勝利はしたものの、実の所日本軍の被害はロシア軍よりも多く、壊滅寸前まで兵を失った師団が多々あった。
それは第七師団も同様で、戦死した多くの仲間たちは満州の冷たい土の下に埋まっている。
残念だが、彼らを連れて帰れはしないのだ。
皆は後ろ髪を引かれる想いで戦友達の亡骸を満州に残し、北海道へと戻らねばならなかった。
「満州が日本である限り、戦友たちの骨は日本の土に眠っているのだ」
帰還した第七師団 歩兵第27聯隊の者たちに鶴見中尉が掛けた言葉は、文字通り心の拠り所となった。
部下を戦友と呼び、共に戦場を駆け、帰還して尚死者たちを想う鶴見中尉に皆は信頼を寄せ、そしてそれは最早崇拝にも近いものと化していた。
そうなった理由は他にもあり、それは終戦から約一年後に起きた第七師団長 花沢 幸次郎による自刃がきっかけだった。
本来ならばその戦いぶりを賞賛され、勲章や報奨金を貰ってもおかしくはなかった第七師団だが、帰還後中央から受けた仕打ちは酷いものだった。
それこそ戦争の早期攻略を急かしたのは中央だというのに、多数の犠牲者を出した責任は作戦の参謀長であった第七師団長 花沢 幸次郎中佐にあると言うのだ。
戦争の犠牲や責任を全て第七師団へと擦り付けてきたわけだ。
そして花沢 幸次郎は全ての責任を負うように、自身の屋敷で一人腹を切った。
自刃により、この問題はそれで終わるはずだった。
だが中央は花沢 幸次郎の自刃は部下の落ち度だと更に責め立て、勲章や報奨金を与えもせず、命懸けで戦った第七師団を冷遇したのだ。
当然第七師団からは中央への不満が溢れ、溜まりに溜まったそれが兵たちに強い結束を生ませ、結果鶴見中尉の元へ集ったのだった。
────しかし春臣からすれば、それらはただの茶番で、全て鶴見中尉の手のひらの上の事象でしかない。
「花沢閣下は自刃なされる」
戦後、登別で療養をしていた春臣を兵営へ呼び戻した鶴見中尉は、死神のように静かにそう告げた。
「多くの犠牲者を出した自責の念で、だ」
「……では、その役を私が?」
療養していたところをわざわざ呼び出したのだ、つまりそういう事なのだろうと春臣は考える。
だが、鶴見中尉は「いいや」と首を横に振った。
「それは尾形 百之助が引き受けてくれた」
「…尾形がですか?」
「フフ。いやぁ実に良い傾向だと思わんかね?」
「どう、でしょうか…」
楽しそうに笑う死神を前に、春臣は珍しく言葉を詰まらせる。
「白野上等兵。お前がやることは一つだ。わかるな?」
「…はい」
「良き戦友として、しっかり支えてあげなさい」
「はい」
「よしよーし。下がって良いぞ。詳しくは追って伝える」
お利口に返事が出来た褒美とばかりに肩や頭を何度か撫で回し、そして春臣が部屋から退出していくまで鶴見中尉は終始ご機嫌に笑っていた。
鶴見中尉の言う春臣が“やる事”とは、以前に命じられた尾形誑し込み作戦の事だろう。
これから父親殺しをするであろう尾形のよすがにでもなれと言うのか。
まあそれは言われずともそうするつもりだが、けして鶴見中尉の命令だからではない。
自分自身の意思でそうするのだ。
奉天会戦で砲撃を受けたあの日、鶴見中尉の“仕掛け”が原因で尾形との間には大きな溝が出来てしまった────と、春臣自身は考えていた。
肩を並べて話した後も、これからどうやってこの溝を埋めていこうかと思案していたのだが、当の尾形はまるで溝など存在していないような、今まで通りの振る舞いをするものだから…春臣は割と結構困惑した。
しかも思いの外、尾形は胸の内を春臣へとよく吐露したのだ。
…他に吐き出せる相手がいないからかもしれないが。
「勇作殿がいなくなれば、唯一生き残った息子として俺も父上から愛されるかもしれない」
そう春臣に語った尾形の姿は、どこか期待を膨らませる幼子の様で、同時にとても危うい存在に見えた。
そして…────現実は尾形の言うようにはならなかった。
