第七師団が身を置く北海道は静かで平和だというのに、日本と露西亜の関係は日に日に悪化し、間もなく開戦するであろうことは皆薄々感じていた。
まあ実際のところ北海道の平和も表面的なものに過ぎず、より深いところでは様々な陰謀が渦巻いているし、春臣自身もそれに加わっている身ではある。


「春臣」

そんなある日の夜、春臣は薄暗い廊下で尾形に呼び止められた。
それ自体はそう珍しいことではないが、尾形の表情を見るに何か思い詰めているようにも感じた。
此処では出来ない話なのか、尾形は目線だけで春臣を誘う。
きっといつもの空き部屋だろう。

無言で踵を返した尾形を追って、春臣も薄暗い廊下を進んだ。



「───それで、どうした尾形」

掃除はしたが、暫く使わないうちにまた埃が溜まっている。
薄ら白くなった窓枠を眺めながら春臣が切り出すと、尾形は少し悩んでからゆっくり口を開いた。

「人を誑し込むには何をしたら良い」
「は?誑し込む?」

思いもよらない言葉に春臣は目を丸くして驚く、と同時に少しだけドキリとした。
思い詰めた顔で何を言い出すのかと思えば…

「…それが得意な人がいるじゃないか。俺ではなくそっちに聞いた方が良いだろ」
「仕込みが高度すぎて俺には真似出来ん」
「そう言われると、確かに…」

尾形の言う高度すぎる仕込みには幾つか心当たりがあり、思わず顔を顰めてしまった。
その仕込みはまるで劇のようで、御涙頂戴の脚本を作るのはいつだって鶴見中尉だ。
そんな鶴見劇場に春臣も加わった事があるし、加わらずとも内容を知っていたりなど…
ボンボンの拉致とか、…罪を被せる露西亜人の数が足りず、表にこそ出なかったが一応は共犯ではあるのだ。
確かにあれはそうそう真似出来ることではない。

「お前もそういうの得意そうだろ」
「俺の事なんだと思ってるの」

心外だ、とは言いつつだ。遂行するかはともかく、目の前にいる尾形を誑し込めという命令を実際に受けているのだから、あながちその推測は間違っていない。

「…特別感を出してやるとか、」
「特別感?」
「お前だけは特別だぞ、お前だからだぞって」
「……」
「ちなみに誰を誑し込むんだ?」
「…」

黙り込んでしまった尾形は春臣の問いには答えず、じっと足元だけを見ている。
その様子に春臣は一人の人物を思い起こした。

「…勇作殿か?」
「…」

無言は肯定だった。
恐らく鶴見中尉からの命令なのだろう。
確かに、勇作殿を此方側へ引き込もうと鶴見中尉が画策しているのは知っていた。
その目的は勇作の父である第七師団長 花沢 幸次郎を操ることにある。
だがその企てに、よりにもよって尾形を使おうとは。

「…誑し込んで弱みでも握って、此方側に引き込むか?」
「そのつもりでいる」
「手強そうだけどな…」

勇作殿はまさに容姿端麗、品行方正、成績優秀を絵に書いたような人物だ。
まがい物である春臣とは違い、本物なのだ。
いくら兄である尾形が誘惑しても…さすがに一線を超えはしないのではないか。
だがその場合、此方側が取る方法など限られているだから…誘惑に乗ってくれることを祈るばかりだ。

「…尾形はそれで良いのか」
「…何がだ」
「勇作殿を利用しようってこと」
「……俺は勇作殿の本性を知りたい」

過程などどうでも良い。
尾形の黒く大きな瞳が獲物を狙うかのように細められる。
春臣は「そうか」とだけ呟き、視線を窓の外へと向けた。








「白野上等兵」
「はい」
「付いて来なさい」
「はい」

呼び出しを受け、いつも通り部屋を訪ねると鶴見中尉が出掛ける支度をしているところだった。
そして特に行先も告げられないまま鶴見中尉に伴って馬車に乗る。
外出する際春臣は必ず小銃と銃剣を装備しているが、今回は不要とのことで身一つで鶴見中尉に同行している。
腰には銃剣の重みがなく、最早体の一部と言っても過言では無い小銃も今はない為、非常に手持ち無沙汰で落ち着かない。
いざとなれば素手でどうにかするが、月島軍曹並の相手が来たらまず勝てないだろう。

「なぁに、ちょっと遊びに行くだけさ。安心しなさい」
「…はい」

そんな春臣の様子に鶴見中尉は笑って声を掛けるが、何一つ安心できない。むしろ不安が増した。
遊びとは言いつつも、何か別の目的があるはずなのだ。

そうしてガタガタと馬車に揺られ、飲み屋街を通り越して辿り着いた場所はなんと遊郭だった。
遊ぶってそういう??

