一年生 夏 に


夢を見まして



 地獄の夏直前合宿五日目。荒療治で体力が付いてきたのか、夜練のベーランで地面に倒れていた一年生は少し時間が経てば復活した。沢村くんと降谷くんなんかは御幸くんに投げ込みに付き合うようせがんでいるのが見える。……て、あれ。この展開は……。

「とりあえず、風呂に入ってから俺の部屋に来い」

 そう言って沢村くん達と別れる御幸くんに下から声をかけた。

「御幸一也殿! 私めもお部屋にお邪魔したく存じます!」
「…いや、お前出禁食らってんだろ? 俺の部屋には先輩達も居るんだぜ? …ていうか、なんで俺の部屋に倉持が居るって知ってんだよ、お前?」

 どうやら私が倉持先輩目当てでせがんでいることはバレバレらしい。

「お、女のカンてす!」
「ふーん。とにかく、ダメ!」
「…!」

 取り付く島もない。私は肩を落とすしかなかった。

「もぉーーーーっ!」

 せっかくの合宿に出禁を食らってしまったことに対する後悔や不満は夜空に吐き出しておいた。



 早いもので、合宿は今日で七日目になる日曜日。鬼畜スケジュールの最後の関門である練習試合が週末二日間に組まれていた。昨日は大阪桐生、今日は稲実と修北とのダブルヘッダー。
 そして相手校の選手が到着したところでようやく私は思い出す。今の今まで忘れていたのだ。この日、丹波先輩はデッドボールを食らって顎を骨折してしまうことを。

「どうしよう…」

 代打を……いや、マネージャーの分際で口出しすることではない。試合に出てしまえば打席に立つことを止めるなんて私には不可能に近い。なら、試合のレギュラーから外してもらうしかない。

「駄目だ」
「どうしてですか!?」

 丹波先輩をスタメンから外すようダメ元で監督に直訴すれば、案の定断られた。しかし、もうあとは無い。ここで引き下がるわけにはいかないのだ。

「お前が口を出していいことではないからだ。決めるのは監督である俺と、選手達自信だ。弁えろ」
「っ…分かってます。でもっ…!」
「下がれ。試合の邪魔だ」

 そう言いきられてしまえば私に発言権は無かった。ノリ先輩が稲実相手に投げぬく姿勢を貫いている最中も、私はずっと悩みまくっていた。そうしている間にその時がきてしまう。打席に立った丹波先輩はやる気に満ちていて、萎縮しているのは相手投手の方。そう、だからこそ起こり得てしまう事故なのだ。

「だめっ…!」
「……!」

 その瞬間、誰もが息を呑んだ。そして片岡監督は誰よりも早く丹波先輩に駆け寄っていく。私は呆然と立ち尽くすしか出来なかった。



 失敗した。もっと上手くやれたはずだった。私が恋路に浮かれていたせいで、先のことなんかちっとも考えていなかった。変えたいと思ったのは私自身なのに。クリス先輩の怪我に間に合わなかったんだから、私に出来る不幸の回避はしたかった。丹波先輩が怪我をしなかったら、もしかしたら今年このメンバーで甲子園に行けていたかもしれないのに。ううん、まだその未来はきていないのだから、マネージャーである私が諦めては駄目だよね。

「昨年はクリスで今年は丹波か……」

 そう誰かが零した。そういえば来年は小野先輩のファールチップによる指の骨折だったな。その時は誰かが「青道はこの時期呪われてんのか」なんて言ったっけ。本当にそうだ。青道は呪われているかもしれない。大会中には亮さんが足をぶつけて怪我するし、秋大では御幸くんが……えっと、脇腹の、肉離れだっけ? 確か骨は折れてなかったはずだけど、なんかすごく痛そうだったもんなあ。
 一年の新米マネージャーに変えられることなんて無いのかもしれない。私にそんな力は無いのかもしれない。でも、それならどうしてこの記憶があるのが私だったのか。そこには何か、私でなければならない理由があるはずだと思った。あってほしいから、そう思いたかった。決定された未来を変えてやりたかった。私の全てをもってして。私は此処に居るぞと、大きな声で叫んでやりたいのだ。結局、誰かの為なんかではなく、私は本来ただのエゴイストなのだ。そして私はそのことを悪びれはしない。
 どうすれば未来を変えられるか考えた。ただ馬鹿正直に全てを打ち開ければ、私は変な目で見られるか最悪の場合怪しい研究所送りになるかもしれない。それは避けたい。でもそれとなく言ったところで信念をもって野球に向き合っている人達の意志を変えられる気はしない。考えた末、私は正夢を日常的に見るのだと周りに思わせてみることにした。まずは近い未来から周りに伝えていこう。


