旅順攻囲戦。
二〇三高地陥落間際、第七師団は山頂占領をめぐり数日に渡って露西亜軍と血みどろの白兵戦を繰り広げていた。


引き金を引く、ボルトを操作、仲間に当たらぬよう狙いを定め、また引き金を引く。
そんな動きを幾度も繰り返し、奪った命は一体どれ程になるだろう。

見据えた戦場の先では今日も旭日籏が大きく揺れていた。



────…


「鶴見中尉殿が“やっぱり殺すな”って?」

吐き捨てるような宇佐美の言葉。
春臣は敵地へ向けて小銃を構える尾形をチラリと見やる。
尾形、宇佐美、白野。第七師団の優秀な上等兵たちが人気のない夜の塹壕に集まっていた。

「“勇作殿が消えれば百之助が父上から寵愛を受け花沢閣下を操れる”…って言ってたのにな。つまんね〜」
「周りの兵たちは皆、勇作殿を神聖視しているから利用価値があるって思ったのかもしれないな」
「あんなの単なる親の七光りでしょ。みんな勇作殿を美化しすぎてない?」
「…やっぱそうだよな?」

小銃を下ろし、首を傾げた尾形が春臣と宇佐美を見やる。

「化けの皮を剥がせば鶴見中尉殿も気が変わる。一皮剥けばみんな同じだ」
「その皮がなかなか剥けなくて困ってたんだろう」

春臣の言葉に少しムッとしたのか、尾形は口を固く結び、不機嫌そうに顎をしゃくる。
フフと笑って立ち上がる宇佐美に倣い、春臣も膝に手を着いて立ち上がり、外套に付いた砂を叩き落とす。

「宇佐美、お前ロシア兵を殺して悪かったなって思わないよな?」
「思わない」
「春臣は?」
「…別に。戦争だしな」
「…殺されるのはそれなりの非があるからだ」
「うんうん、わかる」

そんな会話を交わしながら、春臣たちは戦場に転がっている何百もの死体の中からまだ息のあるロシア兵を見付けて引っ張り出す。
口から発せられるロシア語は全て無視し、その口に布を噛ませて後頭部で縛り、同時に手足を後ろできつく結んで拘束する。

「誰だって罪を犯しうるんだ。そいつらを殺したって罪悪感なんてわかないだろ」
「ないね」
「…」
「両親からの愛の有る無しで人間に違いなど生まれない」
「そのとーり」
「やっぱり俺はおかしくないよな、春臣」
「…俺に聞いたところで、だよ尾形」

ズルズルとロシア兵を引き摺って歩く尾形と宇佐美の背を言葉少なに追い掛けつつ、春臣は周囲を警戒するように見回して歩く。


「俺は勇作殿を呼んでくる」
「いってらっしゃい」

目的の塹壕までロシア兵を連れてきた尾形はそれだけ言い残すと春臣と宇佐美に背を向け、野営地へと向かっていく。

「百之助が勇作殿を連れてきたら僕たちはこの穴に隠れてよ」
「ああ、うん」
「勇作殿どうするのかな〜」

ちょっと楽しみ、と笑う宇佐美に春臣は溜息を吐き出す。
この企ては鶴見中尉の命令でも何でもなく、尾形、宇佐美、白野の独断であった。
正直乗り気では無いし、そもそもこの宇佐美という男とはあまり会話をしたくないのだが…
日に日に目が澱んでいく尾形を案じ、仕方なく春臣も加わっていた。

「…宇佐美。あまり尾形を追い詰めてやるなよ」
「追い詰めるって失礼じゃない?百之助は正しい事言ってるし、僕はうんうんってそれを肯定してるだけだよ」

って言うか君そんな口調だった?という宇佐美の問いには答えず、足元に転がるロシア兵を見下ろす。
捕虜の扱いは厳しく定められているが…
ここまでの道すがらを考えると、正当な扱いを受けられるとはこの捕虜自身ももう思ってはいないだろう。

Вам не повезлоお前は運がなかったな

驚愕に見開かれた青い目はひたすら恐怖に染まっていた────。





「兄様…?捕虜ですか?どうしてここに、」

暫くすると、二人分の足音と話し声が徐々に近付いて来た。
不本意ながらも春臣は宇佐美と塹壕内にある穴の中に身を寄せ、二人の会話に耳を傾ける。

「勇作殿…旅順に来てから誰かひとりでもロシア兵を殺しましたか?」
「…え?」

尾形の言葉に勇作は動揺を隠せないようだ。

旗手とは、小銃すら持たずに前線へ突撃し、味方を鼓舞する役割である。
とはいえ、他の旗手は軍刀を抜いて戦っている。
しかし勇作は刀を抜かず旭日籏を振って仲間を鼓舞するばかり。
何故戦わないのか、と尾形は訊ねる。

