月は味方か

はじめて人とは違う力があると知ったのは物心がついてしばらく経った頃だったと記憶している。侍女が部屋に飾ってくれた色とりどりの薔薇の花がその役目を終え色褪せ萎れていく様を見るのが辛かった。あんなに綺麗だったのに、どうして人間と違って花はこんなに早く命を散らせてしまうのかと。
元に戻ってほしいな、またあの鮮やかな色で笑っていてほしいな、そう幼いながらに思って萎れかけた花にそっと手を触れたのだ。
もとにもどってくれないかな。
触れながらそう願った途端、首をもたげていた薔薇はすっと姿勢を整え天を向き、萎んでいた花弁は膨らみを取り戻した。ああ、もとにもどってくれた。ほっと心があたたまり自然と口元が緩む。鮮やかな色を取り戻した花弁に再び触れた。
その瞬間、ガシャン!と固いもの同士がぶつかり合って何かが砕けるような音が響いた。反射的に振り向けば、顔を引き攣らせ全身を震わせ立ち竦んでいる馴染みの侍女がいた。彼女の足元には無数のガラスの破片と何本もの花が無残にも散っていた。あの破片は花瓶だったものかな?と花瓶に満たされていたであろう水が床にどんどん広がっていく様をぼんやり眺めながら思った。
一瞬窓から差し込んだ太陽の光が目に入って身を捩った途端、指先に微かな痛みが走った。眉を顰めずくずくと痛み始めた指を目の前に翳してみれば、薔薇の棘で切ったのだろう、柔らかな指の腹がほんの少し裂けていた。ぷくりと丸みを帯びた血が指の腹に浮かぶ。自らの血と今にも叫び出しそうな侍女と床に落ちた花弁を順番に見て、大丈夫?と首を傾げて声を出した瞬間、侍女は喉のずっと奥から搾り出すように悲鳴をあげたのだった。

あの時はまだわからなかった。
これは人に知られてはいけない力だったのだと。


・・・


息が詰まる感覚が身体を突いて、凪は目を見開いた。視界が開けたはずなのにそこは真っ暗な世界だった。知らない気配にドクンと心臓が大きく鳴る。落ち着こうと胸元を手で押さえながら意識して深く呼吸する。息を吐くたびに暗闇に目が慣れてきて、ようやく視界が捉えたのは見慣れぬ天井だった。落ち着いて状況を整理しようと五感を働かせると、身体を横たえている寝台の感触もいつもと違った。その時、ああそうか私はこの国に嫁いできたのだと思い出した。
はじめてこの国で過ごす夜だった。


与えられた部屋で何もせず座り込んでからどれくらい時間が経っただろう。困惑したようなディ・ロイが凪を呼びにきたのは黄昏時だった。彼に連れられ最初に通された部屋に向かえば、王に命じられて訪れたらしい大勢の家臣たちをグリムジョーと呼ばれる末の皇子がうるせえとっとと帰れと汚い言葉で追い返そうとしているところだった。凪の存在に気づいているのかいないのか、断片的な声を拾って彼らの訪問理由を推察すると、どうやらこれから祝いの宴を執り行うというものだった。断固拒否する姿勢を示すグリムジョーに対し、これは王の勅命であることと他国からの来賓も集まっていると何度も家臣たちは繰り返し言い続けた。何回もその問答が繰り返されたのちにとうとう根負けしたのかグリムジョーは勝手にしろと渋々それを受け入れたようだった。
その様子を黙って見ていた凪も、グリムジョーが匙を投げた瞬間、着替えをと部屋にやってきていた見知らぬ女性たちに別室に連れ込まれ、あれよあれよという間に白いレースのドレスに着替えさせられた。髪は結い上げられ砂漠の国には珍しい生花を編み込まれている。花の甘い香りが鼻腔をくすぐった。
同じく白い衣装に着替えさせられていたグリムジョーと次に顔を合わしたのは、宮殿の中心に位置する大きな広間だった。豪華絢爛な造りをした広間には飾り立てられた装飾品と食べきれないほどの宮中料理が並べられている。広間の奥、一段高い場所に敷かれた絨毯の上にあぐらをかき頬杖をついて不服そうな表情をしている彼の隣に案内され凪も黙ってそこに座した。
ちらりと右隣を見やれば、同じようにこちらに視線を落としていた彼と目が合った。お互い逸らすことなくじっとそれを受け止め合う。
近くで見ると改めて綺麗な瞳の色をしているなと思った。砂漠の国の人なのに肌は焼けていない。しかし病的な白さとは思えない。髪や瞳の色もそうだが、もともと色素が薄いのかななどと今考えなくてもいいことを思考し続けた。
目の前に酒が運ばれてくる。祝い酒です・とにこやかに告げられそれに目を落とした時、ぽん、と凪の肩にグリムジョーの掌が乗せられた。思わずその手を見れば、グリムジョーは少し屈んで凪の耳元に口を近づけた。突然の彼の行動に身体が強張り心臓が跳ねた。そして凪にしか聞こえないように囁いた。

「これから出されるものに口つけるなよ」

それだけ言って彼はすぐに離れる。耳元にかかった彼の息がくすぐったかった。その様子を見たグリムジョーの父王が、もう良い仲になったんだなと満足そうに、しかしどこか嘲笑めいたものを投げてきた。それに対しグリムジョーもまた片方だけ口角を上げて、うっせえ見たらわかんだろ・と挑発し返す(まだお互いちゃんと名乗り合ってもいないとは口が裂けても言えない状況だ)。
王は祝いの席だと声を上げ、それが合図だったかのように来賓たちがグリムジョーと凪を前に酒を酌み交わし談笑をはじめた。グリムジョーは口を固く閉ざし踏ん反り返ったままで、凪も所在なく目を伏して時間が過ぎるのを待つ。何度か酒や料理を勧められたが、口をつけるふりをするだけでやり過ごした。
そんな不毛な時間が過ぎ去り、グリムジョーの離宮に戻れたのは月が高く登ってからだった。はじめて国に来た時と同じようにグリムジョーに肩を押され彼の離宮に戻った。道すがら、「まだちゃんと名前聞けてない。なんて呼べばいい?」とようやく彼に問うことができた。彼はちらりと自分を見下ろし、「グリムジョーだ。好きに呼べ」と短く答えた。凪が「私は、」と口を開いた瞬間「凪だろ。知ってる」とグリムジョーが遮るように言った。そして離宮の凪に与えられた部屋の前で彼は凪の肩から手を離し、「今日はもう寝ろ」とぶっきらぼうに部屋に彼女を押し込んだのだった。

用意されていた寝間着に着替え、疲れ果てた身体を寝台に横たえれば瞬間襲ってきた睡魔に凪の意識は取り込まれた。

そして次に気づいたのが今だった。
心身ともに忙しない一日だったと振り返る。身体を起こし寝台に腰掛ければ寝台から軋む音がした。凪に与えられた部屋には窓がなかった。なんとなくこのまま眠れる気がしなくて、外の空気を吸うために部屋を出る。長い廊下をひたひたと歩いていると小窓を見つけた。そこから空を見上げれば欠けた月が空のずっと高い位置に浮かんでいた。自分の国で何百回と見てきた月と全く同じに見えるそれ。雨はいつの間にか上がっていて、月の光が砂漠の砂を燦爛とさせていた。その光景をぼんやりと眺めながら、石の床を素足で歩いたことですっかり冷えてしまった爪先を暖めようと足の指先をそっと擦り合わせる。静寂の中、衣服と肌が擦れる音だけが小さく微かに響いていた。