home / 第四話「十二歳の目覚め」/lyc/novel/1/?index=1
目を開けた。
石の天井。魔石の灯り。冷えた空気。地下の部屋だ。
最初にしたのは魔力の確認だった。
体の内側を上から下まで確かめる。癖だ。何百年も目を覚ますたびにやってきた。減っているか、増えているか。たいてい減っている。今回は、違った。
多少、戻っていた。
全部ではない。全部にはほど遠い。だが、眠る前よりはましだった。人神と対峙するのに足りるかどうかは、まだ分からない。足りないだろう。だが、動ける。動いて、考えて、また動ける。それだけの量はあった。
七年。
魔法陣を確かめた。三重の円。全部無事だった。ひとつも欠けていなかった。誰も触っていない。ルーデウスに言ったとおりだ。あの男は言ったことを守る。
俺は立ち上がった。
足が少しふらついた。七年動いていない体だ。魔力は戻っても、体はすぐには戻らない。壁に手をついて立った。
床にコートが畳んで置いてあった。眠る前に脱いだものだ。俺はそれを拾い上げた。
内側に紙が二枚、入っていた。
◇
一枚目は事務所の箱に入っていたものだ。
あの娘が書類の上に置いていった。俺はそれを書類と一緒に持ち上げて、机の上に置いた。裏返しにして。表を見たのは一度だけだ。銀色の髪の、金色の目の人間と、その隣の、腰に手を当てた小さい人間。
銀色の髪は俺だ。
小さい人間はあの娘だ。
それを見て俺は、何を思ったのか。
思い出せない。思い出せないのではなく、思わなかったのかもしれない。ただ、捨てなかった。捨てる理由がなかった。捨てない理由もなかった。理由がないまま机の隅に置いた。眠る前にコートの内側に入れた。
二枚目は眠る直前に、あの娘が差し出したものだ。
裏返したまま渡された。俺は表を見ずにコートに入れた。見ない方がいいと思った。なぜそう思ったのかは分からない。
今、見た。
銀色の髪の人間が目を閉じていた。その隣に小さい人間が座っていた。腰に手は当てていなかった。座って、目を閉じた人間の方を見ていた。
俺はしばらく、それを見ていた。
それから、二枚ともコートの内側に戻した。
◇
階段を上がった。
転移魔法陣は事務所の三階に繋がっている。着いた先は社長室だった。
机と、椅子。書類はなかった。地図も、名簿も。眠る前に全部しまった。しまった場所は覚えている。
扉を開けた。
廊下に誰もいなかった。だが、扉の前の箱に紙が積まれていた。箱に入りきらず、床にも積まれていた。壁際に棚が三つ増えていた。棚も紙で埋まっていた。
七年分だ。
俺は一番上の紙を取った。ルーデウスの字だった。日付と、場所と、噂の内容。判断は書かれていなかった。「書き留めるだけでいい」と言った。そのとおりに書いてあった。
全部、読む。
だが、その前にやることがある。
階段を降りた。
二階には職員が二人いた。俺を見て、二人とも動かなくなった。顔が白くなった。一人は知っている顔だ。七年前からいる。もう一人は知らない。俺が眠っている間に入ったのだろう。初めて俺を見た。
二人とも逃げなかった。
逃げないのがこの事務所の職員だ。給料と、信念と、それから、七年前に見たものの記憶。俺が眠る前、この事務所は半分なくなった。それでも、誰も辞めなかったと後で聞いた。
「……ルーデウスを呼べ」
知っている方の職員が震えながら頷いた。もう一人に「行って」と言った。もう一人が走って階段を降りていった。
残った方の職員は動かなかった。動けなかったのかもしれない。俺は階段に向かった。
「……社長」
後ろから声がした。
俺は立ち止まった。この事務所の職員が俺に自分から声をかけたことは、七年前まで一度もなかった。
「あの子、毎日来てました。七年間」
俺は振り返らなかった。
「三階に上がって、しばらくして降りてくるんです。毎日。雨の日も。……私は、地下があることも知りませんでした。でも、あの子が上がっていくのを、毎日見てました」
職員の声は震えていた。恐怖で震えている声だ。俺はその声を、何百年も聞いてきた。だが、震えながら言った。
「それだけ、言いたくて」
「……そうか」
俺は階段を上がった。
◇
俺は三階に戻った。
◇
ルーデウスは半刻ほどで来た。
扉を叩いて入ってきた。俺は椅子に座っていた。ルーデウスは扉のそばに立った。眠る前と同じ位置だった。
変わっていた。
髪に白いものが混じっていた。目の周りに皺があった。体は前より少し細くなっていた。四十を超えた人間の体だ。当たり前のことだ。七年経った。
