一年生 夏 いち


マッスルパイセンに死角無し


 梅雨に入った。引退が迫ったクリス先輩達三年生を差し置いて一軍メンバー入りを果たした沢村くんと降谷くんとはるっちの一年生三人。罪悪感や色々消化出来なかったものにケリをつけて、三年生達の悔しさも三年分の思いも全部背負って前へ進む腹を決めた。そして、夏直前の地獄の合宿が始まろうとしている。

 ───合宿一日目。

「みんな〜! おにぎりの時間ですよー!」

 グラウンドへ向けてそう叫べば、「おにぎりの時間てなんだよ」というツッコミが聞こえつつも練習を切り上げた部員達がぞろぞろと集まってくる。マネージャー達の前に並べられたおにぎり達は腹を空かせた男共に次々とかっ攫われていく。その中の一つを掴もうとしている倉持先輩を見つけ、声をかけた。

「倉持先輩には、私の愛情をたっぷり詰め込んだバナナですよ!」
「うっ…怪し過ぎる…変なもん入れてねぇだろうな?」
「失礼しちゃいますね! バナナにどうやって入れるんですか。ほら、召し上がれ」
「………おー」

 どれだけ信用が無いのか、倉持先輩はたっぷり数秒逡巡してから決心したようにそれを受け取った。本当に失礼しちゃうわ。バナナにどうやって盛るっていうんだ。……いや待てよ、注射器的な物があれば出来るのでは? いやいやいや落ち着け苗字名前。選手に薬を盛るだなんて、マネージャーとして一番やっちゃいけないことだからね。そんな心の葛藤を誰にも悟られることなく、自分が手渡したバナナをもぐもぐと咀嚼してくれる倉持先輩を眺めて幸せを感じていると、金丸に声をかけられた。

「おい苗字、この玄米のやつ、お前が握ったんだって?」
「そうだよ! 栄養たっぷり、私のスペシャルメニューだよ☆」
「…まあ、栄養は有りそうだな…」

 金丸くんは私の決めポーズを数秒の沈黙でスルーしておずおずと手に取り、一度ゴクリと喉を鳴らしてからそれを一口食べた。とても勇気の要る一口だったと見える。

「…おお、うめぇ」

 まるで信じられないとでも言いたげに鳩が豆鉄砲を喰らったような顔でそう呟いた金丸くんに、私は思わず満面の笑みを零した。

「へえ…じゃあ俺も…」
「倉持先輩」

 私が握ったおにぎりへと伸ばされた倉持先輩の腕を掴んで止めた。

「あ?」

 顔を寄せ、抑えた声で耳打ちする。

「大丈夫ですか? この後の地獄の走り込みで吐きません?」
「…分かってる。一個にしとくわ」
「いくつか取り置きしておきましょうか?」
「いや、いい。晩飯もあるしな」
「倉持先輩が食べたいと思ってくれるなら私、いつでも作りますからね。中の具、何が好きですか?」
「…」
「はっはっはっ、倉持、お前愛されてんなぁ」

 御幸くんが倉持先輩の背中をバシバシ叩いた。当の倉持先輩はなんだか呆けている。その間にも私のおにぎりは意外にも評判が良く、みるみるうちに無くなった。そして私は咀嚼する倉持先輩をひたすら眺められてすこぶる上機嫌だ。

「…苗字、ごちそうさま。美味かったぜ」

 倉持先輩は食べ終えた後、指を舐めながら私にそう言った。ちょっとえっちだ……。そして、私にはもったいない言葉だ。これ以上ない見返りを貰ってしまったような、なによりのご褒美を与えられたような。今だけは幸せだけで満たされている。笑顔が止まらない。