 休み時間にて。

「昨夜視た夢でね、沢村くんは全教科ギリギリ赤点回避してたよ。私の夢って正夢になるんだよねぇ。勉強してないでしょ? 大丈夫? ちなみに降谷くんは補講受けてたけど」
「赤点? 何の話だ?」
「え?」

 これは予想外の返答がやってきた。……おいおい、この男大丈夫か? テストのことなんか頭に全く無いじゃん。

「沢村くん…もうすぐ学期末テストだけど、ほんとに大丈夫?」
「な、何!? テ、テストだとぅ!?」

 授業中ほとんどの教科で寝てばかりの沢村くんが大丈夫なはずが無い。取り乱した様子で金丸くんの元へ走って行き、「金丸! 金丸! テストがあるって何で教えてくれなかったんだ!」ってやつあたりして「なんで知らねーんだよお前!」って逆ギレされている。

「苗字! 勉強教えてくれ!」

 金丸くんと一通り話を付けてきたらしい沢村くんが私の席へ来て頼み込んできた。

「…金丸くんは?」
「金丸に頼んだら、苗字と一緒ならいいって」

 あいつ、私を巻き込んだな。まあ勉強するのも人に教えるのも嫌いじゃないからいいけど。でも文系科目は私が教えて欲しいくらいなんだよなあ。

「いいけど、私、文系はからっきしだからそっちは金丸くんに教えてもらってね」
「お、おう! 助かる!」
「あと、どうせなら降谷くんも───」

 金丸くんも一緒に勉強会の子細を話し合いながら頭の隅で考える。文系得意な人は誰だろうなあ。先輩達は割と文系多かった記憶だけど……ん? 倉持先輩の得意科目、現国じゃなかった? え、え、良いこと思い付いた! 倉持先輩に教えて貰おう!

「沢村くん! ちょっと協力して!」
「え? お、おう?」
「(なんかめんどうなことになりそうな予感がすんぜ…)」

 金丸くんはこの時点から既にそれを予知していたと後に語った。


 放課後私はルンルン気分でスキップしながら部活へ行き、部活終わりに倉持先輩に頭を下げた。

「倉持先輩、現国教えてください!」
「は?」
「倉持先輩のお力が必要なんです!」
「…金丸」

 土下座する勢いの私に引き気味の倉持先輩はそばに居た金丸くんに説明を求めた。それに答えて私と沢村くんの学力状況を淡々と説明し始める金丸くん。その通じ合ってる感じ、まるでツゥカァだ。ちょっと妬ける。

「そーゆーわけなんで、俺が沢村の勉強みてる間、こいつが倉持先輩に勉強みてほしいみたいで…。もちろん都合が悪いなら断ってもらってかまいません」
「…つかお前、男子寮出禁だろ?」
「はっ…! そうだった…!」
「忘れてたのかよ…。まあ自業自得だな。諦めろ」

 夜這い事件のせいで私は男子寮出禁になっていたのだった。張本人の私はすっかり失念していたが、被害者である倉持先輩はしっかり覚えていた。金丸くんは私が欠けても特に困りはしないので早々に私を切り捨てる判断をしたらしく諦めるよう促してくる。が、それでは困るのは他でもない私である。諦めるわけにはいかない。

「っで、でも、もう反省して心を入れ替えましたし時効じゃないですかね? …ねっ!?」
「…チッ、分ーったよ。今日だけだぞ。着替えたら俺らの部屋集合な」
「…はっ、はい…」

 倉持先輩は舌打ちをしたものの、私に流し目と背を向けながら踵を返した。予想外のトントン拍子に反応が遅れてしまったが生返事をして、現実かどうかを確認する為に金丸くんの顔色を窺う。

「…まじかよ」

 金丸くんは苦笑いしていたが、その発言からしてどうやら了承のくだりは私だけに聴こえた幻聴の類ではなかったらしい。やった〜〜! なんだかんだ金丸くん様々だ。持つべきものは友達だねっ。