俺は変わっていない。
それも、当たり前のことだ。
「……お帰りなさい」
ルーデウスが言った。
その言い方に、俺は少し考えた。お帰りなさい。俺にそう言った人間は、これまでいなかった。帰る場所がなかったからだ。
「……ああ」
それしか言えなかった。
「魔力は」
「多少は、戻った。全部ではない。だが、動ける」
「よかった」
ルーデウスは本当に、そう思っている顔をしていた。
「七年間の報告は、箱と棚に。判断はしていません。全部、書き留めました」
「見た。読む」
「はい」
「龍狩りは」
「来ませんでした。一度も。噂は、いくつか。全部、書いてあります」
「そうか」
沈黙。
ルーデウスは何かを言おうとして、言わなかった。俺は待った。この男が言おうとして言わないことは、たいていあの娘のことだ。
「……娘が、来ます」
やはり、そうだった。
「毎日地下に降りていました。七年間。……あなたが眠っている床に向かって、報告を。止めましたが、止まりませんでした」
俺は何も言わなかった。
知っていた。
知っていた、というのは正確ではない。眠っている間、俺は何も見ていない。夢も見ない。あの眠りはそういうものだ。だが、声を聞いた気がする。何を言っていたのかは分からない。ただ、声があった気がする。七年間、ずっと。
それが本当に聞こえていたのか、目覚めた後に作られた記憶なのか、俺には分からない。
分からないことは、言わない。
「……来させろ」
「……はい」
ルーデウスは頭を下げて、出ていった。
◇
その夜、箱の紙を読んだ。
七年分。三つの棚と、箱と、床。ルーデウスの字で、日付順に並んでいた。
最初の一年は噂が多かった。俺が眠ったことを、龍狩りが確かめようとした跡だ。各地で龍神の名を出して聞き回る者がいた。傭兵団がそれを拾った。ルーデウスは書き留めた。判断はしなかった。
二年目から噂が減った。
三年目にはほとんどなくなった。
静かになった。あいつらはそういう連中だ。俺が動けないと分かれば、待つ。待って、別のことをする。別のことが何だったのかは、この紙には書いていない。ルーデウスが見えなかったものは書けない。
だが、俺には分かる。あいつらは次の兵を作っていた。七年前より悪い形のものを。俺が起きたときに使うために。
六年目の終わりに、ひとつ気になる記述があった。
ミリスの近くで傷の治らない病が出た、という噂。治癒魔術が効かない傷。三人が死んだ。原因は不明。ルーデウスは書き留めていた。判断はしていなかった。
俺はその紙を別にした。
治癒の効かない傷。それを作れる者を、俺は何人か知っている。全員、龍狩りだ。
七年目には何も書かれていなかった。静かだった。
静かなのは良いことではない。
◇
来たのは、翌日だった。
俺は箱の紙を読み返していた。ミリスの噂のところをもう一度読んでいた。そこで階段を上がってくる足音がした。
軽い足音。だが、七年前より重い。
扉の前で足音が止まった。
扉が叩かれた。
「オルステッド様。返事、聞きに来ました」
声が、違った。
七年前は舌足らずだった。今はそうではない。言葉がはっきりしていた。だが、言っていることは同じだった。
俺は立ち上がった。
扉を、自分で開けた。
七年前は、開けなかった。四回とも開けなかった。開け方が分からなかったのではない。開けた後にどうすればいいのかが、分からなかった。今も、分からない。分からないまま、開けた。
娘が、立っていた。
背が伸びていた。俺の胸のあたりまである。髪は母親と同じ色で、少し癖がある。目は父親に似ていた。父親よりまっすぐだった。
腕に帳面を抱えていた。七冊。
娘は俺を見上げた。
七年前と同じ顔だった。何かを見つけた顔ではない。決めた顔だ。ルーデウスがそう言っていたのを、俺は覚えている。あのとき、俺は意味が分からなかった。今は、少し分かる。
「……大きくなったな」
言ってから自分で驚いた。
そんな言葉を、俺はこれまで誰にも言ったことがなかった。言う相手がいなかった。何百年も。
娘は頷いた。
「十二になりました」
「そうか」
「約束のとおりです」
そうだった。十二になったら、返事を聞く。娘はそう言った。俺は何も言わなかった。言わなかったことを、娘は「約束」と呼んでいる。
娘は抱えていた帳面を、俺の机の上に置いた。七冊、並べた。
「これ、報告です。七年分。……起きたら、読んでもらおうと思って書きました」
俺は帳面を見た。表紙に「ほうこく」と書いてある。数字が一から七まで。
「返事は読んでからでいいです」
