マーカーに口づけを


「…じー」
「…なんだよ。さっきから人の顔じろじろ見て」
「なにって、クロウの顔を見てるんだよ」

あっけらかんとユリはそう答えた。
そんな事は分かっている、とクロウは心の中で呟く。
居間のソファで寛いでぼうっとしていたところに、ユリが現れてそのまま隣に腰掛けてきた。なんだよ、と問う前にユリは視線をこちらに向け、食い入るようにクロウの顔を覗き込んできたのだった。


ー近い、と思った。
ただでさえ近いソファの上、ユリはぐいぐいと顔を近づけてくる。そんな彼女を前にして、自身の顔が赤く染まってしまわないか心配だった。

「な、なんでそんな見てんだよ」
「マーカーがね、気になって」
「はぁ?マーカー?」
「うん」

ユリはそう言うと、人差し指をクロウの顔に乗せて黄色いマーカーの部分をそっとなぞった。その感覚に小さく肩が跳ねた事は気づかれてしまっただろうか。

「…痛い?」
「痛かねーよ。そりゃ、刻印された時はすげえ痛みだったけどな」
「…そう…」

両手でクロウの頬をそっと包み込むと、ユリは眉根を下げた。

「なんか、やだなって。このマーカー分、クロウが痛い思いしたんだよなって考えたら」
「まぁ、今更だろ。刻まれちまったモンはしょーがねぇさ」
「…うん、そうなんだけどね」

分かってるけど、と呟きながら、しょげた様子でうなだれるユリ。
その姿が愛らしくて、クロウは微かに心に悪戯心が芽生えたのを感じた。

「んじゃ、ユリに癒してもらうかな」
「え?」

笑みを浮かべて、自身の頬をやんわりと包んでいるユリの手の上から自分の片手を重ねる。そしてもう片方の手を彼女の腰に伸ばし、逃げられないようにした。

「く、クロウ?」
「心配してくれてんだろ?」
「そうだけど…ま、待って。近いよ」
「なに言ってやがんだ。ついさっきまでお前から顔近づけてきたくせに」

途端に慌て出すユリの様子が可愛らしくて、加虐心が煽られるのを感じる。先程までよりもより顔を近づけてやれば、その頬はみるみるうちに赤くなっていった。

「(あ…これオレもヤベーかも)」

ちょっとからかうつもりが、うっかり自分も飲まれてしまっていると思った。このまま、その柔らかそうな唇に自身の唇を重ねてしまえたらどんなに良いだろう。

「待っ、クロウ…」
「(…いっか。勢いに任せちまっても)」

そもそもこんな状況を作り出したのはユリなのだから責任を取るべきだ、と完全なる言いがかりをつけて、クロウはそっと目を閉じた。その時だった。

「クロウ兄ちゃーん、いるーっ?」

バターンと大きな音を立てて、龍亞が元気よく居間に入ってきた。その事に驚いたクロウとユリは慌てて身体を離す。

「あれ?ユリ姉ちゃんもいる。2人とも何してんの?」
「な、なんでもないよ?!」
「…なんつータイミングで入ってくんだよ…」

あと数センチ、いや、数ミリの距離だった。
あのままいけばユリの唇を初めて味わうことができたかもしれなかったというのに。

落胆の色を隠すことができず、クロウはがっくりと肩を落として龍亞を振り返った。

「で、なんか用かよ」
「下で遊星が呼んでたよ!なんか用があるみたい」
「あー、ハイハイ。今行くって伝えといてくれ」
「うん!わかった!」

去り際まで元気の良い龍亞が部屋を出て行くと、残されたのはクロウとユリの2人だけ。当然のように、この空間にぎこちない静寂が流れた。


「…あー…悪かった、な、ユリ」
「…」
「(くそっ。どう声かけりゃいいんだよ)」

勢いとはいえ、キスをしようとしたのは事実。しかもユリの同意は得ずに、ときたものだ。それも未遂に終わってしまったのだから、気まずいことこの上なかった。

「(絶対怒ってるよな…。もう二度とあんな事しねぇからっつって謝ればいいのか?)」

隣に座るユリは押し黙ったまま。
顔を逸らして俯いているためその表情を確認する事はできない。

「なぁ…ユリ?」

申し訳なさそうに声をかけると、ユリが突然すっくとその場で立ち上がった。そしてあっけに取られているクロウの方をくるりと振り向くと、身を軽くかがめてそのまま額にそっと唇を落とした。

「?!」

あまりにも突然の出来事に理解が追いつかない。ユリはクロウから離れて小走りでドアの方へ向かい、ドアノブに手をかけた。

「…い、いやじゃ、なかったよ」
「は…?」
「っ、なんでもない!じゃあね!」
「お、おいユリ!」

クロウが止める間もなく、ユリは階下へと走り去ってしまった。
残されたクロウは彼女が言った言葉を頭の中で反芻していたが、やがてその意味を理解したのか、ソファに崩れ落ちた。


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