無意識のうちにそんな言葉が溢れた。
春臣の視線の先では一人の男が次々にロシア兵をなぎ倒している。
撃たれようが突かれようがその足は一切止まることはなく、敵対する者を確実に仕留めて行く。
────不死身の杉元。
二〇三高地の戦いでその名は既に聞き知っていたが、鬼神の如き戦いぶりを実際に見るのは初めてだった。
曰く、どんな傷を負っても次の日には戦場を駆け回っているらしい。
そんな話を思い出しながら春臣は指先で右頬の傷を撫でる。
まだ痛みはあるものの、縫合したおかげで傷口自体はもうくっ付いている。
こんな傷ですら完全に塞がるまでは何日か要しているのに、不死身の杉元といったら。一体どんな身体の作りをしているのだろうか。
ガチャっとボルトを操作し、銃口を不死身の杉元へと向ける。
そしてその背中が動いた瞬間に引き金を引き、杉元が相対していた敵兵の頭を一人、二人と撃ち抜いていく。
すると一瞬、こちらを振り向く素振りを見せた杉元だったが、すぐにまた敵へ向き直ると高々と持ち上げた銃剣付きの小銃を敵の脳天目掛けて振り下ろすのだった。
⌘
「白野上等兵、傷はどうだ?」
「鶴見中尉殿。もうほぼ治っているかと」
「そうか。だが、その顔に跡が残るのは非常に残念だなあ」
そう言って鶴見中尉は高々と積まれた土嚢から視線を外し、姿勢よく立つ春臣へと手を伸ばす。
そして心底残念そうな顔で頬の傷を撫でる鶴見中尉に、春臣はニコリと笑ってみせる。
「ですが、男前に磨きがかかったでしょう?」
「フフフ違いない!そうは思わんか、野間一等卒」
「え?っ、はい」
「ああ!うっかりしていた。野間一等卒も十分男前だったな」
春臣と鶴見の背後にいた野間は急に話を振られて驚いたようだったが、すぐに我に返ると少し言葉に詰まりながらも頭を下げる。
旅順で負ったであろう野間の傷跡は春臣のものよりも随分と痛々しいが、不思議とその顔にはよく馴染んでいた。
鶴見中尉は野間から視線を外し、周りに控えている兵たちをぐるりと見回す。
「二〇三高地の戦いを生き残り、そしてこの奉天にも身を投じるお前たちは誰がなんと言おうが日本の誇りだ」
この戦いに勝ち、皆、必ず生きて日本へ帰るぞ。
そう力強く語ってみせる鶴見中尉に、部下たちが口角を上げて頷くのを春臣は笑顔のまま眺めていた。
相変わらず士気を上げるのがお上手だ。皆の顔は随分と明るい。
ああ、だが一人だけ表情を変えない男がいた。
言わずもがな尾形だが。
「よし。では砲台の点検、並びに引き続き敵の動きを見張れ」
命令を受け、皆はそれぞれの作業へと戻るが春臣は未だ鶴見中尉の傍に控えたままでいる。
一見は目の良い春臣が敵の動き報告しているようだが、その実は違っていた。
「素晴らしい演説でした」
「ありがとう。…さて、そろそろ仕掛けが動く頃だ」
「…きっと大激怒ですよ月島軍曹」
「それが良いんじゃないか」
「……私にはわかりかねます」
盛大で長い溜息を吐き出したいところだったが、さすがに上官の前でそれは出来ない為、なんとか内心でだけに留める。
それにしてもなんと手の込んだ芝居か。一体いつから計画していたのか。
知れば知る程恐ろしくなる。
そして自分自身の事に当て嵌め、もしやあの人攫いたちも実は鶴見中尉によって仕組まれたものだったのではと───…考え至るが、仮にそれが真実だろうと春臣のやるべき事は変わらない。
それより今は…と、ざっざと大股で砂を蹴る音と、聞いた事のない強い怒りの声に身を引き締める。
「鶴見中尉ッ…!よくもあんな嘘を…!!」
春臣が振り返ると、顬に筋を浮かべた月島軍曹が拳を振り上げているところだった。
そして怒りが込められた重い拳が鶴見中尉の頬を捉えると、その体を後方へと吹っ飛ばした。
「何をするのです月島軍曹…!」
自分でも白々しいと思うが、そういう脚本なのだ。
