The boundary


狭い珊瑚の谷で慎重に舵を切り、ギリギリ飛空挺の停められる少し開けた場所に着地した。少し離れた場所には古代種の都が見える。それにどこか懐かしささえ感じてしまう。


前にこの場所を訪れた時はもっと焦燥していて、何かを考える余裕なんか少しもなかった。眠りに就くたび、過去が責め立てるようにギリギリと体を縛り、それでも希望に縋って這い蹲るように生きていた。あの頃よりずいぶんと状況は落ち着いて——星のことを言うならばむしろ悪化しているのだけれど——少なくとも心はずっと穏やかで、何か大きな期待さえ感じる。


——それでも。


「えあ、りす……」


この場所は、彼女の最期があまりに色濃く残っているから。
気づけば皆無言で立ち竦んでいた。忘らるる都。エアリスが最期に何をしようとしたのか、世界を救うためにただそれを知りたくて、けれど、そのためにはエアリスの最期をまた、思い出さなくてはいけなくて。こう緊急事態だから訪れたけれど本当はまだ、彼女の死を本当の意味で受け入れ切れたわけではない。その記憶を思い出にできたわけではなかった。


——エルミナさん、ずぅっと泣いてはりました……マリンちゃんも……


つい先ほど聞いたケット・シーの言葉が耳の奥で響く。
思い出にしてしまうにはまだまだ、たくさんの時間が必要なのだと分かっている。わたしは200年以上もかけてハルクを——恋人を忘れることさえできなかったのだから。こうして時を動かせばこのそう長くない旅の方があの谷底の200年よりもずっと前に進んでいるから、きっといつかは彼のことも、彼女のことも記憶の奥の、キラキラと光る真っ白な箱の奥に仕舞って時折思い出しては愛おしく思えるような、そんなものになるのかもしれないけれど。


今はまだ、こうして泣きたいくらいに胸を衝く痛みを堪えてただ、前へ進むしかない。
ホーホーホウ、と、ふよふよとわたしたちのまわりを漂うブーゲンハーゲンさんのいつもの口癖にようやく現実へ引き戻されたわたしたちは、クラウドの行くぞ、という一言に流されるようにして体を前へと動かした。


動かした、けれど。
歩みを進めるほどに、近づいてゆく。彼女が最期の時を過ごした、あの場所へと。それがどうしようもなく、わたしの足取りを重くさせた。気づけば他の仲間たちの背中が少しずつ、遠ざかってゆく。彼らの速度に追いつくことも、できなくて。


「…無理して付いてゆく必要はないと思うが」
「ヴィンセント?」
「辛いのなら任せるのも手だ。お前が行かないのなら私も残るが」


のろのろと歩くわたしの隣に立って、クラウドやティファ、バレットの背中を見つめながらヴィンセントがそう囁いた。ごく小さな声は少し離れたところにいる彼らにはきっと、届かない。


「……クラウドや、エアリスとずっと一緒にいた仲間たちが頑張ってるのにわたしだけ逃げるのも、」
「苦しみは人と比べるものではない」


思わず足を止めた。
振り返ったヴィンセントは小さく首を傾げて「違うか?」と問いかける。どう返せばいいのかわからずに俯いてしまう。もうすぐ向こうには街が見えているのに、クラウド達の姿は遠ざかるばかりで。


「ユリアー!早くしないと置いてくよー!!」
「うん、すぐ行く!」


遠くで叫ぶユフィの声に叫び返す。小さなため息を吐いて心を落ち着け視線をずらせば、ヴィンセントは何も言わずにそこに立っている。


「向き合うにはまだ、早いのかもしれない、けど…逃げたくは、ないかな」
「…そうか」


ヴィンセントはその言葉に苦しげに顔を顰めている——彼が逃げようとする全てを思い出させて、しまったのかも。彼のアームガードに包まれた左手を両腕でそっと包んだ。揺れる瞳の向こうにいるのは多分わたしではないのだろう。いや、どうかな、わたしも、わたしもいるかもしれない。そうだったらいいと思うけれど。


「……まだ、逃げなきゃいけないほど追い詰められているわけじゃあないから。わたしはね」
「……そう、か」
「……ありがとう。そろそろ行こう?はぐれちゃう」


きっとこれ以上は踏み込めない。ヴィンセントはずいぶんとその心の内を見せてくれるようになったと思う——決して明確な言葉にしないとしても。けれど、『彼女』を思い出している時の彼はいつも以上に分厚い壁の向こうで、決して手を伸ばして欲しくないというように顔を背けてしまうから。少し早歩きで歩き出すと、ヴィンセントはわたしの斜め後ろを静かに付き従った。


「ユリア、おそいよ!」
「うん、ごめんね」


ユフィが頬を膨らませて拗ねたような声を漏らしながらも深く追求しないのはきっと、わたしが足を止めた理由を知っているから。誰もが心に傷を抱えていて、それはまだそう簡単には癒えそうもない。ユフィのその表情でさえ、心からのものではないと分かっている。彼女の小さな虚勢に感謝しながら、もう皆よりペースを落とすことはなく、無理やりに足を動かし続けた。





「ここは……おお……たしかに……」
「何かわかりそうなのか?」
「……ちと時間をくれんか?」


前に訪れたときにはそれを感じるほどのゆとりさえなかったけれど、改めてこの都を訪れると不思議な力に満ちていることがわかる。あのメテオが封印されていた神殿と同じように、古代種の意識がライフストリームに拡散することなくここに留まって、何かを伝えようとわたしたちを包んでいる。——なにを、言おうとしているのだろう。


