A night with him



その日、あの家の数軒隣で一人では歩く事ができずに家に閉じ込められていた老人を車椅子にのせて駅へと運んだ。ありがとうと笑ってしわしわの手で硬くわたしの両手を握る老人に目頭が熱くなった。——こういう人ばかりだったなら世界はもっともっと、平和だったのかもしれないと、思うけれど。


——スラムなんかに行くなら、死んだ方がましだ。その言葉は心に思いのほか深く刺さっていた。この世界にはそう愛着がないと、思っていたけれど。それでも5年、あのスラムで過ごした時間はそう短くはなかった。


コンコン、と控えめなノック音が響いて顔を上げた。早足で扉の方まで歩いて鍵を開く。その向こう側には背の高い人の影——待っていたヴィンセントの姿があった。


「ヴィンセント!」
「……ユリア」
「お疲れ様、おかえり。レノから、これがヴィンセントの分だって」
「ああ、すまない」


五番街は社宅エリアだが、隣の六番街にはホテルがいくつか。それももう従業員は皆避難してしまった後だけれど、好きな部屋を使っていいと五番街まで食料を持ってきたレノが言っていたのを思い出す。最終電車が駅を出るよりも少し先に、ユフィと二人でここへ歩いてきた。しばらくすればヴィンセントも来るだろうと、そう予想をつけたわたしたちはカウンターに張り紙だけを残して互いに別の部屋へ。


——どーせユリアはヴィンセントとダブルベッドでしょ?アタシ絶対近くには泊まりたくない!


からかっているのか本当に嫌がっていたのかわかりづらい言葉を残して、ユフィは1つ上のフロアへ消えていった。ヴィンセントを中へと入れて再び扉を閉める。


「駅の方は落ち着いた?」
「ああ……最終便に全員乗せられたのは今日が初めてだったらしいが」
「やっぱり最初のうちの方が混んでたんだろうね」


今日のことを話しながら二人でレノからもらった食事を取る。神羅ビルに備蓄されているという携帯食料はミッドガル市民が1ヶ月生活するのに十分な量があるのだとレノが自慢げに話していた。スラムの住民を含めたって、メテオまでは十分に持つだろう、と。固形の栄養食品はすこし味気ないけれど、何もなければ街の外にモンスターを狩りにいかなければならなかったのかもしれないと思えば十分にありがたかった。


食事はすぐに終わってしまって、両手を合わせてゴミを捨てて。
柔らかなベッドへと腰を下ろすと嫌でも今日のことが思い出されてしまう。


簡単な仕事だと思っていたわけではない。けれどこれまでの旅を、大切な人の思いを、スラムに生きる人々の命を、簡単にゴミのように扱われる時の心の傷はそう浅くはなかった。


「……何かあったのか」
「え?」


食事を終えて椅子に座って紅茶を飲んでいたはずのヴィンセントの声は、思ったより近くから聞こえた。顔をあげると、いつの間にか目の前に立っていた彼がどこか心配げに瞳を瞬かせている。彼がわたしの隣に腰を下ろすと、より近づいた赤い瞳が暖かくわたしを覗き込んだ。ひやりと冷たい彼の指先がわたしの頬をなぞると、何も言われずとも自然に、瞳を閉じてしまう。


彼の唇は少しかたくて、冷たくて、けれど、優しい。瞳を開けば先ほどよりも縮まった距離と、背中に回る腕の感触に甘えるように彼の胸へとすり寄った。


「……ここに、残るのも……楽じゃあないなって」
「ああ……そうだな」


ヴィンセントはなにも言わないけれど。ユフィからも何も、聞かなかったけれど。彼らも、そしてタークスの皆も。皆、同じ思いを抱えているのだろうか。同じように罵られたり、馬鹿にされたりしながら、それでもこの街のために働いているのだろうか。給料がでるわけでも、誰かから感謝されるわけでも、ないのに。


「……明日も、がんばらないとね」
「そうだな……」


もう時計は頂上を跨ぎかけている。明日の始発は6時で、今日は半日しか働いていないのに疲れ切ってしまった。いくらわたしたちが死なないからってこれ以上のんびりと起きているわけにもいかない、だろう。


「あの、ヴィンセント、ありがとう。少し元気になった」
「……そうか」
「うん。……寝よう?」
「ああ……」


彼は言葉数は少ないし、曖昧だったり、難解だったりするけれど、そんな言葉の向こうにいつも真っ直ぐな優しさが隠れているのだと知っているから、こうして触れ合って話しているだけで心が少しずつ落ち着いてゆく。二人でそのままシーツの下に入り込むと、彼は体勢を変えてわたしをきつく、抱き直す。彼の体温はわたしのそれよりもずっと低いはずなのに、この腕の中はどうしてかこんなにも、暖かい。


「……寝苦しくない?」
「構わない」
「……そ、っか」


ヴィンセントはどこか満足げに頷いていた。
その表情を見ていると、今夜は少しだけ、優しい夢が見られるような気がした。