君を愛でる

浴室にもわもわと立ち込める、熱と蒸気。
この霞んだ視界の中であっても、私は目の前にいる人物の顔をまっすぐに見ることはできなかった。


「…ユリ。顔を上げてごらん」

「………無理、です」


そう答えると、彼の唇から微かに吐息が零れたのが聞こえた。いくら目を逸らしているとはいえ、同じバスタブの中に私たちはいる。

視界の端にぼんやりと映る彼の唇は、想像通り、緩やかな弧を描いていた。


「これじゃ、せっかく一緒に入った意味がないんじゃないかな」

「…なくていいです。あ、あんまりこっち、見ないでくださいっ」


入浴剤で濁った湯舟の中とはいえ、羞恥がこみ上げるのを止められない。体育座りをしてなるべく縮こまるようにしている私の姿は、槙島さんの瞳にどんな風に映っているんだろう。



「困ったな。…それじゃあ、あっちを向いて」

「え?…はい、それなら」


その提案に、私はくるりと背中を向けた。なるべくお湯を波立たせないよう、そうっと。槙島さんの存在は視界から消えて、白いバスタブの縁と、コンクリートの味気ない壁が目に入る。

これならさっきよりもずうっと気が楽だ。槙島さんの引き締まった身体を前に、視線を泳がせることもないから。



ほっと安心したのも束の間、ぱしゃり、と水音が聞こえたかと思うと、するりと白い両腕が伸びてきて、私の身体を捕らえたではないか。



「っ!?」

「こら、暴れない。…そう、いい子だ」



慌ててその腕の中から抜け出そうとしたのだが、そんな行動は読めていたのだろう。がっしりと強い力で抑えられ、私は成す術もなかった。

さきほどよりもずっと近い位置に、槙島さんの顔がある。耳の真横から、彼の呼吸が聞こえる。ごくりと息を吞むと、彼はさもおかしそうに笑った。



「まるで捕らえられた小動物だね」

「もう、遊ばないでください…!」


彼の一挙一動が私を狂わせてしまう。もちろんそれを知った上で、槙島さんは私の反応を見て楽しんでいるんだ。


「遊んでなんかいないさ」

「…っ、ん」


肩口に槙島さんの唇が寄せられ、その場所にぬるりと舌が這うのを感じた。身体を強張らせて耐えていると、ほどなくして軽いリップ音と共に彼の顔が離れていくのを感じた。



「僕はね、君を愛でているんだよ。ユリ」



私がたまらなく惑わされるその声色が、浴室の壁に反響した。


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