「ほー、りー…?」
「何か聞こえるのか?」
「わ、からないけど…ホーリー、って、魔法……?」


——ホーリー。スピラでは最強の白魔法と呼ばれていた、強力な守護魔法。この世界では不思議と唱えられなかったそれは、何か特別な意味を持っているのだろうか。ブーゲンハーゲンさんは深く頷いて中央へと飛んでゆく。


「……ホーリーを、求めている……たぶん。この場所に留まっている古代種の意識はみな、ホーリーを求めている……」
「あんたの言う通りじゃよ」


中央にたどり着くとブーげハーゲンさんが頷いた。


「究極の白魔法ホーリー……メテオと対をなす魔法じゃ。メテオから星を救い出す最後の望み……ホーリーを求める心が星にとどけば、それは現れる」


ホーホーホウ、と独特の口癖を漏らしながら、中央の祭壇を浮遊して語るブーゲンハーゲンさんは古代種ではないはずだけれど、わたし以上にこの場所に満ちる不思議な力から何かを感じ取っているように見えた。


「メテオもウェポンもすべて消えてなくなるじゃろう……もしかしたら、わしらもな」
「俺たちも!?」
「それは星が決めることじゃ。星にとって何が良いのか。星にとって何が悪いのか。悪しきものは消えて無くなる。それだけのことじゃ」


わしら人間はどっちかのう。静まり返った広いドームにブーゲンハーゲンさんの言葉が響く。古代種の意識は助けを求めるような響きをしている——星を守りたい、強い感情が頭に強く流れこんで。どうすればホーリーが発動できるのか、と考えているわたし。皆はもっと違うことを考えているのだろう——家族のことや、友達のこと、恋人のことかもしれない。


(——あ、わたし、違うんだ……)


突然、そんなことに気づかされてしまった。
わたしには多分、今のクラウドやティファたちの思いは、理解できない。


そしてきっとそれは、ヴィンセントも。ふらふらと彷徨わせた瞳がヴィンセントと交わって、そう直感する。わたしたちは決して「あちら」側には、行けないのだと。


「ホーリーを求めるには、どうすればいいんですか?」


わたしの言葉に驚いたように、戸惑ったようにユリア、と小さく名を呼ぶティファの声に込められた感情はどんなものだろう。その声に何も返せないうちに、ブーゲンハーゲンさんがわたしの質問に淡々と答えた。


「星に語りかけるのじゃ。白マテリアを身につけ…… これが星と人をつなぐのじゃな。そして星に語りかけるのじゃ……ねがいが星にとどくと白マテリアがあわ〜いグリーンに輝くらしいのじゃ」
「白……マテリア」


黒マテリアの、対になるもの。何かを知っているらしいクラウドがその表情に影を強めた。


「……終わりだ。白マテリアはエアリスが持っていた……でも……エアリスが死んでしまった時に祭壇から落ちて……だから……終わりだ」


——ホーリーを発動するべきなのかそうでないのかも分からない、そんな中でその発動手段も失ってしまったのか。皆の悲痛な表情を見て、けれどどこか不思議な気持ちになる——本当にその手段がないのにここに残った古代種たちの意識は確かにわたしたちに助けを求めている。


「……本当に、ないのかな?」
「ユリア、どういうことだ」
「……ここに留まる古代種の意識は助けを求めてる、気がする……ホーリーを、ホーリーを呼んで欲しいんだと思う。それなのに……発動手段がないなんて、考えられない」


わたしのその言葉にブーゲンハーゲンさんは辺りを飛び回ってホーホーホウ!と興味深げな声を上げる。やがて何かを見つけたようにこれを見るのじゃ、とわたしたちを中央の祭壇へと呼んだ。


「古代文字じゃ」


何かが書き込まれていた。現代の文字でさえこの5年の間読めるようになるまでに一苦労だったわたしには到底、読めそうもない。スピラの文字とも異なるそれは何を伝えようとしているのかさっぱり分からなかった。ブーゲンハーゲンさんも読めるわけがない、と言いながらその下を指で指し示した。


「カギを……オルゴールに……?」


クラウドが読み上げた言葉——鍵、という聴き慣れない、言葉。けれどクラウドは何かに気づいたような表情を浮かべた。ケット・シーもまた、もしかして、と呟く。


「クラウドさん、あれちゃいます?海底魔晄炉のヒュージマテリアのときに見つけた……」
「海底魔晄炉?」
「ボクたち、海底探査中に年代不明の鍵を見つけたんです。あんときはなんやろ?思ってとりあえず拾ったんやけど……」
「それが……オルゴール……に……?」


おまえたちはここにいるんじゃ、と告げたブーゲンハーゲンがクラウドの取り出した鍵を持って離れてゆく。やがて小さな窪みのような場所にその鍵を差し込むと、何もしていないのにその鍵が一人でにそこで回り始め、上空から透明な水——それはやがて滝のような流れに変わった。


「さあ、中にはいるのじゃ。そこにあるのは希望か……それとも……」


希望か、それとも、絶望か。
わたしとヴィンセントと、そしてほかの皆。彼らを失ってしまうかもしれないなんて実感も湧かずに、けれど自分が消えるとも思えずに。それが仮に皆にとって希望であったとして、わたしにとってもそうなのか。わたしにとって希望であったとして、皆にとってもそうなのか。目の前にある境界線を越えられずにそっと、離れるように、祭壇の方へと歩き出した。