「それは…天皇陛下より親授された軍旗の死守が第一と…」
「旗手であることを言い訳に手を汚したくないのですか?」
「そんな…違います…!」

必死に違うと訴える勇作に、尾形は腰から銃剣を引き抜くとスっとその柄を差し出した。

「ではこの男を殺して下さい」
「兄様…、捕虜ですよ…」
「自分は清いままこの戦争をやり過ごすおつもりか?」
「…、」

「勇作殿が殺すのを見てみたい」
「ッ、できません…っ!!」

一瞬言葉を無くすも、すぐに我に返った勇作は差し出された銃剣を押し返して拒否を示す。

「父上からの言いつけなのです…!“お前だけ殺すな”と…!」

軍旗は周りの兵士にとって神聖なものであるから、旗手はゲンを担ぐ為に童貞である。
そして、これは軍のしきたりでもなく父の解釈だが、と勇作は訴える。

「敵を殺さないことでお前は偶像となり、勇気を与えるのだと…!」
「…」
「何故なら誰もが人を殺すことで罪悪感が生じるからだと…!」
「…罪悪感?殺した相手に対する罪悪感ですか?」

そんなもの、みんなありませんよ。
そう淡々と告げる尾形を勇作は首を振って必死に否定する。

「そう振舞っているだけでは…!」
「みんな俺と同じはずだ」
「っ、!」

息を呑んだ勇作は目の前の尾形へと手を伸ばし、その身体を強く抱き締めた。

「兄様はけしてそんな人じゃない…!」

声を震わせ、まるで縋るように。兄を抱く腕に更に力が込められる。
澄んだ瞳には涙の膜が張り、決壊したそれは白い頬を冷たく濡らした。

「きっと分かる日が来ます…!人を殺して罪悪感を微塵も感じない人間がこの世にいて良いはずがないのです────…!」


「…」

尾形でも宇佐美でもなく、春臣でもない。
他でもない勇作殿が言うことだ、きっとそれが真実で正しいことなのだろうと春臣は思う。
しかしそれは尾形にとってあまりにも残酷な話だった。




「────まいったな」

低い声に抑揚は無い。だがその呟きは確かに心の底から吐き出されたもので、尾形は実に困った様子だった。

「やっぱり俺がおかしいのか?愛の無い妾の子だからか?…いや、待てよ。実は俺も父上から愛されていたとすれば?その場合俺と勇作殿との違いは何も無いってことだよな?」

自問自答を繰り返す尾形に宇佐美はただ笑顔で頷き、春臣は何も言えないでいる。

「清い人間でも何でもなくて。あいつだって人を殺して罪悪感なく生きられる“素質”があるということだよな?」

じゃあ父の愛を確かめるには?

そう言って尾形は春臣と宇佐美が潜む穴を振り返る。

「勇作殿がいなくなればいい。そうだよな?」

そうだね。
そう答えたのは宇佐美だけだった。



尾形が出した結論に満足したらしい宇佐美は、どこか楽しげに野営地へと戻って行った。
残されたのは尾形と春臣、そして未だ足元に転がる捕虜の三人。

「…宇佐美はああ言ったが。鶴見中尉殿は勇作殿を殺さなくて良いと言っているんだぞ」
「でも当初は殺すつもりでいたんだし、別に問題はねぇだろ」
「……お前は、本当にそれで良いのか?…百之助」

労わるように名前を呼べば、遠くを見ていた大きな瞳が春臣を捉える。
暗く冷たい目の奥にあるのは果たして期待だろうか。
自分も父に愛されていたのかもしれないという、期待。
そんな不確かなものの為に殺すのか。

「勇作殿はお前を愛してくれているだろう」

父の愛など確かめずとも、お前を愛してくれる人が身近にいるというのに。

「百之助、後悔しないか」
「……」

春臣の言葉に尾形は何も答えず、代わりにスラリと銃剣を引き抜くと、何の躊躇いもなく捕虜の首へとその刃を突き刺した。

「撃てばわかるさ────」







怒号。悲鳴、爆発音。銃声、悲鳴、鬨の声────。
それらの一切を無視し、尾形はただ一点を見据え続け、そして遂に引き金を引いた。

風を切って飛んだ弾丸は後頭部を撃ち抜き、額から赤い飛沫を上げさせる。
飛び散る血液と共に意思が抜けた身体は膝からカクンと崩れ落ち、旭日籏とそのまま赤い大地へ沈んで行くともう二度と起き上がることは無かった。



|