またいっしょにおはなししてね。
舌足らずな口調のその声が、ずっと頭の中で回ってる。
子どもに罪は無い。あの笑顔が奪われてしまうときがくるのなら、きっと自分は本気で世界を壊したくなると思った。…ニール、お前もこんな気持ちだったのか?
朝、夜勤を終えて仕事をあがろうとしていたとき、急患が入ってそのまま帰り損ねて仕事を続けることになった。その対応が終わったのが昼を少し過ぎた頃で、さすがにもうあがってもいいかな・とぼんやり思っていた。体力には自信があるとはいえ、さすがに夜勤明けで一睡もしていない状態で日勤に入るのは無理がある。自分が良くても、睡眠不足は緊急時の判断を誤ることだってあるのだ。そのせいで患者にもしものことがあってはならない。
同僚の医者に帰宅する旨を報告し、預かったカルテを提出したら帰りの支度をしよう・と廊下を歩いているときだった。数週間前に聞いた覚えのある声が、再び足元から耳へと飛び込んできた。
「おしごと、おつかれさまです。おにいさん」
反射的に足元を見れば、数週間前に会った「マリア」がそこにはいた。なんでこんなところに?という思いが一瞬頭を巡ったが、とりあえず動揺を悟られないようにその場にしゃがみこむ。マリアがいるということは、近くにノエルがいるはず。
「どうしたんだこんなところで。ひとりか?」
「ママが“ていきけんしん”にきてるの」
だからマリア、まってるの!と笑顔で、誇らしげに言うマリアに、そっかと頷いて頭を撫でてやる。
ノエルの定期健診といえば、テロに遭ったときに負った左腕の怪我のことだろう。視界の端に外科の診察室が見える。なるほど、一緒に来てあいつが診察を受けている間マリアは大人しくひとりで待ってるってわけか。
くるくるとした大きな目が、こちらを見上げている。目は、ノエルの…じゃない。全体的にノエルに似ているが、その目だけは違う。髪の色だってどちらかといえば俺やニールに近い栗色だ。ノエルと知らない男の面影を持つマリア。俺が知らない奴の面影。
何故か、酷く嫌悪感が胸中に渦巻いた。
「なあ、ママは好きか?」
無意識に呟いていたその問いに、マリアは笑顔で頷く。
「だいすき!」
そう、迷いなく純粋に断言した彼女に対して、本当に素直に良い子だと思った。たとえノエルと誰の子であろうとも。自分達のように、子どもが泣かなくても良い世界になればいい。心からそう思った。
「マリア」
彼女の名前をはじめて呼んだ。なあに?と首を傾げるマリアに、ポケットから探り当てたキャンディ(眠気覚ましのガムがなくなったので同僚に貰っていたのだ)と、指先に触れたカードも一緒に取り出し渡す。小さな掌でその両方を受け取ったマリアはキャンディを見て嬉しそうに笑ったが、カードに目を移すと「これなあに?」と聞いてくる。
寝不足は恐ろしい。人間の思考能力を一気に低下させる。
「名刺。俺の連絡先が書いてる。ママに渡しとけ」
渡せば分かるから・と、もう一度マリアの頭を撫でて立ち上がる。そろそろ行かないと、ノエルが診察を終えて出てきてしまう。「じゃあな」と片手を上げて言えば、「またね!」とマリアは手を振ってくれた。
どうして、こんなことをしたのか自分でも分からない。連絡だって取りたくなかったし、金輪際関わるつもりだってなかったのだ。それなのに、何故、今になって。
分からない。自分が何をしているのか分からない。何をしたいのかが分からない。分からないまま岐路に着き、そのまま死んだように眠った。考えることを止め、眠って起きてまた仕事に行って、の毎日を数ヶ月繰り返した頃だった。
あの時のことも少しずつ忘却に追い込まれていた頃。夜中に近い時分に、薄暗い部屋で着信を知らせるコール音が鳴り響いた。
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