あなたの仮面、あなたの素顔



「あ、起きました?傷とか痛みます?」
「……あなたは」
「あー、おはようございます。覚えてます?」
「……それは、もちろん」


戸惑ったような男の声に思わず、笑ってしまった。
いくら疲れていたとはいえソファでぐっすりと休めるはずもなく、太陽が昇ってすぐに目を覚ました私は、熱の上がっていたこの男の頭にタオルをのせたり、昨日触れなかった傷の手当をしたりして過ごしていた。しばらくして彼は目を覚まして、わたしのことはどうやら認識できているみたいだけれど、何が起きているかはよく理解できていない、という風だった。カーテンごしに昼の陽の光が差し込む部屋で、その光を映さない彼の瞳は閉ざされたまま、顔ばかりが周囲を伺うように動いている。


「一応、報告はしましたけどね。あなたのボスは出頭したけど。裁判通さずにどこかへ連れて行かれたからなんかやばいとこかも」
「……それでは、私も出頭でしょうね」
「いや、それがそうでもないみたい」


——正直に言えば、納得できたことではなかった。
政府は夜のうちに超能力については今後も公表しない方針を決めてしまい、その結果超能力による犯罪はどれも罪に問えないことになった。窃盗などの軽微な犯罪者は逮捕されたけれど、「5超」含む幹部はほぼ無罪放免で、公安の監視さえつけないという。超能力を公にしないと決めた以上はその存在を知るものも増やさないということだから、そんな少人数で監視を続けるのは現実的でない、というのが実情だろうと思うけど。


そんな内部事情は避けながら一通り話し終えると、なるほど、と一つ頷いて、こちらへ顔を向けた。ゆるく微笑みを浮かべている。今までにわたしに直接向けられたどれとも違う、暖かささえ感じる笑顔。すこしの戸惑いを隠して、見えないとわかっていても微笑みを返した。


「ではわたしは命拾いしてしまったわけですか」
「…まあ、死んではいない、です?お望みならテレポートで好きなところに行ってくださいな。一応忠告しておくとそんなに浅い怪我じゃないから、治るまではうちにいた方がいいと思うけど」
「…それであなたは構わないのですか?」
「ま、乗り掛かった船ですし?」


この男、こんな人間だったっけ?
3度彼と話したし、ヨシフさんによるプロファイルにも目を通した。この男はもっと、不遜で不敵、無能力者や自分より劣る能力者は人間とも思わないような、冷酷無比な男だと、思っていたけど。休日に偶然カフェで邂逅したときのことを思い出す。あの時の冷たい空気は今はなく、ただ戸惑ったような感情ばかりが伝わってくる。


「……ありがとうございます。大変助かりますよ」


無能力者に、たとえ怪我の治療をしたとはいえ、感謝の言葉をかけるような人間だとは思ってもみなかった。気にしないで、そう何も思っていない風を装って返し、背中を向ける。食事を持ってくるから少し待っていて。そう告げればまた、ありがとうございますと返された。






「クロワッサンと牛乳、食べられます?」
「…ええ、そうですね。いただきます」


食事を持って部屋へ戻ると、部屋を出た時と全く同じ体勢——壁に寄りかかるようにして島崎は座っている。サイドテーブルに食事を置くと、右腕を取ってテーブルに乗せた。


「これだけど、わかりますか?」
「はい、ありがとうございます」


——ああ、あと、そのとってつけたような敬語、別にいいですよ。ああ、それはどうも。
つい昨日までテロリストだったはずの男は、不気味なくらいに穏やかな表情でクロワッサンを掴むと小さく千切って口に含んだ。左手は少し彷徨ってグラスに触れ、そのまま手にとって牛乳を流し込む。この家にはバリアフリーなんてないけれど、彼にはいろいろ特殊な能力もあるようだし、まあ少なくとも、食事をひとりでくらいならなんの問題もない、みたい。そこでやっと目を離して、ダイニングから自分の食事を部屋へと運びこむ。少し冷めたスープとパスタを口へ運びながら、無言で食事を続ける島崎をまたちらりと眺めた。


「…なにか?」
「…いや、綺麗に食べるなと思って」


視力の代わりに先読みの力を持つという目の前の男がこの世界をどのように認識しているかはわたしにはわからない。感知能力者らしいし、視線を感じるくらいのことはお手の物、らしいけど。


「…ごちそうさまでした。ありがとうございます」
「ああ、うん。ごちそうさま。皿持ってくね」


もともと大した量があるわけでもない食事はあっという間に終わってしまい、皿をシンクへ乱雑に放り込むと、軽く水をかけた。洗うのはまあ、後でいいでしょう。島崎が寝てからとか。そう判断して再び部屋に戻ると、やはり変わらぬ姿で所在なさげにしている島崎の姿がある。まだ日も高くて、窓からは昼の光が燦々と差し込んでいる。眩しいくらいに、明るい部屋。


「…あー、大丈夫ですか?熱とかない?」
「そうですね、多少熱っぽいですが薬を飲むまでではないと思います」
「まあ、とりあえず食べるものは食べたし、寝ちゃった方がいいと思う。傷を治すのに体力使うだろうし」
「お気遣いありがとうございます。では少し失礼しますね」


ごく普通のシングルベッドはわたしが一人で寝るには十分な広さがあるけれど、この高身長の男には少し窮屈そうに見える。けれど彼は、それに何を言うでもなくまた私に顔だけ向けて囁くように「ありがとうございます」と言うと、それきり何も話さなくなった。眠る前から閉じられている瞳は彼が今起きているのか、眠っているのかを隠してしまう。ぼんやりとスマホを眺め、動かない男を眺めて、またスマホを眺めた。やがてゆっくりと男に近づいてみるが、反応はない。眠っているのかそう見せているだけなのか。ゆっくりと額に手を当てると少しだけ身動ぎをしたけれど、すぐに顔が引きつった。上半身には傷が多く、動いたせいで痛んだのかもしれない。けれど言葉を発することはなくて、呼吸は穏やか。どうやらちゃんと、眠れたみたい。額にそっと手を当てると思った以上の高熱に思わず、手を離してしまう。こんな状態で薬はいらないとか、そんな気遣いをするような男には見えなかったけど。次々と覆される彼の印象にひどく戸惑うわたしがいた。


「…服は買った方がいいよね」


面倒だなあ、とぼやいてみても、部屋にはほぼ意識を失うように眠っている男と、わたしのたった2人しかいないのだから、返事なんかあるわけがない。とりあえず薬と服、そう思い直してスマホと財布だけを床に乱雑に置かれたミニバッグに入れてサンダルを履く。こういうときにさっさと買い物をして戻ってこれるのは駅近マンションのいいところだとつくづく思う。起こさないようにそっと扉を開けて、部屋を出て行った。——島崎だったらこういうとき、扉を開けなくてもテレポートで移動できるんだろうなあ。

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