花沢 幸次郎は勇作亡き後、日露戦争から唯一生きて帰った息子である尾形に見向きもしなかったのだ。
「春臣、やはり俺では駄目なのか。俺が、おかしいから…何かが欠けているから、」
旅順で捕虜を引き摺り歩いたあの日の答え合わせをするように、そうぽつりと呟いた尾形に、春臣はけしてそんな事は無いと言った。
少なくとも自分と尾形は同じ種類の人間だ。
「尾形は俺をどう思う?」
「どうとは」
「俺もやっぱりおかしい人間なのか?何かが欠けている?」
「……そんなことは、」
「もし尾形の目に…俺が少しでもまともに見えているなら、お前だって同じはずだ」
「…」
将校と妾の間に生まれた俺たちに、人間としての差など1ミリ足りともないのだ。
まるで言い聞かせるような春臣の言葉に、尾形は何か言い掛けるも…開いた口から言葉が出て来ることはなかった。
⌘
「なあ、尾形」
「なんだ」
「…やっぱり花沢閣下のことは俺に任せろよ」
俺がちゃんと殺しといてやるから。
月明かりだけが頼りの薄暗い路地裏で春臣は静かにそう告げる。
その言葉に足を止めた尾形は目深に被った外套を指の背で持ち上げ、その黒い瞳で春臣をじっと見つめるとゆっくり首を横に振った。
「お前はやらんでいい。…父上とは最期に色々話がしたいし丁度良いんだ」
「…それが鶴見中尉の思惑通りでも?」
「…」
「…お前、満鉄のことを知っているか」
日露戦争後、ポーツマス条約によってロシアから得た満州の鉄道権益。
その本質は経営の仮面を被った東北アジアへの日本領土の拡大である。
この計画自体は日露戦争の途中で既に始まっていたものだが、陸軍内部にはそれに激しく反対する者がいた。
それが第七師団長 花沢 幸次郎だった。
邪魔者である花沢 幸次郎が消えればこの計画は一気に突き進むことだろう。
そしてそれを強く望んでいるのが鶴見中尉なのだ。
父親に復讐をさせてやる、一人残された花沢閣下の令息であるお前を皆が担ぎ上げるだろう。
そんなていの良い事を言って尾形に父親殺しを引き受けさせたのだろう。
尾形はじっと春臣を見つめて暫く黙り込んでいたが、やっと一つだけ頷いた。
「そう、か。…尾形は、それで良いんだな?」
「…ああ」
だとするならもう言える事はない。
春臣は尾形が選んだ道を尊重する事にした。
外套を深く被り直し、足早に、だが音を立てぬよう二人は路地裏を進んで花沢邸を目指す。
「……立派な御屋敷だこと」
「…」
見えてきたそれは遠くから見ても随分と立派な屋敷だった。さすがは第七師団長といったところか。
そんな立派な屋敷だが、今夜は皆出払っているらしく花沢 幸次郎しか居らぬそうだ。
そんな事まで調べ尽くしている鶴見中尉が今更ながら恐ろしい。
「…予定通り見張りを頼む」
「わかった」
屋敷の裏手へ周った尾形と春臣は無言で頷き合い、それぞれ行動を開始する。
尾形は音も立てず猫のようにするりと屋敷の中へ、春臣は庭にある立派な松の木の影に身を潜める。
本来なら木にでも登って見張るところだが、生憎と今日は満月だった。月明かりで逆に目立ってしまうだろう事から、春臣は目に頼らず、地上から耳を澄ませて辺りを見張る。
「…」
冷たく澄んだ空気の中、空に浮かんだ満月はとても大きく綺麗だった。
春臣は両手を重ね、冷えた指先を温める。
そうして暫くすると静寂の中から布の摺れる音とくぐもった声が微かに聞こえた。
事が始まり、きっと尾形が父と最期の話をしているのだろう。
会話の内容までは聞き取れないが、春臣は目を伏せ、聞こえてくる音に只々耳を傾けた。
────襖が開き、一人分の足音が庭に降り立つ。
ゆっくりと目を開けた春臣が松の木の影から庭の様子を伺うと、外套を目深に被った尾形が静かに満月を眺めていた。
「話せたか」
「…ああ」
そう言って尾形に近付くと、風に乗って鉄錆の臭いが鼻を掠めた。
チラリと開いた襖の奥に目を向ければ、白装束を赤く染めた男が俯いて座り込んでいる。…上手く細工したものだ。あれなら自ら腹を切ったようにしか見えないだろう。
