目覚めぬ悪夢に住まうもの


世界に喧嘩を売って、何を得た? その問いに、ノエルは寂しそうな笑みを浮かべて、 何だと思いますか? と逆に問い返してきた。…俺が知るかよ。




入院患者の診察が珍しく予定よりずっと早く終わり、ここ数週間禄に休みを取れていなかったことを上が考慮してくれて早めに帰してくれた。ライル先生は働き過ぎですよ・とナースのひとりに言われた言葉が頭の中でぐるぐる回る。がむしゃらにでも働かないとやってられないですよ・と返した自分はどんな表情をしていただろうか。

少しでも休めば思い出してしまいそうで、少し、怖い。テロで家族が死んで、双子の兄弟と別々の道を歩んで、…双子の兄弟が遥か遠い宇宙の彼方で死んで。ひとり、残された。気づけばひとりだった。こんな世界、俺もニールと一緒で大嫌いだ。けれど、それを変えようとは思わない。所詮無理な話だから、俺が命を張ってまで変えてやる必要は無い。そんなことに大事な命を使うくらいなら、がむしゃらに目の前の人間を助けて命を削った方が何倍もマシだと思う。

黒のロングコートの裾に歩くたびブーツで蹴り上げられた落ち葉がまとわりつく。冬が近い。冬は、嫌いだ。家族が死んだのも冬になる前。嫌な思い出しかない。冷たい風がいつも何か大事なものを連れ去ってしまう。そんな気がしてならない。

「だから嫌いなんだよ…」

ひとりごちたライルはマフラーを口元へと引き上げる。早く帰ろう、寒いのは嫌だ。乾燥した空気を吸い込んで、手洗いとうがいは絶対だな・と、本職の癖からそんなことをいちいち脳内で確認しながら足を速めた。
そのとき、トスッと、軽い音と何か小さなものがぶつかる感触を膝下に感じた。反射的にそちらに視線を向ければ、まだ幼い子どもが自分とぶつかって転んでしまったようで。後ろに倒れ込む子どもに手を伸ばすが後一歩で間に合わず、やばい!と思いながらライルはその場にしゃがみ込んだ。
咄嗟に子ども…少女が怪我をしていないか、頭を打っていないかを確かめる。頭の中で医学用語や応急処置の知識が一気に溢れるが、見たところその必要は無いらしい。
ふぅ、と安堵の息を吐いて、ライルは少女の顔を覗き込む。

「ごめんなお嬢ちゃん。どっか痛いとこないか?」
「、だいじょう、ぶ」

子ども独特の高い声と舌足らずな口調に、ライルは小さく笑う。転んで泣かなかったことにえらいえらい、と頭を撫でてやる。子どもは嫌いじゃない。けれど、特別好きというわけでもない。医者という職業柄、小児科ほどじゃないにしろ子どもと接することも少なくはない。元々人当たりは良いつもりなので、入院患者の子どもにも懐かれたりする。

「ぶつかっちゃって、ごめんなさい」

ペコリと頭を下げた少女にこっちこそごめんなと謝りながら、親はどこだと周りを見渡す。まだ三歳くらいだろうか。年齢的に考えても一人歩きは考えられない。…少女の顔をよく見る。どこかで見たことがある、気がする。けれどその直感をかき消すようにもう一度少女の頭を撫でてやって、ライルは立ち上がった。あちらから小走りに向かってきている姿がある。きっとこの子の親だろう。一応親にこの子を引き渡してから帰るか、と空を見上げる。薄暗い。今朝から眼前にちらつくあの女と最後に会った日もこんな天気だった。晴れでもない、雨でもない、とにかく気持ち悪い空だ。

ママ!と足元で大人しくしていた少女が声を上げる。走っていこうとする少女に、危ないから走らない方がいいぞと言ってやれば、ぴたりと足を止めてその場で素直に母親が来るのを待ち始めた。本当に大人の言うことをよく聞く子どもだ。親としては育てやすいだろうと何となく思った。そう思った、瞬間。

「ライル、兄?」

耳に届いた、その声。自分を「兄」と呼ぶのはもうこの世にひとりしか残っていない。呼ぶなと昔から何度も言っているのに止めようとしなかった、忌々しい女。振り返りたくはなかった。けれど、意思に反して身体は言うことを聞かない。ほぼ反射的に、けれどゆっくりそちらに向き直る。
…三年前より、少しだけ大人びた幼馴染がそこにいた。


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