ベッドで身体を起こした私をまっすぐ見ている彼の目は真剣だった。椅子に腰掛け、身体をあえて丸めて距離を少しでも詰めるかのように。だらんと下げられた腕は細くも太くもなく、引き締まって鍛えられていた。今しがた問われたその言葉から脳が逃避しようとしているのか、そんなどうでもいいことを考えてしまっている。それでも彼の強い視線によって思考は再び呼び戻され、今問われた言葉を反芻してその真意を探ろうとするがなにもわからなかった。ただ国に帰るかと問われた瞬間、心の奥底で嫌だと叫んだ自分がいたのは確かだった。
「俺のそばにいる限り、また命を狙われるぞ」
静かな声だった。グリムジョーは低く凪に語りかける。凪は口を開いては閉じてを繰り返し、なんと答えていいか躊躇していた。
生まれた国で自分がどんな目に遭っていたか、グリムジョーにちゃんと話したことはなかった。異能を気味悪がられ、王宮の奥に閉じ込められ、邪魔者を追い払うかの如く人質としてこの国に送り込まれたのだ。今更国に戻されたところで辿る道は同じ。少しだけ生き延びる期間が長くなるだけかもしれないけれど、正直この国に来る時にすべて覚悟して思いは捨ててきた。こんなに恵まれた日々を与えてくれた彼のもとに、自分は嫁ぐという形で送り込まれた。それを彼が終わりにしたいというなら自分に選択肢はないけれど。それでも、答えは決まってきた。
「私はあなたの妻になるために、この国にきたの」
ぴくりと、グリムジョーの肩が揺れる。
「今更戻れないし、戻りたいとは思わないわ」
「殺されかけたのにか」
低いグリムジョーの問いに、凪は小さく頷く。今も掌の傷は痛いし、抵抗した時に痛めた身体は自由に動かすこともままならない。そうだとしても、これは理由にならない。
死ぬかもしれないと思った時、素直になろうと思った。心が読めるわけではないのだから、言葉にしないと伝わらないことばかり。察してほしいとか、暗黙の了解とか、そういうのはもういらない。
ねえ、気づいているんでしょう?
そう問いかけたい気持ちを抑え込んで、心臓の高鳴りをそのまま受け入れる。努めて笑おうとした。ちゃんと笑えていたかわからないけれど。なるべく明るく、深刻にならないように。このままさよならをしても、あなたの記憶に残るように。
「私は、グリムジョーが好きよ。そばにいて、て言った言葉は嘘じゃない」
そばにいてほしかった。そばにいてほしい。彼と一緒に生きていきたい。
はじまりは人質で、形式だけの妻だったけれど。何気ない日常を過ごすうちに彼に惹かれて、異能の力を曝け出しても普通だと言われて、刺客に襲われた時には血相を変えて駆けつけてくれて、心配をしてくれて、ずっとそばにいてくれた。
もう、他の誰にも変えられない存在なのだ。
そう思っているのは私だけかもしれないけれど、国に帰される運命がこの後待っているのかもしれないけれど。だけど、もう心に蓋をするのはやめる。迷惑かけない、て言ったのに、ごめんなさいと呟いた時に、ぽろりと頬に何かが伝った。それがいろんな感情が涙になって現れたと気づいた時は、そっと彼に目元を拭われた後だった。
「先に言うなよ」
ベッドのすぐそばに立ったグリムジョーは、両手で凪の頬を包む。親指で彼女の目の縁にたまった涙を拭いながら、じっと凪の目の奥を射抜いていく。
「とっくに惚れてんのは俺の方なんだよ」
彼の綺麗な青の目はじっと凪を見ていた。揺れている彼女の瞳に構うことなく、顎を掬い上げてそのまま唇を重ねた。触れるだけなのにしっかりと存在を確かめ合うようなその行為は脳を溶かすかのように心地よくて、感じたことのない安堵感と幸福感が心を満たしていって。凪の溢れる感情はまた涙に変わった。都度涙を拭ってくれるグリムジョーがそっと凪を抱き込んだ。
「嫁になれ。俺がお前を守ってやる」
掌が痛くて、彼の背に手は回せなかった。代わりに、はい、と躊躇いなく答えていた。もう一度唇を重ねられて、ああ、ただ人質として死ぬ運命にあった自分がこんな風に人を恋しく思い、その人に思いを寄せてもらえる日が来るなんて思ってもみなかった。こんなに満たされた気持ちははじめてで、とてもふわふわしてしまっている。ぎゅっと抱きしめたいけどできない代わりに、グリムジョーが傷に障らないようゆっくりと抱きしめてくれる。あたたかくて、心地よい。
守られると言う安心感と、彼のそばにいても良いという許しを得たことが何より安堵感を満たしてくれて。
なんて、私は恵まれているのだろうか。
きっとまた刺客には襲われる。それでも、彼が守ってくれるし、そんな時以外は自分たちも側近のみんなと穏やかな日々を暮らせると信じていた。
そんなことを彼の腕の中で考えてしまっていたこと自体、自分の甘さが露呈していたと後になって思い知らされるのだけれど。
ただ今は、このぬくもりにすべてを委ねてしまいたかった。
願わくば、最期の瞬間まで。