あとはさっさと立ち去るのみだ。
春臣が踵を返そうとすると、それをまるで引き止めるように尾形が声を掛けた。
「…この前のお前の話だが、」
「?」
「どんなに境遇が似ていても、俺とお前は違うようだ」
「…何故?」
「何かが欠けた人間、出来損ないの倅。…父上に呪われた俺は、やはりお前とは違う」
口角を上げ嘲るように笑って言う尾形に春臣は眉根を寄せる。
その言葉は、きっとそっくりそのまま父親から言われたものなのだろう。
…やはり自分が殺すべきだった。むしろこの手で殺してやりたかった。
よくもそんな事を、血を分けた息子に言えたものだ。
冷えた手のひらを強く握り、春臣は尾形に向き直る。
「……尾形、」
「…」
「…百之助。なら、俺も一緒に呪われてやる」
「……は、…?」
「半分寄越せよその呪い」
外套の隙間から手を差し込み、血に濡れた尾形と頬を拭ってやる。
すると驚いたように尾形の黒目がスゥと細まり、次いで右左へと視線が泳ぐ。
「…、なぜ」
「言っただろ。俺とお前に人間としての差なんてないって」
「だからそれは…」
「お前が。何かが欠けていて、出来損いなのだと言うなら、俺もそうなんだって話さ」
一見はまともに見えていたとしても、実際は欠けた人間で出来損ないだった。それだけの事だ。
ただ花沢 幸次郎からの呪いだけは別だから、それを尾形が半分寄越せば良い。
「それに、例え俺とお前で欠けているものが違っていたとしても。それなら互いに補い合えば良いし」
「……」
「自分は周りの人間とは違う、というのは…まあ尾形にとって嫌なのかもしれないが。少なくとも俺とは同じなんだぜ」
「…、」
「人間なんてこの世に山ほどいるんだ。何かが欠けた人間が二人くらい居たって別に良いだろ」
それでは駄目か?と首を少しだけ傾げて春臣が問う。
向かい合う二人と骸以外がいない夜の屋敷は、口を噤んでしまえば恐ろしい程に静かだ。
また、言うなれば此処は殺人現場である為、本来ならいつまでもこうしては居られないのだが…今のところは人の気配などもないし大丈夫か。と春臣は尾形の返答を気長に待つ。
「…、」
そうして長い事俯き、黙り込んでいた尾形はゆっくりとした動作で自身の頬に当てられた春臣の手をするりと取ると、それを力なく握った。
「それで良い。…お前と同じなら、良い」
それは小さな声であったが春臣の耳にはしっかりと届いた。
口角を上げた春臣は握られた手を強く握り返すと、そのまま腕を引いて尾形を連れ立ち走り出す。
こんな場所はさっさと立ち去って、捨てて、忘れてしまえばいい。
「……誑しめ」
走りながら不意にぼそりと呟かれた尾形の言葉に、春臣は足を止めぬままくつくつと笑う。
「俺だって百之助に誑し込まれてるんだよなあ」
「…そうかよ」
「そうだよ。…という事だ、俺という先約があるんだから精々鶴見中尉には誑し込まれるなよ」
「……俺もお前と同じように。目的を果たす為に鶴見中尉を利用してやるさ」
「良いね、それ。…ちなみに百之助の目的ってなに?」
「…そのうち話す」
「へえ、それは楽しみだ」
そう言って笑った春臣は走る速度を徐々に落としていき、暗い路地裏でゆっくりと足を止めると繋いでいた尾形の手をするりと放す。
予定では事が済んだ後は鶴見中尉と合流する手筈になっており、此処からその地点までもうすぐそこなのだ。
恐らくこの後尾形は鶴見中尉から父親殺しの労いや賛辞の言葉を受ける。
尾形の心を掌握し思いのままに動かす為に、鶴見中尉はどこまでも甘く囁く筈だ。
春臣に尾形を誑し込むよう命じている一方で、自分も誑しの手は一切抜かない。
日本中を探しても鶴見中尉程、人の心を掌握するに長けた人物はいないのではなかろうか。…本当にどこまで恐ろしい人なんだ。
「行こう、尾形」
少し乱れた呼吸をしっかりと整え、意を決した二人は暗闇の中にぽつりと佇む一台の馬車へと足並みを揃え歩を進めた────。