「あの、鶴見中尉殿…?」
「なんだね白野上等兵」
「こちらでお遊びに?」
「うん」

笑顔で頷く鶴見中尉に、あ、絶対嘘だ。と直感的に悟った。
目的地はここで間違いないようだが、遊郭で遊ぶというのは確実に嘘である。ならば、ここで何をするのか。はたまた何が行われているのか。

「…一体どなたが居られるので?」
「うんうん、君は相変わらず察しが良くてお利口だ。そして実に良い質問だ」
「…」
「そう慌てるな。まずは馬車を降りるぞ」
「はい」

鶴見中尉の言葉に頷き、春臣は馬車の扉を開けるとステップを使わずストンと身軽に飛び降りる。
そしてすぐさま鶴見中尉が降りやすいよう手を差し出して降車の補助をする。

「ありがとう。では行くとしよう」

まだ春臣に詳細を聞かせる気はないらしく、さっさと店の中に入って行く鶴見中尉を無言で追いかける。
店の中は巷で流行りの豪華絢爛───…ではないが、品があって落ち着いた造りのようだ。

「ご案内致します」

事前に話を通していたらしく、出迎えた店の主人と二、三言葉を交わすと春臣たちはすぐに部屋へと案内される。
道中、遊女たちとすれ違う度に熱い視線を向けられるので、その都度ニコリと微笑んでやれば可愛らしい声を上げて皆逃げて行く。

「白野上等兵、此処の女性たちをそう骨抜きにするな」
「してません」
「あれではもう仕事に身が入らんだろうなぁ」

くっく、と可笑しそうに笑う鶴見中尉だったが、ある部屋の近くまで来るとピタっと笑うのをやめ、春臣を振り返ると「しーっ」と口の前に人差し指を立てる。
それに一つ頷き、案内されるまま用意された部屋へと入る。
そこには遊女はおろか誰もおらず、ただ広い部屋にお膳が二つ。徳利と猪口だけが用意されていた。

「…」

どういうことなのか視線で鶴見中尉に問えば、ニコリと笑んだ後、襖で仕切られた隣の座敷を指差した。
意識をそちらに向ければ、なるほど人の気配がある。
促されるまま聞き耳を立てるとよく聞き慣れた声が二つ。思わず、は、と吐息を飲んだ。

「────眉目秀麗、成績優秀、品行方正…旗手はいわば聯隊の顔だ。勇作殿が旗手に選ばれたのには、…───」

その声は間違いなく尾形で、きっと共にいるのは花沢 勇作だ。
ああ、今夜が“その日”だったというわけか。

鶴見中尉に目を向ければ平然とした様子で既に寛いでいた。
そしておもむろに徳利を手に取り猪口へと傾け酒を注ぐと、それを春臣へと差し出す。
鶴見中尉は酒を呑まない。これは間違いなく春臣が呑むようにと注いだものだ。
…尾形たちの話を酒のつまみにしろと?

「…」

ニコリと笑った鶴見中尉の手から猪口を受け取ると、春臣は一息に酒を煽った。



「────…兄様…申し訳ございません」
「……人目につかぬよう勇作殿を裏からお見送りしろ」

結果的に、勇作殿は尾形の誘いには乗らなかった。
ここの遊女は口が堅いから。
男兄弟は一緒に悪さをするものだ、と尾形がいくら誘っても決して乗ってくることはなかった。

「…」

猪口を膳に置き、鶴見中尉に目を向ける。
だがそこにはもう表情はなく、何か思案するように指で頬を叩いている。


「────白野」
「はい」
「行こうか」

そうして頃合を見計らい、鶴見中尉が隣の座敷へと続く襖を開けると、そこには襟元が乱れた尾形とその腕にしなだれ掛かる遊女がいた。

「鶴見中尉殿。…白野」

大きく黒い目が鶴見中尉と春臣を順番に見やり、なんでお前までここにいると言わんばりに細められた。

「…もう結構です。中尉殿と大事な話がありますので」

まとわりつく遊女の細い腕をやや乱暴に振り解いてそのまま下がらせ、尾形は乱れた襟と姿勢を正し鶴見中尉に向き直る。

「噂通りのお人柄だな。弟君は…」
「場の雰囲気に怖気付いただけかと」
「だと良いが…」
「誑し込んでみせましょう」

自信があるとばかりに口角を上げる尾形だが、鶴見中尉は先を見据えるように目を細める。

「正義感が強ければこちらに引き込んで操るのは難しいぞ」

────なにせ、高貴な血統のお生まれだからな。

「…血に高貴もクソも、そんなもんありませんよ」
「それには私も同感です」

そんな非現実的な事を言い出せば春臣と尾形、二人の体に半分流れている血はなんだという話になる。

「…何にせよ。もし上手くいかなかった場合は、だ。残念だが…勇作殿には消えてもらうとしよう」

さも当たり前のことを話すように平然と、淡々と。一人の青年の終わりを語る鶴見中尉に春臣は静かに目を伏せる。
ほら、やっぱり。懐柔が上手くいかなければそれしかないのだ、俺たちには。


「わかりました」

頷いた尾形に表情はなく、その黒い瞳からはなんの感情も読み取ることが出来なかった。




それから、何度か花沢 勇作をこちらに引き込まんと動くも…彼は一度たりとも誘いに乗ることはなく、いずれも失敗。
そして────…

明治三十七年 二月。
日本と露西亜は国交断絶を決定────日露戦争開戦となった。




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