This voice never sings love.



——ユリア、ユリア?


優しい声がわたしを暗闇から引き上げた。真っ白な場所、何もない——たぶん、夢の中。少し前はいつもここでわたしを責め立てる『彼』の声を聞いていたけれど、それはもうどこか遠い記憶の彼方に——最近は、彼の夢を見ることも少なくなっていたので、この場所を訪れることがどこか懐かしい気さえした。そして響く声は彼の声とは違う……わたしをいつも支えてくれた大切な彼女の、声。


「エアリス…?」
「ひさしぶり、だね?」


どこにいるんだろう、そう思って辺りを見渡そうとして、固まった。
ちょうど真後ろから聞こえる声と、背中に感じる暖かな風。不思議と振り返る気にはなれなくて、そのままどこか遠くを見つめる。この場所にはいつも、ただ白いだけの世界が広がっている。距離の感覚も、時間の感覚も消えて。どこまで続いているのだろう。


——まあ、エアリスから離れたくはないから、確かめることもないのだけれど。


「わたし、どうしてここに…?」
「ここは『この星』の想いが集まる場所。ユリア、無事に戻ってきたから、此処にいる」
「……ああ、そうか、」


眠る直前わたしは宇宙にいた。ロケットに乗って、星を離れて。景色を見ることさえできなかったわたしにはその実感は結局ないけれど。メテオはどうなったのだろう、みんなは無事?


「大丈夫、だよ」
「エアリス?」
「みんな元気、だよ?……ユリア、も」


エアリスの声はどこかこの世の全てから解放されたような、暖かな響きをしていた。神さまという存在がこの世に存在していたらきっと、こんな声で子羊たちへ語りかけるのだろうと思うくらいに。わたしの心の声を、不安を全て安らぎに変えてゆくかのように、エアリスの言葉はどこまでも優しい。


「みんな、心配してるよ。ユリアのこと」
「…そう、だよね…どのくらい眠っているのか、わからないけど」
「起きたら夜、かもね?」
「それは……大変だなぁ」


二人でいれば響く星の声もいつもより暖かくて。メテオが近づくようになってから、ウェポンやライフストリームは己の危機を感じてどこか強い敵意を発しているような気がしていた。この音はずっと聴いている音と、本当に同じ音なのだろうか。そもそも、此処は何処なのだろう。様々な疑問が浮かんでは消える。けれどこうしてエアリスと話せているのなら、それはどれも些細なことのように思えた。


——ああ、そうだ。思い出す。聞きたいことが、あったのだと。


「ねえ、エアリス」
「なあに?」
「…古代種の都で、何をしてたの?」


——それはね。
答えを聞こうとしたその瞬間、白い世界は渦を巻いて消えてゆく——背中に感じた暖かな光が遠ざかって思わず何かを叫ぼうと——エアリスと、彼女の名前を呼ぼうとして。


「ユリア!!」
「っ、ヴィン、セント」


次の瞬間、視界に写ったのは彼の赤だった。叫ぶように名前を呼ばれ、わたしを覗き込む彼の必死な表情が視界いっぱいに映し出される。小さく名前を呼ぶと、大きく見開かれた瞳が微かに揺れた。


無意識にその頬に、手を伸ばしていた。——冷たい彼の体温に触れて初めて、わたしが彼に触れたことに気づいて、そして、それに小さく震えたまぶたに初めて、現実に戻ってきたのだと、夢から醒めたのだとわかった。


「……おはよう」
「そんな時間では、ないがな」


ヴィンセントの瞳が少しだけ穏やかに細められて、ゆるく笑った。呆れたような表情だった。


「……もう、目覚めないのではないかと」
「……そんな、」


ヴィンセントは机の前に置かれていた小さな椅子をベッドの脇へと移動して、そこに腰掛けたまま身を乗り出すようにしてわたしに近づいていた。わたしの指が頬から顎にかけてをつ、となぞって、そのままゆっくりシーツに着地すると、ようやく小さなため息を吐いて上体を起こし椅子の方へ戻ってゆく。


わたしが彼に触れてようやく実感できたように、彼もまたわたしの指にようやく、わたしが目を覚ました実感を持てたのかもしれなかった。


「……生きてる、よ。わたしも、あなたも」


よかった。そう呟くと、ああ、と小さな返事。
徐々に落ち着きを取り戻した彼はそれで、居心地悪そうに瞳を逸らす。何を考えているのかなんて推測するまでもない。あの祠でのことがあってから一度も、彼とまともに話すことができていなかった。ロケット村では距離を置いていたはずなのに結局、こうして彼は隣にいる。


