日本は多すぎる戦死者を出しつつも第七師団の奮闘により二〇三高地を制圧し、旅順の陥落をもって戦争の優位に立った。
そして日本軍優位のまま早期講和へ持ち込む為、大きな賭けではあったがロシア陸軍の拠点である奉天を叩けと命令が下された。
「…」
二〇三高地でも奉天でも、狙撃手である尾形の仕事は変わらない。
敵の頭を撃ち抜き即死させる。または敢えて足や腹を狙い、それを助けに来た仲間をまた狙撃する。
その繰り返しだった。
五発を撃ち終え、弾が切れたので装填の為に塹壕へと身を隠す。
────…百之助、後悔しないか。
時折脳裏を掠めるのは春臣の言葉だった。
撃てばわかる。そう答えた尾形は二〇三高地での戦闘の混乱に乗じ、花沢 勇作の頭を背後から撃ち抜いた。
後頭部から額へと飛び出た弾丸は血飛沫を舞わせ、勇作の身体がカクンと膝から崩れ落ちる───…が、途中で踏み止まり、勇作は額から血を流しながらゆっくりと尾形を振り返った────。
…いや、そんなことは有り得ない。それはただの錯覚で、頭を撃ち抜かれた勇作は間違いなく即死していた。
では一体何故そのように錯覚したのだろうか。
尾形は頭を振ってその答えを求めず、小銃のボルトを操作し排莢する。
勇作殿を撃った後悔はなかった。
奉天での戦況はあまり思わしくなかった。
二〇三高地の激戦で日本軍はかなり消耗しており、第七師団も奮闘しているがそれでも戦況はなかなか動かない。
「…」
小銃を構えながら塹壕から顔を出すと、数百メートル先のロシア兵が銃弾を受けて倒れるところだった。
ここまでの長距離狙撃を得意とする者は自分と春臣を置いて他に居ない。
尾形は再度塹壕に身を隠し、この場所から数メートル先の塹壕で小銃を構える春臣を見やる。
────百之助。
そう自分を呼ぶ春臣の声がまた脳裏を掠める。
その時だった。
「ッ───…!」
シュパンッと風を切って飛来した敵の弾丸が春臣を捉えた。
忽ち顔面辺りから血飛沫が舞い上がり、後方へとよろめいた身体から軍帽がずり落ちる。
「、…」
やけにゆっくりと見えるその光景に、尾形の背中を冷たい汗が伝い、同時に心拍が上がる。
────春臣の倒れる姿が勇作が崩れ落ちる瞬間と重なって見えた。
頭…、頭を撃たれたのか…?
「っ、」
咄嗟に駆け寄ろうと尾形が足を踏み出した瞬間だった。
後方へと仰け反るようによろめいていた春臣がぐっと踏み止まったのだ。
そしてすぐさま小銃を構え引き金を引くと、サッと塹壕内へと身を隠した。
どうやら被弾はしたが即死するようなものでは無かったようだ。
は、と一旦安堵の息を吐いた尾形は銃口を下げて体の前で構えると、少し身をかがめた状態で春臣の元まで駆け寄った。
「おい、大丈夫か」
「ヘタクソで助かった。…っいてぇ」
右頬を押さえる春臣の手は真っ赤に染まり、今も尚ドクドクと赤い血が指の間から溢れ出ている。
見せてみろ、と尾形が春臣の手を退けると、どうやら弾丸が頬を抉ったようだった。
顔面への被弾となれば、例え即死を免れても致命傷になりかねないと考えていた尾形は内心胸を撫で下ろす。
だが出血もそう少なくない為、すぐさま背嚢から布を取り出し傷に当てる。
「痛い…」
「我慢しろ。…で、そのヘタクソは仕留めたのか」
「一発で仕留めてやったわ…、ッう」
あの状態で撃ってしっかり仕留めるのだから、本当大したものだと舌を巻く。
そんな尾形に、春臣は痛みに顔を歪めながら笑いかける。
「勢いよくすっ飛んで来たけど、心配してくれたのか尾形」
「…頭を撃たれたと思った」
「ああ…」
頷いて春臣は尾形が来た方向へと視線を向ける。
確かにあの位置から見たのであれば、頭か顔面辺りに被弾したように見えたことだろう。
「…思ったより深く抉れているな…、これは傷が残るぞ」
「傷一つくらいどうってことない。…だからそんな顔するなよ」
「……どんな顔だ」
「なんかつらそうな顔してる」
春臣の言っている事はけして冗談ではなく、見たままの事実である。
本人にその自覚はないらしいが、眉を寄せ、どこか悲しげな顔で頬の傷を押さえている尾形に春臣は苦笑する。
弟である勇作を撃っても顔色一つ変えず、後悔もなかったと言い放った男なのに。…まあ顔に出さないよう努めていただけで、少しくらい思うところはあったと春臣は考えているが。