娘はそう言った。
七年前と同じだった。「へんじは、こんどでいいわ」。あのときも、娘はそう言って帰った。
「……読む」
「はい」
娘は頭を下げた。
それから、扉のところで振り返った。
「オルステッド様」
「……なんだ」
「起きてくれてありがとうございます」
俺は答えられなかった。
娘は階段を降りていった。足音が遠くなった。
俺は扉を閉めて、椅子に座って、帳面の一冊目を開いた。
◇
一冊目は絵ばかりだった。
最初のページに、銀色の髪の人間が目を閉じていた。その隣に小さい人間が座っていた。コートの内側にある二枚目と同じ構図だ。
次のページは猫だった。その次は家だった。その次はまた銀色の髪の人間だった。今度は目を開けていた。小さい人間が腰に手を当てていた。
字は、なかった。
二冊目から字が混じった。
「きょう、じをおぼえました。これで、かけます」
その下に俺の名前が、何度も書いてあった。「オ」の形が最初は「才」になっていた。何度目かで、「オ」になっていた。
俺はそのページを長い間、見ていた。
名前を、書かれたことがなかった。
呼ばれたことは、ある。恐怖と一緒に呼ばれる。憎しみと一緒に呼ばれる。だが、練習して書かれたことはなかった。「才」から「オ」になるまで、何度も。
三冊目は学校の話だった。父親の名前を皆が知っている。それが不満らしい。「みんな、おとうさんをしっていました」。字が少し荒れていた。
四冊目に一人で地下に降りた日のことがあった。
「きょう、ひとりできました。おとうさんには、ほうこくしました。おこられませんでした。おこられなかったので、あしたもきます」
六歳だ。六歳の子供が、一人であの暗い階段を降りた。
俺はあの階段を知っている。魔石は人が来ないと光らない。降りていく途中は暗い。俺は暗さを恐れたことがない。だが、六歳の子供にとって、あの階段がどういうものかは想像できた。
その日の報告には、「こわくなかった」と書いてあった。
嘘だと、俺は思った。
その字の横に小さな染みがあった。インクではない。丸い、薄い染み。何の染みかは書いていない。書いていないことは分からない。分からないことは、言わない。
嘘だが、書いた。書いて、翌日も来た。
五冊目、六冊目、七冊目。
字が大人のものに近づいていった。内容も変わった。学校のこと。剣のこと。治癒魔術のこと。友人のこと。兄が剣を持って一緒に歩くこと。母が髪を梳くこと。
俺は全部読んだ。
一晩で、読んだ。箱の紙を読むより時間がかかった。箱の紙は情報だ。読めば、頭に入る。帳面は違った。読んでも、頭に入らなかった。入らないので何度も読み返した。
◇
五冊目の途中に一行、俺の目を止めた箇所があった。
「きょう、おぼえたことがあります。まだ、かきません」
その前後に曾祖母が来たことが書いてあった。エリナリーゼ。俺はあの女を知っている。あの女の呪いも知っている。何百年も前から、あの女はあの呪いと一緒に生きている。
その日、娘は何を覚えたのか。
書いていない。「まだ、かきません」。
その少し後に猫の傷を治した日のことがあった。「ちょうどよくできました」。その後に、一行。
「あまったぶんを、わたせたら、いいのに」
俺はその一行を、何度も読んだ。
意味が分からなかった。
余った魔力を、渡す。誰に。何のために。
分からないまま、覚えた。分からないことは覚えておく。いつか、分かる日が来るかもしれない。来ないかもしれない。
俺は帳面を閉じた。
七冊を机の引き出しに入れた。コートの内側から二枚の紙を出して、帳面の上に置いた。引き出しを閉めた。
◇
二日後、娘が来た。
俺は扉を開けた。今度は迷わなかった。
娘は机の上に帳面がないのを見た。
「読みましたか」
「読んだ」
「全部?」
「全部」
娘は頷いた。それから、俺を見上げた。
「返事を聞きに来ました」
俺は椅子に座っていた。娘は立っていた。俺は立ち上がらなかった。立つと、娘を見下ろすことになる。それは違う気がした。
十二。
人間の十二は子供だ。俺はそれを知っている。何百年も人間を見てきた。十二の人間はまだ何も決められない。決めたと思っても、三年後には別のことを決めている。俺はそういう人間を何千人も見た。
だが、この娘は五歳で決めたことを、十二まで変えなかった。七年。人間の七年は長い。俺の七年とは違う。
それでも、十二は、子供だ。
子供に返事をすることは、できない。断ることも、受けることも。どちらも、子供に対して言うことではない。俺はそう思った。思ったが、それを言葉にする方法を知らなかった。