「やったーー! 金丸くん、ほらハイタッチハイタッチ!」
「お前なんか勘違いしてねぇよな? 勉強会だからな? 遊ぶんじゃなくて勉強、するんだからな?」
「もー、そんなの分かってるって任せて」


 ──二時間後。青心寮の五号室にて。

「お前、まじで分かんねぇのかよ」
「だからそう言ってるじゃないですか!」
「逆ギレかよ! もう教えてやんねーぞ」
「あああっ、すみません私が悪いですごめんなさい! お願いします。倉持先輩じゃないといやだー!」

 私の出来の悪さに匙を投げそうな倉持先輩に泣きながら縋り付く。すると沢村くん直伝の泣きっぷりに心打たれたのか、倉持先輩は一旦座り直してまた一から懇切丁寧に教えてくれた。

「……いいか、ここはな───」
「やだなにこの人イケメン過ぎない?」
「おい、心の声がダダ漏れてんぞ。集中しねぇならまじでもうやめちまうからな」
「はい! 集中するんで、まずそのイケメンオーラを仕舞ってもらっていいですか?」
「おい喧嘩売ってんのか? あ゛ん?」
「きゃあっ、キレた倉持先輩もカッコイイのでそれはそれで集中出来ませんけど鬼教師って感じでイイです素敵です! よし、じゃあ、そのスパルタモードでお願いします!」
「ふざけんなこの…!」
「(あーー、とうとう手が出ちまったか倉持先輩…。苗字も苗字で本気なのかふざけてんのかあられもない声出してるし…。なんだかんだ仲良さそうだし、あの二人もしかしたら…)…って、何隠れてメールしてんだテメェ! 自分の立場分かってんのかコラ!」
「い、いや、思わず現実逃避を…」
「なんだ沢村、また若菜からメールか?」
「ああ、はい…って、ちょ、倉持先輩! なに女子に技かけてんスか!」
「ヒャハ、調子に乗った後輩はシメるのが先輩の役目だからな」
「おい苗字、大丈夫か!?」
「沢村くん、若菜ちゃんに倉持先輩の写メ送っちゃ駄目だからね」

 引き続き倉持先輩に固められながら沢村くんに釘を刺しておく。若菜ちゃんの気持ちが沢村くんに向いていようとも、他の、しかも超絶可愛い女の子に私の好きな人の写真を持っていて欲しくはない。「たとえ残像でも駄目だからね」と念押しすると、金丸くんがツッコミを入れてきた。

「てかお前その状態でなんで普通に喋れんだ!?」
「え? だって倉持先輩、さすがに手加減してくれてるし」

 痛くはない。ただ、倉持先輩と体を絡ませ合い密着している幸福感で興奮を禁じ得ない。むしろ手加減してくれているという優しさをひしひしと感じる。と、思っていたのだが。

「…してねぇけど?」
「え? ほんとですか? でもあんまり痛くないんですけど」
「まじかよ。ガッツリキメてんのに」
「いやしろよ手加減! 女子に手加減しないとかあんた鬼か!」
「タメ口禁止アターック!」
「ぐはっ」
「俺もう帰っていいか?」
「いいんじゃない?」
「待ってくれ〜〜金丸〜〜」

 結局本当に倉持先輩は手加減していなかったのかどうかは定かでは無いが、少なくとも私はどうやら沢村くん並には関節が柔らかいらしい。そういえば思い当たる節はいくつかあった。そうか、そうだったのか。でもピッチャーやるわけでもなしに、特にそれを活かすことはこの先無いだろ……いや待て、ある。倉持先輩に技をかけられても痛くないのだから、思う存分技をかけてもらえる。あれ、でももしかしたら痛がらないと面白くなかったりするかな? いや、それでもストレス発散くらいにはなるはず! これからはじゃんじゃん技をかけてもらう方向でいこう。私は勝手に一人でそう完結して、その日は幸せ気分のまま帰宅した。