「……何笑ってやがる」
「なんでもない…ッ痛……!」
顔の傷を残念がる様子の尾形に、春臣は悪い気はしないどころか寧ろ嬉しくもあった。
「尾形、頭の後ろで布を縛れるか?」
「できるが…この位置だと片目が隠れるな」
「…利き目さえ見えれば最悪なんとかなるか」
「馬鹿言ってないでさっさと傷病の天幕に行くぞ」
傷に当てた布を後頭部へと回してギュッと縛ると、尾形は落ちていた軍帽を拾って砂を叩き落とし、春臣の頭に被せてやる。
どうやら付き添うつもりらしい。
「一人で行けるが」
「片目が見えん状態で果たして無事に天幕まで行けるかな」
「勝手に持ち場を離れたらお叱りを受けるぞ」
「…どうせもうすぐ落ち着くだろう」
「…そうかもな」
尾形と春臣の予想通り、それから暫くすると両軍共一時的に戦闘を止め小休止となった。
今回も数え切れぬ程の死傷者出ており、重体の者は野戦病院。比較的軽傷の者は傷病用に設けられた簡易天幕へと向かう。
所属部隊関係なく、怪我人でごった返しとなっているその天幕では見知った顔も度々見掛け、皆お前も生き残ったかと再会を喜び合ったりしている。
「、…白野上等兵殿?」
傷の手当は終わったものの、酷く熱を持って痛む右頬に春臣が意識を向けていると不意に声を掛けられた。
視線を向けるとまるで熊のような男…谷垣 源次郎
が驚いたような顔でこちらを見ていた。
「谷垣一等卒。お前も怪我かな?」
「いえっ俺ではなく岡田が怪我をしてその付き添いを…」
「そうか、岡田が。怪我はどうだ?」
「どうやら大した怪我ではないようで…あ、その、白野上等兵殿こそ顔を怪我されたのですか」
「見ての通りだ」
狙撃の邪魔になると、医者に無理言って目を塞がないよう包帯を巻いてもらった春臣だが、その巻き方により見た目はかなりの重症に見えてしまう。
恐らく谷垣の目にもそう見えたのだろう、酷く動揺しているようだ。
「酷い怪我なのですか」
「銃弾で抉れた」
「そう、ですか…残念でしたね、せっかく整った顔なのに…」
「谷垣一等卒もそれを言うのか」
くつくつと笑えば右頬の傷に響いて一瞬顔が引き攣る。
それにしても、会う者全員に顔の傷を残念がられるのはあまりにも面白い。治療に当たった医者でさえも「こんな綺麗な顔に傷が…」と嘆き、一生懸命治療にあたってくれた。傷の痛みがなければ笑い転げていたかもしれない。
女でもあるまいし、顔の傷一つくらいなんでもないと春臣は思うが、尾形を筆頭に皆そうは思わなかったらしい。
────…と、
「谷垣 源次郎一等卒」
「っ、お、尾形上等兵殿…!」
背後からの低い声にびくっと肩を震わせ、慌てて谷垣が振り返ると、そこには飯盒を二つ持った尾形が口角を上げて立っていた。
「お前も負傷したのか?ん?」
「いっいえ、その」
「岡田の付き添いだそうだ」
「岡田の?」
「大した怪我ではないそうだ」
春臣の言葉にふーん、と鼻を鳴らした尾形は谷垣の脇を通ると飯盒の一つを春臣へと手渡す。
「飯を持ってきた」
「悪いな」
「傷はどうだった」
「跡は残るだろうが…縫ってもらったからすぐにくっ付くさ」
傷の治りは早い方だからな、と言いつつ谷垣へ視線を向けると、尾形を前に未だおろおろ慌てていたので、笑いながら払うように手を振って下がって良い事を伝えてやる。
するとこれまた慌てて頭を下げ、足早に天幕を去って行った。
「あまり虐めてやるなよ」
「お前も笑ってるじゃねぇか」
「面白かったからな。お陰で頬が痛い」
谷垣はどこまでも真っ直ぐなその素直さ故に反応がいちいち面白く、特に苦手な尾形に絡まれている時の切迫した表情と言ったら。実に笑えるのだ。
「さて、食えるうちにさっさと飯にしよう」
「朗報だ。漬物の缶詰もあるぞ」
「それは飯が進むなぁ」
「あともう一つ。今度は悲報だ」
「なに?」
「小塚軍曹殿が戦死されたようだ」
「そうか、それは残念だ」
この手で殺せなくてとても残念だ、と鼻で笑う春臣に、尾形は心底可笑しそうに「ははあ」と吐息混じりの笑いを溢す。
そんなやや物騒な会話をしつつ傷病用天幕を後にした二人は、適当なところに腰を下ろすと飯盒を前にいただきますと綺麗に手を合わせた。
気のせいか、今日の飯はいつもよりずっと美味しかった。