柔い音

砂漠で囲まれたこの国にも不思議と四季はあるもので、照りつける太陽がほんの少し穏やかなものに変化し始め季節が変わってきたことを示してくれていた。
凪の怪我もほぼ癒えて、日常生活を送ることへの支障はなくなってきていた。心配された顔の傷は跡もなく消えてくれたが、手のひらの傷だけはどうしても残ってしまいそうだ。深々と刃を握りしめたのだ、無理もない。凪はすっかり深く線の入った自身の掌を見つめながら、自分にそう言い聞かせた。

「気になるか?」

背後からかけられた声に振り向けば、グリムジョーが肩越しに凪の掌を覗き込んでいた。物理的にも心理的にも距離が縮まるのに、互いの感情を確かめ合ってからそう時間はかからなかった。

「痛みはもうないから大丈夫だけど…。むしろあなたにとって不都合になっちゃったわね」
「は?なんでだよ」
「傷物の妻を娶るなんて、て言われてるんでしょう?」

肩口から腕を回してグリムジョーが凪の掌を指で撫でる。眉間に皺を寄せ、どっから聞いた、と低く唸る彼に、噂は風に乗って広まるのよ、と凪は自嘲気味に溜息をついた。
グリムジョーに嫁になれと言われ、正式に返事をしたその日のうちに彼は父王と兄王たちに凪を正式に娶ることを宣言した。単なる人質ではなく正式な妻であり、これ以上凪に手を出させないための牽制。父王は笑い、兄王たちは行方不明になった兄弟の末路を察して苦虫を噛んだような表情を見せていた。
そして腹いせなのかなんかのか、異能の力を持つ、刺客に襲われ傷物にされた女を正室にするのはどうなのかと言い出した。呆れ返るにもほどがある文句ばかりで、グリムジョーはすべて無視していたし「はじめから俺の嫁にするために連れてきたんだろうが」と一蹴した。
しかしそれは凪の耳にも届くほど国中に広まり、凪は自分たちで決めたことなのだから他人にとやかく言われる必要はないと思いながらも、どうしても自分の身の傷を見るたびに思ってしまうのだ。本当に自分は恵まれているし、どこまで彼に甘えて良いのか、と。

「その傷はてめえの命と引き換えについたもんだろうが。気にすんな」

言いながら触れるだけのキスを頬に落とし、グリムジョーは凪から離れた。彼があまりにも慣れたように身体に触れてくるものだから凪もまたそれにいちいち驚く暇もなく無理やり慣れるしかなかったが、グリムジョーは思っていた以上に凪に触れてくるしそばに置きたがる。ディ・ロイ曰く、「ずっとそうしたかったんだよ」とのこと。
彼の唇が触れた頬をそっと撫でて、グリムジョーの背中を見つめれば彼は振り向きざまに凪に声をかけてきた。

「今日夜出かけんぞ。湯浴みしないで待ってろ」
「夜に?」

夜出歩くことなどほぼないため、いきなりのグリムジョーの提案に凪は首を傾げる。それに対してグリムジョーは良いもん見せてやる、と口角を上げて笑った。
行ってくる、と部屋を出ていく彼を見送り、凪はそっとソファに腰掛ける。

正室に、妻になったといっても夫婦にはまだなっていない。凪の怪我が癒えるまで彼は凪の身体に障るようなことはしてこなかった。夜眠る時も同じベッドで眠るが背中合わせ。夫婦になるということがどういうことかはわかっていたし、いずれそういうときがくることも覚悟していた。そしてその時には彼に見せなければならないものもある。凪はまた小さく溜息をついて掌を握り込んだ。

「…それにしても、何を見せたいのかしら」


わざわざ冷え込む夜の砂漠に出かけるなんて、と疑問が頭によぎるが、今夜それはわかること。それまではいつも通り、身体に障らないようゆっくり過ごそう。そう思って読みかけの本を手にそっとページを捲るのだった。




まだこの時は知らなかったけれど、私は、あの夜彼と一緒に見た景色を今生忘れることはできなかった。
幻想的で美しい世界と、その隣に立つ彼の姿。
結ばれた手、絡めとられた指。頬にあたる風と指先から感じる彼の体温。
紡がれた言葉ひとつひとつが脳に刻み込まれて、このまま時が止まればいいとまで思った。

あなたはどう思った?といつか聞いたことがある。
そしたらあなたは、少し驚いた顔をした後に優しくキスをしてくれて、あれで終わるのは勿体ねえ、と口角を上げて笑った。

それもそうだねと私も笑い、彼に身体を預けた。

そんなこともあったね、と、ずっとずっと他愛もなく話せる日が続けばよかったのに。
あれは儚い夢だったのか、現実だったのか。
それすらもう分からなくなっていた。