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名前は空を仰いだ。
全てを包み込むように広がる青い空も、地球から見るから広いのであり、より高いところから見渡せば地球の周りのほんの少しの空気の層が生み出す景色でしかない。限りなく広がる宇宙から見ればそれは誤差ほどに小さい。


「それでもこの吉原にとっちゃあ、希望の空なんだよ」


空を仰ぐ名前の隣からそう語りかける声がする。車椅子に乗った女ーー日輪の方を向いて、名前はそれもそうだ、と答えた。


「でもわたしにはこういう平和な国は息苦しいんだよねえ。結局どこまでいっても兵器は兵器なのかな。戦ってた方が生きてるって感じがするもの」
「世界には色々な人がいるもんさ」
「その通りだよねえ。だから今、わたしはあの時の選択を微塵も後悔してないよ」
「じゃあなんで此処に戻ってきたんだい、それも突然」


ーーちょっとした、寄り道さ。
名前が放った言葉の裏には複雑な感情が蠢いているように日輪には感じられた。


名前が突然この街を訪れたのはつい1時間ほど前のことだった。日輪の店を訪れた頃には晴太も寺子屋に行っていたし、月読もいなくて、けれど春雨に行った彼女からは何ら敵意も悪意も感じられなかったので今こうして店先で無駄話に花を咲かせている。名前が今迄何をしていて、そして何故今此処へ戻ってきたのか何も分からなかったけれど、寄り道だと言いながらもきっと何か目的があるのだろうということを感じ取った。ーーそれは自分とこうして話をすることなのかもしれないけれど。


「地球に用事かい?」
「うん、まあね。最近有給つかいきっちゃったからさ、こっそり抜けてきちゃった。だから暫くしたら此処を出ないといけないんだけよねえ」
「自由人なのは相変わらずだねえ」
「そうでもないよ」


ーーでも最近、自由になってきたのかも。名前の最後の言葉は日輪ではなく自分に、或いは他の誰かに向けて放った言葉なのだろう。太陽を見て眩しそうに瞳を細める彼女の赤いワンピースがひらりと靡く。名前が再び口を開いた。


「何処にいたって誰にも縛られずに生きてるつもりだったけど、結局ずっと縛られたままだったんだって最近気づいたんだーー自分に、さ」

「でも今はそれもない。怖れる必要なんてどこにもないって気づいたから」

「ねえ日輪。春雨はあなた達にとっては脅威だろうけどねえ、わたしにとっては救い主みたいなものなんだよねえ。こんなこと言ったら怒る?」


ーー怒りゃしないよ。日輪はそう答えた。名前が吉原に来るまでの経緯を何もしらない日輪には名前の言うことが完全に理解できたわけではなかった。けれど過去の名前の姿を思い出せば、感じるものはある。


「アンタは来たときから怯えもせず嫌がりもせずに学び、客をとってきた。みんなそれが不思議で仕方なかったんだ。誰だって此処に売られてきた時にはそれをどこかで受け入れられないモンだからさ」
「それはわたしにとって男に抱かれることが大したことじゃあないからだよ。自分の体がそこまで大事じゃあない」
「…私はそれを、アンタが自分の体がーー否、自分そのものが嫌いだからなんじゃないかって思ってたんだ」


名前は少しだけ黙った。それは日輪の推測へのこれ以上ない答えだった。


「春雨に入ってそれは変わったのかい」
「…守るべきもの、なんて要らないって思っていたの」


名前の赤いワンピースが風に揺れている。高いヒールは花魁だった頃には決して履くことのなかったものだが、そんな歩きにくそうな靴でもしっかりと立って前を向く名前は美しかった。聞いたことと何ら関係ないことを話す名前に日輪は話を止めることはしなかった。


「春雨で見つけたのはねえ、『守らなくてもいい存在』だった。ここにいたら、地球にいたら多分手に入らなかった」

「絶対に死なないって信じられるから、彼の存在が真実かなんて、疑わなくてもいい。だって瞳を開けばそこにいるから」


ーーこのワンピースも本当は証明しなくていい。
日輪はそのワンピースが、誰かからの贈り物なのだと知った。それは名前によく似合っていて、細いシルエットが綺麗だった。和服と違って体の線がよく見えるのが、見慣れた名前の姿とは全然違うけれど、名前には寧ろ此方のほうが似合うだろうと思わされた。


「…私は何かを守るときに人は一番強くなれるんだって思ってたよ」
「そういう強さもあるんだろうねえ」
「でもアンタを見てると、答えは一つじゃあないんだって気がしてくるよ」
「…そうだといいねえ」


世界にはただ一つの答えがあると思われがちだけれど、決してそんなことはない。異なる前提に立つもの同士は決して分かり合えないし、無理に分かり合う必要もない。日輪や地球の人々が思う強さがあるように、名前には名前の思う強さがあった。それを日輪は分かって、だからそれを否定することはなかったし、名前も日輪のいうことを否定しなかった。互いに絶対に理解できない一線がそこにはあって、けれどそれは2人の友情を傷つけないことを、2人はよく知っていた。


「月詠とかきたら大変だろうからそろそろ行こうかなあ」
「大変って別に仕事サボってきたんだろう」
「でも春雨の人間が吉原にいていいことはないよねえ」


ふふ、と笑って、来たときと同じように赤いワンピースをはためかせて。名前は背中を向けた。


「また、くるよ」
「いつでもおいで」


空は狭いし星は息苦しいけれど、昔の友に会うのはいつだって悪いことじゃない。



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