われる力を持っていたと考えられた。ディ・ロイの格好をして忍び込み、グリムジョーと側近がいない間に凪を殺そうとした。なんのために?凪にはそれがわからない。しかし、グリムジョーは朝議での一件を思い出し、深く眉間に皺を寄せた。

「イールフォルト!湯を用意しろ。エドラドと凪の血を落とす準備しろ。ナキームは傷の手当てだ」

凪の血で汚れた手に構うことなく、いつものようにポケットに手を突っ込み、グリムジョーはてきぱきと指示を出す。頷いて側近たちが部屋を出ていく。何か暗い顔をしたナキームには、てめえのせいじゃねえから気にすんなよカス、と主人らしくフォローの声かけも忘れていない。そのナキームより動揺しているのがディ・ロイだ。自分の姿に化けた人間が主人の保護下にある存在を殺そうとしたのだ。動揺しないはずはない。

「グリムジョー、こいつ、第四皇子のとこの奴だよ。何回か立ち話したことある」

だからこいつ俺に化けたのかな?と泣きそうな声で言うディ・ロイに、凪が声を上げて否定しようとすれば、グリムジョーはそれを制して「あいつか」とより一層低く唸った。

「ディ・ロイ。お前凪のそばについてろ。…シャウロン」

じっとその場でグリムジョーの指示を待っていたらしいシャウロンがその呼びかけに反応する。行くぞ、と短く告げ、グリムジョーは部屋を出ようとその場から足を踏み出した。瞬間、凪は思わずその手を伸ばし、彼の衣服を掴んでしまった。手は傷だらけ、動かすだけでも痛いし、掴むことで彼の服を血で汚してしまった。
驚いたように振り向いたグリムジョーに、凪はどうして自分がこんなこと言おうとしたのか、言ってしまったのか理解できないまま言葉を紡いだ。

「行かないで」

そばにいてほしかった。
ディ・ロイがいてくれるのはわかっていたけれど、どうしてもグリムジョーにいて欲しかった。何でそう思うのかわからないけれど、今一番そばにいてほしいのは彼だった。お願い、とらしくなく懇願すれば、グリムジョーは一瞬躊躇したが踵を返して「シャウロン、てめえロカ呼んでこい」と寝台に座りながら言った。

「ロカを?」
「凪の血を洗い流すのを俺らがやるつもりか?女がいるだろ」

少し呆れた声音で言ったかと思えば、グリムジョーは視線を凪に向ける。少し細められたその目はじっと凪を射抜いて、傷のせいでいつも以上に速く脈打つ心臓がより一層鼓動を高鳴らせた気がした。

「…ここにいるから、寝ろ」

ひどく優しいその声に、凪はここにきてはじめて泣いた。それは恐怖からか、生きていたことに対する安堵からか、グリムジョーがここにいてくれるからか。
さめざめと溢れる涙は血を溶かして、赤い涙になって顎を伝っていた。ただ黙ってグリムジョーはその様子を見ていた。



・・・



シャウロンが呼んできた王族付きの医師団のひとり、ロカが泣き疲れて眠ってしまった凪の身体を清め、ナキームが準備した医薬品で傷の手当てをしてくれた。何も聞かず淡々と処置をする彼女に礼を告げ、すうすうと深い眠りについた凪のそばから一時も離れなかったグリムジョーは、彼女の髪をひとつ撫でて立ち上がった。

「行くぞ」

そばで待機していたシャウロンたちに声をかけ、ディ・ロイとイールフォルトはここにいろ、と告げる。その目は殺気立っていて、まるで獲物を横取りされた豹のような鋭さだった。



第四皇子が突如行方不明となったのはその夜のことだった。