「はあ。夢のような夜だった…」

 次の日。なんだかんだ賑やかに過ごしつつ真面目にやった昨夜の勉強会を思い出しながら幸せにまみれた溜め息を吐いた。倉持先輩の部屋で、倉持先輩の勉強机で、倉持先輩が隣に座って親身になって勉強を教えてくれるだなんて、夢か天国でもなければ未だに信じられないシチュエーション。幸せに浸ったり倉持先輩の真剣な顔を間近で盗み見たり見惚れたりするのに忙しくて内容なんてほとんど頭に入ってこなかったなんて口が裂けても言えないのである。ああ、昨夜倉持先輩に初めて技をかけられた感触を思い出して体が熱い……。

「苗字、昨日数学教えてくれなかっただろ! 今日は教えてくれるよな!? 俺を見捨てないでくれぇえ!!」

 勉強会を昨日の夢のような夜を最後に大切に思い出に仕舞いこもうとしたところ、沢村くんに泣きながら縋りつかれてしまった。そういえば、そもそもは沢村くんの赤点を回避する為の勉強会だったのに、私はまだ全然沢村くんに貢献していなかった。これではまるで嘘つきである。それはいけない。

「…チッ、分かったわよ。今日だけだよ」

 昨日の倉持先輩を真似して言ってみたら沢村くんは目をひん剥いた。

「舌打ち!? お前、今舌打ちしただろ! そんなとこばっか倉持先輩の真似してたらそのうち元ヤンになっちまうんだからな!」
「元もなにもヤンキーだったことなんてないんですけど! ほら、時間が惜しいから休み時間もみっちりやるわよ!」
「へい! あねさん!」
「誰があねさんよ!」



 ──そしてその夕方。五号室の寮部屋には沢村くんと私と金丸くんの三人。倉持先輩はまだ自主練習しているらしく、部屋にはいない。

「てかお前帰らなくていいのか? 昨日も帰り遅くなったし、他のマネさん達みんなもう帰っちゃったんだろ?」
「親には今日も勉強会するって伝えたから大丈夫だよ」

 昨日ほどは騒がしくない部屋で、私と金丸くんは沢村くんを挟んで熱心に勉強を教えていた。ここまではとても真面目な勉強会である。しかし唐突に金丸くんが思い付いたようにこう発言した。

「てかよー、お前未来予知出来んならテスト満点取れんじゃね?」
「…」

 私の正夢──ということにしようと思った設定──は未来予知だなんて大層な代物として認識されてしまったらしい。それでいてお手軽な便利ツールの如き扱いを受けそうに感じて思わず眉間に皺が寄る。しかし沢村くんは名案だと言わんばかりに掌を打った。

「おお! その手があったか!」
「ばか。見たい未来が視れるわけじゃないの。それに自分の未来は全く視ないし」

 あの物語に私は登場しなかったのだから自分の未来だけは当然知り得ない。

「でもまあ、夏の大会のことも、毎晩のように夢に視てるよ」

 言ってから、流れるように嘘を並べられるようになってしまっている自分に人知れず少しばかり焦燥を覚えたものの知らんふりをした。

「へえ、例えば?」
「あのね! 倉持先輩がかっこよかった!」
「なんだよその役に立たない情報…」
「失礼な。そうだなぁ、あと市大三高は薬師に負けるかも。つまり、青道ウチが勝ち進めば準々決勝では薬師高校と当たることになる」
「はあ!? 市大三高が負ける? いや有り得ねぇだろ」

 信じられないという顔をする金丸くんと、顔にハテナを貼り付けている沢村くん。あと、実はこの時期から鵜久森は強敵なんだけど確か梅宮くんが体調悪くて負けるんだよね。……なんか、ピッチャーのその日の体調に左右されるのって野球のあるあるなのかな。天久さんも首寝違えるし。

「そんで? お前の夢では青道は甲子園に行けんのかよ?」
「さあ? まだそこまでは…」

 金丸くんは核心的なことを尋ねてきた。だからこそ、彼は──いや、他の部員達も──きっと本気で私の予知夢なんて信じていない。当てずっぽうだと思っているんだろう。仮に私の予知夢を信用されるようになったとしても、私はもうプレイに口を出すつもりはなかった。継投のタイミングや順番をこうすればとか、外野がもっと深く守っていればとか、決め球はチェンジアップ来るぞとか、言い出せばキリがないけれど。でもきっと、そういうことじゃないんだよね。一番大事なのは、勝利そのものじゃない。そこに私が入る余地なんて無い。勝利を掴み取るのは私じゃなくて、選手達自身。彼らを信じる監督の指示と自分達の意思で掴み取ってこそ意味があるから。だから私はプレイに関しては口を出さないと決めたのだ。たとえそれがどれだけ紙一重のプレイだったとしても。