「……返事は」
俺は言葉を探した。何百年も言葉を探したことがなかった。言うべきことはいつも決まっていた。決まっていないことを言うのは、初めてだった。
「……まだ、分からん」
娘は瞬きをした。
「分からない、というのが、返事ですか」
「そうだ」
「断る、ではなく」
「断る、ではない」
「受ける、でもなく」
「受ける、でもない」
娘はしばらく黙っていた。
それから、腰に手を当てた。胸を張った。七年前と同じ姿勢だった。だが、七年前より様になっていた。
「じゃあ、まだ報告を続けます」
「……好きにしろ」
「します」
娘はそう言って、頭を下げた。
下げてから、上げて俺を見た。まだ何か聞きたい顔だった。
「オルステッド様。眠っている間、夢を見ましたか」
「……見ない。あの眠りは、そういうものだ」
「声は」
俺は答えに詰まった。
答えない、という選択があった。分からないことは、言わない。それが俺のやり方だ。だが、この娘は七年間、答えのない床に向かって喋り続けた。答えないというやり方を、この娘に対して続けるのは違う気がした。
「……聞いた気がする」
「何を言っていたか、分かりますか」
「分からん。声だけだ。……聞こえていたのか、目が覚めてから作られた記憶なのか、それも分からん」
娘は少し笑った。
この娘が笑うのを、俺は初めて見た。七年前は俺の前で笑わなかった。父親の方を向いて、笑った。今は、俺の方を向いて、笑った。
「どっちでもいいです。聞こえてたことにします」
「……勝手に決めるな」
「決めます。返事がなかったら、決めていいって七年前に覚えました」
俺は何も言えなかった。
その理屈を教えたのは、俺だ。教えたつもりはない。だが、教えた。
「もうひとつ、いいですか」
「……なんだ」
「兜、取ってください」
七年前と同じ言葉だった。
俺は兜に手をかけた。七年前は数秒、迷った。今は、迷わなかった。迷わなかったことに後で気づいた。
兜を、外した。
娘は俺の顔を見た。七年前は、見上げた。今は、少しだけ見上げる角度が浅い。
「……変わってない」
「変わらん」
「私は、変わりました」
「……ああ」
「どこが変わったか、分かりますか」
俺は娘を見た。背。髪の長さ。目。声。言葉。全部、変わっていた。だが、娘が聞いているのは、そういうことではない気がした。
「……分からん」
「じゃあ、また報告します。変わったところを」
娘はそう言って、今度こそ頭を下げた。
俺は兜をかぶり直さなかった。娘が階段を降りきるまで、かぶらなかった。理由は、ない。
扉のところでまた振り返った。
「オルステッド様」
「なんだ」
「絵は、もう描きません。字が書けるので」
「……そうか」
「でも、持っててください。二枚とも」
俺は答えなかった。
娘は階段を降りていった。
◇
昼過ぎに地下に降りた。
魔法陣を確かめるためだ。目が覚めた日にも確かめたが、もう一度明るい頭で見ておきたかった。三重の円。文字。欠けはない。
確かめ終わって、俺は床の前に立った。
床の前の石が少しだけ、他と違っていた。
色が違う。滑らかになっている。ちょうど、人が一人座れるほどの広さ。七年、毎日同じ場所に座れば、石はこうなる。
俺はその場所を見ていた。
何百年も、この部屋には俺しか来なかった。俺が眠り、俺が起きる。それだけの部屋だった。石は俺の足の形しか知らなかった。
今は、もうひとつ、知っている。
俺はその場所に、座らなかった。座る資格があるとは思えなかった。ただ、しばらく立って見ていた。
それから、階段を上がった。
◇
その夜、ルーデウスを呼んだ。
「龍狩りが動く」
最初にそう言った。
「俺が起きたことを、あいつらは知る。すぐにではない。だが、遠からず。あいつらは、七年、次を作っていた。俺が起きた今、使う理由ができた」
「……はい」
「狙いは、変わらん。あの娘だ」
「はい」
「守れ」
「……はい」
ルーデウスは頷いた。七年前と同じ返事だった。だが、七年前より疲れた顔をしていた。
「ミリスの噂を、読んだ。六年目の終わりの。治癒の効かない傷」
「……はい。あれは、気になっていました。ですが、判断は」
「しなくていい。俺がする。あれは、龍狩りの兵の可能性がある。俺の眠っている間に、次を作った。ミリスの近くで」
「ミリスには、エリナリーゼが」
「知っている」
俺は少し考えた。
「あの女に、伝えろ。治癒の効かない傷を負わせる者が、近くにいるかもしれない。近づくな、と」