春臣は慌てて鶴見中尉を庇うように立ちはだかるが、そんなの関係なしに殴り掛かろうとする月島軍曹を春臣は本気で止める羽目になった。
この人片腕を負傷しているとは思えない程強いのだが。
「止めろ止めろ!」
「やめてください月島軍曹!」
唖然としていたところを玉井伍長の声で我に返り、慌てて止めに入ろうとする前山や野間、谷垣たちだったが、怒りに呑まれた月島軍曹それら全てを振り払う。
そして土嚢に凭れ掛かった鶴見中尉の襟首を掴み上げ、訴えるように怒鳴る。
「なんで!あの子の骨がおやじの家の下から見付かるんだ…ッ!」
「…」
「おやじがあの子を…ッ?あの髪の毛は埋まっていたものか!?九年間ずっと騙していたのか!」
「月島、落ち着け」
何とか宥めようとする玉井伍長だが、月島軍曹の凄まじい剣幕に、皆はもう事の成り行きを黙って見守る他なかった。
「お前が死刑を受け入れていたからだ」
怒りをぶつけられているというのに。
どこまでも穏やかな声でそう言った鶴見中尉は、心配そうに見守っている部下たちへ目を向けると、「二人だけにしてくれ」と人払いを頼んだ。
この状況で本当に二人だけにして良いのかと皆が迷っている中、玉井伍長と目が合った春臣は無言で頷いてみせ、率先して鶴見中尉たちから距離をとる。
それを見て漸く皆も動き出し、鶴見中尉と月島軍曹を残しその場を離れた。
「大立ち回りだったな」
「俺を巻き込まないで欲しい。切実に」
鼻で笑ってくる尾形に春臣は今度こそ盛大な溜息を吐き出す。
部下が上官を殴るという暴挙にも全く動じることが無かった尾形だ、きっとこの芝居の事は知っていたのだろう。
「それにしても、さすがはお利口さん。鶴見中尉殿の信頼が厚いですなぁ。お前は何にでも関わっている」
「…」
いつもとは違う、どこか棘のあるような言葉に春臣は一度動きを止め、ゆっくりと尾形に視線を向ける。
周りの者たちとは距離がある為、会話を聞かれる心配はない。
「……何が言いたい」
「この状況同様、俺に近付いたのも鶴見中尉の仕掛けのうちか」
「、は…」
それは違うとすぐに言い返そうとしたのに、自嘲的に笑う尾形に思わず言葉に詰まってしまった。
「妾の子で、境遇がここまで似るなんてあまりにも出来すぎだろう」
「…尾形、」
「あの日…勇作殿を殺しても俺は何も感じなかった。だがお前が傷を負った時は、らしくも無く狼狽えた。…まんまとお前に誑し込まれたわけだ」
「違う、尾形」
始まりは、確かに鶴見中尉の命令だったかもしれない。
けれどこれまで春臣が尾形に抱いて来た感情は、掛けてきた言葉は、全てが嘘なわけではない。
友のように過ごした日々は、けして嘘ではないのだ。
「俺、は……」
そう何かを言い掛けた時だった。
風を切る嫌な音が突如耳に届いた。これは───…敵の砲弾だ。
「チッ…!」
「っ尾形…!早く塹壕に…!」
次々に着弾する敵の砲弾に大地は揺れ、鉛の破片や土が舞い上がる。
慌てて塹壕に飛び込む兵たちに春臣も尾形を伴って続こうとするが、ふと後方にいる鶴見中尉と月島軍曹を思い出し足を止めた───次の瞬間、砲弾の一つが堡塁内を捉えた。
「ッ……」
本来なら上官を守る為に動くべきだった。
しかし咄嗟に動いた春臣の体は尾形を庇うように覆いかぶさると、背中を叩く砲弾の衝撃波に押され、前のめりになって塹壕内へと落下した。
辺りは一瞬にして騒然となる。
「っ、尾形上等兵!白野上等兵!ご無事ですか!?」
「怪我は…っ!?」
「ああ…俺は、問題ない」
「……俺も大丈夫だ。それより、鶴見中尉たちを…」
「っわかりました!」
春臣の言葉に頷いた一等卒たちは慌てたように塹壕から飛び出して行く。
身近で受けた砲弾が爆ぜる音により、キーンという耳鳴りのような症状が出ているが、鼓膜は無事らしくなんとか会話は聞き取れた。