 そんなこんなで期末テストが終わり、結局沢村くんはやはり全教科ギリギリで赤点を回避し、降谷くんは補講と追試を食らった。私はというと、現国はなんとか赤点を回避出来たが平均点を越えられなかったので倉持先輩に怒られた。「おいてめ、教えたとこまんま出題されてんじゃねぇか! なんで不正解なんだよ!」と怒鳴られたが、多分その時の倉持先輩の真剣な表情がカッコよくて見惚れていたからとしかお答え出来ない。
 そして夏大予選はもう目前というある日のこと。沢村くんの全教科赤点回避や降谷くんの追試を見事に予言したことが口々に広まり私の予知夢が大人にも知れ渡ったようで、監督に呼び出された。

「丹波の怪我も、お前は分かっていたのか?」

 丹波先輩は今も一人だけ療養を兼ねて別メニューだ。監督はもしかしたらとてつもない後悔をかかえてしまっているのかもしれない。私のせいで。

「監督、あの時は監督の言う通り私が間違っていました。監督は正しかった。私が口を出していいことではありませんでした」
「…そうか」

 今の三年生を甲子園に連れて行ってやりたいという監督の切望、秋大で甲子園行きを決めた後の監督の涙、それらが頭を過ぎり私は逡巡する。言うべきか、それともまだ言わざるべきか───。

「これから先も、随所で、青道の選手に怪我人は出ます」
「…!」

 言った。言ってしまった。

「プレー中の事故であったり、過度な自主練習量によるものだったり様々です。できるだけその可能性となる要因を潰したいと思っています。ですが…」
「?」

 例えば、沢村くんのイップス。当たり所が悪ければ白河くんも再起不能になる可能性だってあるはず。無いに越したことはない事故だ。だけど、それを乗り越えることで沢村くんは一皮剥ける。逆境を乗り越えるからこそその先の壁を乗り越える力となる。その力が無ければ、未来は変わってしまうかもしれない。

「それを乗り越えてこそ力を付け、自らの糧に出来ることもあると思うんです」
「……、分かった。なら、お前は自分が正しいと思うことをやればいい。ただし、俺も選手達もお前の思い通りに動くとは思わないことだ」
「はい!」

 選手は大人の駒ではない。それがこの人の信念。私も、大きな力を手にしたからって他人を簡単にどうこう出来るとは思っていないし、したいとも思わない。私はただの私で、選手達もみんなそれぞれ自分の信念を持って好きで野球に打ち込んでいる。その揺るぎない事実だけが、ひたすらに私の拠り所なんだ。そして、私はその度に悩むのだろう。変えられないのも悔しいけど、変わってしまうのも恐い。……我ながら何がしたいのか分からないなこれじゃ。


「監督の目力凄かったぁー。……あ、」

 監督の部屋を出ると、階段で倉持先輩と出会した。

「よぉ」
「倉持先輩、お疲れ様です」
「監督の話、予知夢のことか?」
「はい」

 さすがに鋭い。倉持先輩に隠し事って、不可能に近いかもしれないとさえ思う。

「そうか。……ん、待てよ?……おいひょっとして、俺の妻になるとかいう話も予知夢だったりするか?」
「え、ああ、そういえばそんなこと言いましたよね。残念ながらアレは私の気合いだけからくる話です」
「そっか、なら良かっ…い゛!?」

 ホッと息をつく仕草をした倉持先輩を思いっきりむくれて睨み上げれば彼はやべ、という表情をして言葉を詰まらせた。私はそのままむきーっと憤慨する。

「絶対結婚式の予知夢見てやるんだからー!」

 グラウンド中に響くような大声の捨て台詞を置いて走り去った。もちろん恐らくそんな予知夢を見る日は一生こないだろうけれど。つまりハッタリ。そして精一杯の強がりである。
 仮に予知夢なんて見たとして、その未来で倉持先輩と結婚できていたとしても、幸せかどうかなんて分からない。十年後や二十年後、自分が心から人生を楽しめているかどうかなんて、どうせ今の自分には分からないんだから。なら、今の自分が幸せである為に、出来ることをしよう。





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