彼はいつもどこか、心のまま行動してしまってから冷静になって、そうして悔いるような表情で逃げていってしまうところがあると思う。落ち着き払っているように見える彼は決して無感情なのではなく、ただそれが普段はあまり表に出ないだけで、本来的には寧ろ直情的なのかもしれなかった。


しばらく気まずげに視線を彷徨わせていた彼はようやくわたしのほうを再び見ると、重々しく口を開いた。


「……何も、聞かないんだな」
「……それは、わたしのこと?それとも、」


あなたの、こと?
わたしの問いに、ヴィンセントは少し俯いてまた瞳を逸らしてしまう。天井から注ぐ光が彼の長いまつ毛に遮られて、どこか憂うような影を描き出した。『彼女』とのことやわたしとのことに向き合うのが苦手な彼は、今もきっと、逃げ出したい思いで此処にいるのだろう。


けれど彼はあのとき崩れ落ちたわたしを真っ先に支えて、今もこうして此処にいて、離れる様子も、ない。


「……隣に、いてくれて、ありがとう」
「っ、ユリア、」
「無理に忘れようとしなくて、いい……わたしにも忘れられないものはある……」


隣に立つというそれだけのことが、わたしたちには酷く難しい。離れてしまったほうが楽なのかもしれない。そうすれば己の罪を意識することも、苦い過去を思い出すこともしないで済むのかもしれない。


実際のところ、離れることさえできないほどに溺れてしまうより前にそう気付いていたなら間違いなくそうしていただろう。しかし、もうそれがいつだったのかさえ分からないほど、それはどこまでも、遠いことのように思えてならなかった。


「離れることを選ぶには…近づきすぎてしまった」
「ヴィンセント、」


同じことを思っていたのではないかと、そう期待してしまうような言葉に思わず瞳を丸くした。どこか諦めたような表情で口元を吊り上げる彼が綺麗で、目が離せなくて。


「恋人の面倒くらい見ろと言われた」
「…誰に?」
「…ティファに」
「なんて返したの?」
「…そうだな、と」


それって、そう言いかけたわたしの口に添えられた人差し指。その冷たい感触が生々しくて思わずゴクリと生唾を呑む。凪いだ赤い瞳が少し揺れて、それからわたしの顔に焦点を合わせた。


「私がお前にできることは少ないが….お前がもし、構わないのなら、」


再び外れた視線、戸惑うように開いては閉じる、唇。小さく震える、人差し指。——彼は確かなことを言葉にするのをひどく、恐れている。きっと、確信が持てないから。彼のその躊躇いが理解できてしまうわたしは、確かな言葉を求める感情以上に、彼を苦しめたくない気持ちが勝って。


もう、仕方ないなぁ。そう、心のなかで呟いた。
シーツの中から右手を出して、彼のその指を包み込むようにゆるく握った。


「ヴィンセント、好き。わたしと付き合って」


用件だけをまとめた、ごく短い一言。
人差し指を握る右手はそのままに起き上がって、左手で彼の首を引き寄せた。抵抗なしに体を傾ける彼の髪が首筋にかかって、背中に冷たい金属が触れる——彼のアームガードがわたしを決して傷つけないよう最大限の慎重さで私を抱いていた。肩にかかる重みは決してわたしに表情を見せぬように背中の向こうで俯いている。


狭い個室にはただ、静寂が広がった。
首に回した腕も、人差し指を握る手も、どちらも離さずに黙って瞳を閉じる。何も言わない彼もけれど、背中に回した腕を離すことはない。


ある種の諦観に近かった。彼をどうしても愛してしまった、罪も罰も、全てがわたしを許さないと分かっていても。彼がわたしを一番にしてくれることがないことも何もかも、分かっていても。先に開き直ったのはわたしの方で、彼はまだ迷っていて——もしかしたら一生このままなのかもしれない。それでも近づかずにはいられない。この愛はまるで呪いだった。


「……ああ」


この期に及んでもまだ、愛を囁かない声。彼と近づく時はいつも、喜びと切なさが入り混じったような不思議な感情を覚える。どこか泣きたくなるようなその感情は苦しいけれど、ずっと浸っていたくなるような中毒性をもってわたしを縛り付ける。彼の腕の中は酸素のない深い海の底のように息苦しいのに、一度知ってしまうとそれを求めずには居られない。彼の重力に引き寄せられて、離れることもできなくて。今はその短い一言だけで十分だ、なんて、本当に自分がそう思っているのかもよくわからないけれど。


肩の重みが消えたかと思えばすぐに視界が彼の美しい顔に埋め尽くされて、瞳を閉じた。
——今だけはあなたの瞳に、別の誰かの影を見たくない。