そうして転がり落ちた体勢のまま周りの音に耳を傾けていると、やれ傷を押さえろ、担架を持って来いなどの怒号が飛び交っていた。
自分たちの更に後方にいたのだから、当然鶴見中尉たちは無傷では済まなかったのだろう。
地に伏したまま春臣がそんなことを考えていると、地に手を付いて上体を起こした尾形がはっと息を呑んだのが聞こえた。
濡れた感覚。尾形が手のひらを見れば、それは赤く染っていた。
「、春臣お前…何が大丈夫だ、出血してるじゃねえか」
「はー…マジか……通りで背中が痛いわけだ」
爆風を受けた時からズキズキと痛み出し、今では熱を帯びている春臣の背は衝撃に叩かれた際に裂傷したらしい。
「馬鹿が…何故俺なんぞを庇った」
そう言っていつぞやのように背嚢から布を出した尾形が傷口を強く押さえてくれる。
そして近くにいた一等卒にこっちにも担架を持って来るよう伝えていた。
「…おい、これも…仕掛けのうちだと思うか」
「……」
「言っておくが、絶対違うからな。…俺は、皆が思っている程…“お利口さん”じゃないんだ」
間に合う間に合わないにしろ、あの時鶴見中尉の元へ走る事も出来た。お利口な忠犬なら迷わずそうした筈だ。
だが春臣が選んだのは尾形だった。
「はは、そもそも…誑し込まれたのは、俺の方なんだよなあ」
「……は?」
それも、どうしようもないくらいには誑し込まれている。
放っておけば手の届かぬ遠くへと行ってしまいそうな、どこか危うい尾形から、春臣はいつの間にか目が離せなくなっていた。
訝しげに眉を寄せる尾形に春臣は苦笑し、そう言えば、とあることを思い出す。
「これで、あの時の貸しは返せたよな」
「…いつの話だ」
「忘れたのならそれで良い」
どうせ忘れていない癖にと笑いつつ、熱を持った背がズキズキと痛むのを春臣ははあ、と息を吐いて紛らわせる。
そうしていると慌ただしく砂を蹴る音が近付いてきて、恐らく担架が到着しただろう事を悟る。
「尾形上等兵殿!白野上等兵殿の傷は…!」
「背中を裂傷。出血が多い。野戦病院へ運ぶぞ」
「はい!」
春臣の背中の傷を押さえるよう、尾形は防寒着の上から布を何重かにして縛り、ゆっくりと春臣の体を担架へと乗せる。
それは気遣いを感じる動きであったが、今の状態では僅かな揺れですら傷に響いてしまう。
そもそも傷を認識した途端に痛みが増すこの現象は一体なんなのだろうか。そんなことを考えつつ、苦悶の表情を浮かべる春臣の額に尾形のひんやりとした手があてられる。
「こんなとこで死んでくれるなよ」
「…死ぬような傷なのか」
「軽傷でも運が悪けりゃ死ぬだろ」
「そうか。なら…俺は運が良いから大丈夫だな」
「そいつは良かった」
フンと鼻で笑う尾形だが、次の瞬間には表情を引き締め、不安げな顔の一等卒たちに一つ頷く。
そして皆で一斉に担架を持ち上げると、先に運ばれた鶴見中尉と月島軍曹を追うよう野戦病院へ向けて走り出す。
出血が多かったせいか、そこで春臣の意識は一旦途切れ、次に目を覚ました時は野戦病院だった。
後に尾形から聞いた話によれば、鶴見中尉、月島軍曹、そして春臣を野戦病院へと運ぶ道中、凍った川を渡る際に使用する橇が一台足りなかったらしい。
階級的に鶴見中尉、月島軍曹が優先され、春臣が使える橇はないはずだった。
────が、春臣たちより先に負傷者を橇に乗せて運ぼうとしていた者がそれを譲ってくれたそうだ。
助かる奴を優先して欲しい、と。
「本当に運が良いんだな、お前は」
あの状況で橇を譲られるなんてそうある話ではない。強運だ、と尾形は言ったが、それは到底運が良いだけで済む話ではない。
橇を譲ってくれた者を最早知る術はないが、一体どれ程高潔な人間だったのだろうか。
もしまみえる機会があればその時は礼を。
春臣はけしてこの事を忘れないよう胸に深く刻み込んだ。