数日後、痛みこそまだあるものの問題なく歩けるまでに回復した春臣は尾形と共に堡塁に並び立っていた。
両軍一進一退で膠着状態となった戦場は今、束の間の静けさに包まれている。
視線の先には数多の亡骸たちが未だに転がっているが、奉天を制圧しない限りは弔ってやれないのだ。
「春臣」
「?」
不意に名を呼ばれ、視線を戦場から自身の隣へと移す。
だが尾形の目は足元に向けられており、二人の視線が交わる事はなかった。
「あれが…、お前の行動が鶴見中尉の仕掛けでなかったのなら、尚更疑問だ」
「…」
「目的もなしに何故庇った。俺なんぞを庇ってお前が死んでどうする?」
「…別にどうもしない。死んだらそれで終わりなだけだ」
「…お前の身の上話が嘘でないのなら、…」
「当然嘘じゃない」
「…では父君のことはどうするつもりだった」
昇進して父を見返すのではなかったのか。
そう続ける尾形に少し思案してみせる春臣だが、すぐに肩を竦め首を振った。
「結果的に生きているし、問題は無い」
「死んでもおかしくない状況だった」
「でも死んでいない」
「……ああ言えばこう言いやがって」
「事実だろ」
ここで漸く尾形と目が合う。
疑惑、困惑、そして苛立ちを孕んだ目だ。
「…確かに父上を見返してはやりたいさ。その為に俺は軍にいる」
「…」
「だが、天秤にかけるまでもなかったんだよ」
「?」
「…尾形と父上。比べるまでもない」
正直あの時は咄嗟の事で、そこに思い至る前に体が動いていた。
だが、例え考える時間があったとしても春臣は尾形を庇う選択をした筈だ。
事実、担架で運ばれる最中、父上を見返すという目的を果たせずにこのまま死んだとしても…尾形の命を救えたのならそれで良いと思った。
「どうやらお前の為なら俺は死ねるらしい」
「……鶴見中尉だけでなく、お前も砲弾で頭をやられたか?」
「残念。背中だけだ」
「…」
「言っただろ、誑し込まれたのは俺の方だって」
「、……」
誑し込んだ覚えなどない、そんな顔でより困惑の色を深める尾形に、春臣はそうだな、と静かに呟く。
何をもってして此処まで尾形に惹かれるのか自分でもわからない。 同情?境遇が似ているから?共に得手が狙撃だから?親近感?
思いつく限りを並べて考えてみるがどれもこれもしっくり来ない。
ああ、でも…言うなればこれは、
「…恋、か?」
「あ?」
「え?なに俺、尾形に恋してるの?」
「知らん。俺に聞くな」
そうは言われても生憎恋はされども恋した事など一度もない為、この感情を他に何と呼んで良いのか春臣は知らないのだ。
「まあ例え話だけど」
「それにしては俺を選ぶあたり、随分趣味が悪い」
「そうかな」
言って春臣がフフと笑えば、尾形は長く深い溜息を吐きながらも少しだけ口角を上げると、次の瞬間にはニコと満面の笑みを浮かべた。
「せっかくだがお断りだ」
「…これが失恋かあ」
「知れて良かったな」
「ハハッ確かに!」
軍帽を撫で付け、今度は嘲るように笑う尾形に、春臣は背中の傷が痛むのも気にせず腹を抱えて笑い出す。
こうして尾形と肩を並べて笑い合うことなど、もう出来ないかと思っていた。
だからと言って許されたわけではなく、尾形にとっての春臣は未だ信用するに値しない人間だろう。
やはりお前は鶴見中尉の犬だと、その小銃でいつ頭を撃ち抜かれてもおかしくはない。
けれど、尾形の手で最期を迎えられるのならそれも悪くはない。と、そんなことを思うなんて…────尾形の言うように砲弾を受けた際、本当に頭を打っていたのかもしれない。
「…なんか騒がしくなって来た」
「そろそろ動く頃合かもしれんな」
先程までの静けさとは打って代わり、慌ただしくざわつき出した辺りの様子から、間もなく戦いが再開されるだろうことがわかる。
尾形は片時も手放すことのない自身の三十年式歩兵銃をチラと見やり、続いて春臣に目を向ける。
「お前は天幕に戻って寝ていろ」
「…いや、俺も出る。そのつもりでこいつを持ち歩いてるんだし」
そう言って肩に提げていた小銃をするりと撫でる。
ここまで歩き回れているのに背中の傷があるので戦場には出ませんなんて、そんな虫のいい話はない。
春臣とて軍人の端くれだ。
戦場にあって動ける限りは引き金を引き続けるつもりだ。
「…だったらこれ以上負傷しないよう気を付けるんだな」
こっちは気が気じゃねぇんだ、と呟きながら踵を返す尾形に、春臣は一瞬呆気に取られるもすぐに笑みを浮かべその背を追った。
「はい、気を付けます、尾形上等兵殿」
────それから程なくして、日本軍は多大なる犠牲を出しつつも奉天の制圧に成功する。
そして続く日本海海戦ではロシア軍の主力艦船であるバルチック艦隊を壊滅させ、またもや日本有利での勝利を重ねるが────…日本は既に国家予算三十年分に相当する費用が掛かっていた為、戦争継続は困難な状況であった。
そこでアメリカの仲介の下、日本とロシアはポーツマス条約を結び、日本に有利な内容で講和に至った。
1905年 9月 日露戦争 終戦。