駆け寄ってきた自分の娘を抱きしめながら、ノエルは穏やかに小さく笑った。
「お久しぶりです」
最後に会ってから三年。最後に会ったときに見せた笑みと全く同じそれに、ライルはただ表情を変えないで彼女を見据えていた。
「マリアって言います」
ノエルの膝の上にちょこんと座って大人しくジュースを飲む少女を、ライルは黙って眺める。ほとんど初対面だが、初対面ではない。生まれたばかりのマリアとは一応顔を合わせている。その時も(そして今もだが)、その子どもに対して特定の感情は湧かない。ニールなら血は繋がっていなくとも、自分の姪だと勝手に喜ぶのだろうけれど。
出されたコーヒーを一口飲みながら「マリア」を観察する。ノエルと同じ瞳の色をした、茶髪の少女。年は最後に会った頃から計算するとおおよそ三歳くらいだろう。何となくノエルに似ているが、その中で知らない面影も混じっている。それが誰のものなのかは知りたいと全く思わない。
ノエルにマリアを引き渡し、そのまま無言で離れようとしたライルを止めたのはノエルではなくマリアだった。マリアはライルのロングコートを小さな手で控えめに掴んで、ライルが離れるタイミングを見事に奪い去った。小さな手を振り解くわけにもいかず、その場を離れられないライルがどうしようかと悩む様子を見てか、お茶でもどうですか?というノエルの一言から今の状況が生まれた。
どういうつもりで彼女が自分を茶に誘ったのかは知らない。娘を紹介したかったのか、偶然再会した成り行きなのか。…別に、その真意はどうでも良かった。ただ、早くこの場から離れたかった。
「ライル兄はまだあの病院でお医者さんをしてるんですか?」
「まあな。お前は…仕事してなきゃ子どもなんか育てられるわけねえか」
「一応手に職はつけてますよ」
今日は早めに仕事が終わって、マリアをナーサリーに迎えに行った帰りだったんです・と笑うノエルに、どうでも良いと言わんばかりにライルは相槌すら打とうとしなかった。それでも彼女に今の状況を問う自分がいることにライル自身不思議に思わざるをえなかった。どうして自分はそんなことが気になるのか。別にどうでもいいじゃないか。
自分自身が何を考えて、何を言っているのか。意味が分からない。
「…まさかまだ生きてるとは思ってなかった」
ぽつりとライルが呟けば、三年前のようにノエルは不快そうに表情を歪め、なかった。一瞬面を食らったように目を丸くしたが、次の瞬間にノエルははにかんだような笑みを見せる。
「何とか生きてますよ」
そう言って笑う彼女を、自分は知らない。
十年ぶりに再会した時、彼女は触れればすぐにでも崩れてしまいそうなほど脆い女になっていた。ニールが死んで、愛した男が死んで、還る場所も奪われた彼女は何故生きているのかといったほど憔悴し切った状態だった。そしてその数ヵ月後、子どもを産んだ直後に再会した彼女は、どこでその強さを得たのかと聞きたくなるほど強くなっていた。自分の脅しや嘲笑に冷静に対応して、それ相応の返答をしてきた。そして今日、三年ぶりに会った彼女は笑っている。
…このめまぐるしいくらいの変化は、なんだ?
「ニールが遺した金はどうした。あれがあれば仕事なんかしなくても生活出来るだろ」
「あれなら全額寄付しましたよ。そっちの方がニール兄も喜ぶと思って」
さらりと返されたその事実に、ライルはお前馬鹿だろ・と素で呟いた。何で自分が大変なのに、それを他人のためにあげたりするんだ。ニールだって見ず知らずの他人のために自分が貯めた金を使われるより、気心知れた、それも妹のように可愛がっていたノエルが使った方が喜ぶだろうに。
「それで自分の貯蓄もなくなって、…子どもに苦しい生活させてきたわけか?」
「そうですねえ。この子に苦労はかけたくないからそれなりの生活を送らせてきたつもりですけど、やっぱり他の家庭と比べたらちょっと可哀想かもしれませんね」
父親もそばにいませんし。
そう少し寂しそうに笑う彼女に、正気か?と聞きたくなった。何でそんなことを明るく言えるんだ。馬鹿としか思えない。
昔からノエルのことを知っているが、きっと自分の娘にはそれなりに人並みの物を与え、人並みの生活をさせているのだろう。自分は総て後回しにしてでも。ノエルはそういう奴だ。自分じゃなくていつも人の心配をしているような奴。そして貧乏くじを引くタイプ。ニールそっくりだ。
「…金が欲しいなら言え。お前らの生活費くらい援助できる」
ノエルがどういう生活をしようがそれはこいつの勝手だ。自分で覚悟してその道を選んだのなら、こちらが手を貸してやる必要はないし、手を貸すつもりも毛頭ない。けれど、子どもは別だ。大人の都合に振り回されて血を見る子どもなど、世界中どこにでもいる。自分達が、そうであったように。
三歳くらいの子どもは何かと落ち着きがなく親を振り回すものだと思っていたが、マリアはそうではないらしい。今も自分のジュースは飲み終えているのに、大人の話に割り込んでくるどころか、ちゃんとノエルの膝の上で大人しく話が終わるのを待っている。あまりに子どもらしくないマリアを見るとかえって不憫に思えた。だからなのか、こんな子どもに親の都合で苦労はかけさせたくないわけで。ノエルにそれなりの金を与えて金輪際一切会わないのが、ノエルにとっても自分にとっても一番良いだろう。
「ありがとうございます。でも、ライル兄にそこまでしてもらう理由はありません」
きっぱりと否定を示したノエルの言葉に、ライルは眉を顰める。つまらん意地は張らないことだ・と言ってやるが、意地じゃありませんとすぐに返された。
「No pain, no gain. 働かざるもの、食うべからずですよ」
マリアもちゃんと分かってくれてます。
そう笑うノエルに、ライルは理解できないと再び顔を顰める。ニールの遺した金も使わずに寄付したくらいだ。素直に人の援助は受けない女だとは思っていたが、そこまで頑なになる理由はどこにある?
ノエルが自分の腕時計で時刻を確認し、遅くまでごめんなさいとマリアを先に立たせて自分も立ち上がる。
「ライル兄顔色悪いですよ。お仕事、無理してるんじゃないですか?」
身体大事にしてくださいね。
そう言って立ち去ろうとするノエルの手から伝票を取り上げる。医者の身体の心配してんじゃねぇよと言い捨てて、そのまま出口へと向かおうとした。
そのとき、またあのコートを引っ張られる感触がする。反射的に足を止め、振り返っても誰もいなくて、少し下に視線を向ければ先ほどと同じようにライルのコートを掴んで自分の方を見上げているマリアと目が合った。ニコリと笑うマリアは、ごちそうさまでしたと礼儀正しく告げる。そして、またいっしょにおはなししてね・と、舌足らずに“お願い”された。答える言葉が思いつかず、ライルは返事の代わりにその柔らかな茶髪をぎこちなく撫でた。
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