「……伝えます。ただ、あの人は」
「聞かんだろうな」
「はい」
あの女は何百年も、俺の言うことを聞かなかった。聞かないまま生きてきた。それで生きてこられたのだから、それも一つのやり方だ。だが、今回は、違う。今回はあの女の曾孫が、狙われている。
「娘にも、言え。……いや」
俺は言い直した。
「俺が言う」
ルーデウスは少し驚いた顔をした。
「明日、来たら、俺から言う。お前は、狙われる。俺が起きたから。……それを、俺の口から言う」
「……はい」
言うべきだと思った。七年前は、言わなかった。眠るとだけ言った。あの娘はそれでも待った。今度は、待たせる前に、言う。
「ルーデウス」
「はい」
「……よくやった」
ルーデウスは顔を上げた。
「七年。記録も、事務所も、あの娘も。よくやった」
この男にそう言ったのは、初めてだった。言うべきだと思った。何百年も、誰かに「よくやった」と言う必要がなかった。今は、あった。
ルーデウスは何も言わなかった。頭を下げて部屋を出た。扉を閉めるとき、目元を拭っているのが見えた。
◇
三日目、娘は報告に来た。
扉を叩いて、俺が開けて、娘が入って、机の前に立つ。帳面は持っていなかった。
「報告します」
「……聞く」
「今日、学校で治癒魔術の中級に上がりました。先生に制御が良くなったと言われました。友達のミラに、起きたことを話しました。ミラはよかったねと言いました。兄は、今日もその辺に用がありました」
娘はそこで止まった。
俺は待った。続きがあるのかと思った。なかった。
「……以上です」
「そうか」
娘は頭を下げて、出ていこうとした。
「待て」
自分でも驚いた。呼び止めるつもりはなかった。
娘は振り返った。
「……兄は、まだ、剣を持って歩くのか」
「はい」
「そうか」
それだけだった。他に聞くことが思いつかなかった。帳面には書いてあった。兄が、剣を持って一緒に歩く。俺はそれを、七年前にルーデウスに言った「守れ」の結果だと知っていた。知っていて、聞いた。聞く理由がなかった。
娘は少しだけ首を傾げた。
「オルステッド様。報告に質問してもいいんですよ」
「……そうか」
「はい。お父さんはいつも質問します。『それで、どうなったの』とか」
「……それで、どうなった」
「兄は、今日も事務所の前にいると思います。帰るとき」
「そうか」
「以上です」
娘は扉に手をかけた。
「待て。……もうひとつ、ある」
娘は振り返った。
「お前は、狙われる。俺が起きたからだ。七年前と同じ相手が、また来る。今度は、七年前より、悪い形で」
娘は瞬きをしなかった。
「知ってます。七年前から」
「……そうか」
「お父さんが毎日、結界を確かめてます。兄が剣を持って歩きます。青ママが逃げる魔術を教えてくれました。赤ママが剣を教えてくれました。……全部、そのためだって、知ってます」
「そうか」
「オルステッド様は、七年前、私を守るために、眠りました。……違いますか」
俺は答えなかった。
違わなかった。人神と対峙するために眠った。それは本当だ。だが、眠れば、あいつらはこの娘を狙う理由を失う。それも計算に入っていた。どちらが先だったのかは、俺にも分からない。
「違わないなら、返事はいりません」
娘はそう言った。
「以上です」
娘は今度こそ、出ていった。
俺は椅子に座り直した。
報告に、質問をする。何百年も、報告は聞くだけだった。聞いて、判断して、指示を出す。質問は必要なときだけした。必要でないときに質問をするやり方を、俺は知らなかった。
明日、また来る。
来たら、何か聞く。何を聞くかはまだ決めていない。
◇
一人になって俺は引き出しを開けた。
七冊の帳面と、二枚の紙。
俺は二枚目の紙をもう一度見た。目を閉じた銀色の髪の人間と、その隣で座っている小さい人間。
七年間、座っていた。
俺はその事実をどう扱っていいのか、分からなかった。
何百年も、俺の隣に座る者はいなかった。座れなかった。呪いがそれを許さなかった。俺はそれを当たり前だと思っていた。当たり前だから何も思わなかった。
当たり前ではない者が、現れた。現れて、座った。七年。
俺はその者の名前を、知っている。
呼んだことはない。
呼べば、何かが変わる。何が変わるのかは分からない。分からないから、呼ばなかった。眠る前も、今も。
引き出しを閉めた。
明日、また来る。
来たら、扉を開ける。
それだけは、決めた。
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