「この後も、頑張ってくださいね」
「おう」

 地獄の苦しさを想像したのか苦笑いで応えた倉持先輩を激励した。その後ナイターを点け、幸せな時間は地獄の時間へ突入する。


 日が落ちて本日最後のランニングが終わった後、みんなと一緒に青心寮に足を踏み入れた私は感動の余り叫び声を上げた。

「きゃ〜〜〜っ! 倉持先輩の家にお泊まりだぁ〜!」
「おい、コイツは何を言ってるんだ?」
「さあ?」

 感激のあまり喜びの舞を披露する私を見て何人かは首を傾げたが、そんなことは私の眼中には無い。

「倉持先輩が普段寝食をする神聖な場所! そんな居住空間で夜も一緒に過ごして一つ屋根の下で寝られるなんて……!」
「やっぱお前ほんとに気持ち悪ぃな」

 金丸くんに失礼なことを言われても気にしていられない。私ははしゃぎ回った勢いで一番重要な質問をした。

「沢丸くん! 貴方のお部屋は何処ですか!?」
「おい、金丸と混ざってんぞ! ていうか教えるわけねーだろ…て、おい!」

 沢丸くん達を置き去りにして一人ずんずんと進む。目指すは五号室。一階でかつ名札が出ていることを知っているのだから、自分で探す方が早い。いや、でも百人近く部員が居るのだから、各学年一人ずつの部屋で、単純計算でざっと三十三、二階建てだから一階だけでもその半数は部屋数があるはずだ。そう考えなから歩いていると早々に見付けた。“倉持”と書かれた表札。扉には“5”の数字。

「見〜〜〜っけ!」

 そして躊躇無く取っ手に手をかけた瞬間、誰かに肩を掴まれた。

「おい、お前、何やってる?」
「倉持先輩!」
「何やってんだって聞いてんだよ」
「えぇっとぉ…、てへぺろ」
「ヒトの部屋に不法侵入してねぇでさっさと自分の部屋に行け!」
「ええ〜〜〜! 部屋見るぐらい良いじゃないですか! そんなにケチケチしなくても! パンツ盗ったりしませんから〜」

 そう文句を言っていると、無意識に倉持先輩の服を引っ張っていたようで、その手を掴まれてしまった。そんなの当然、ときめくわけで。

「っ……、倉持先輩?」

 ……お、怒ってる?

「おい沢村ぁ! お前の妹なんとかしろォ!」

 倉持先輩は後ろから追いついてきた集団の中の沢村くんに無茶ぶりした。

「はァ!? 妹じゃありませんよ!」
「え…、沢村くんが生き別れのお兄ちゃんだったの…?」
「何でだよ! お前みたいな妹は絶対にお断りだ!」
「そうだな、さすがにこんな変態な妹は勘弁だな」
「御幸くんまで…そ、そんな…」

 沢村くんに続けて御幸くんにも取り付く島もない態度を取られて少しめげた私は、チラッと倉持先輩を見上げた。

「…んだよ」
「倉持先輩も、私のこと変態って思ってるんですか?」
「あ? お前は誰がどう見ても変態だろ」
「…!」

 倉持先輩に変態と認定されていたことを知り、私の脳内に落雷が発生した。「変態」と言った倉持先輩の声が何度も脳内再生され、やがて気付いた。私は今、興奮しているのだと。好きな人に変態と罵られて興奮しているのだと。

「はぁはぁ、もう一回、言ってください…」

 目眩に襲われたように地面に蹲り、息を切らして悶えながら懇願する私に倉持先輩は追い討ちをかけた。

「なんだよそんなにショックだったのか? でも事実だろーが。自覚なかったのかよ」
「わ、私は…変態なんかじゃ…」
「現実を見ろ。お前は変態だぞ」
「ギャフンっ」

 私は思わず胸を抑えて倒れた。物理的には何もされていないにも拘わらず。

「あのお馴染みのセリフ以外でギャフンって口にする人始めて見たよ」
「俺もだ」

 過呼吸を繰り返して目も焦点が合っていない私の姿を見下ろして、はるっちと金丸は冷静に述べていた。



 ───合宿二日目。それでも授業はいつも通りある。そして昨日の強烈な練習量に悲鳴を上げている沢村くんは案の定授業中に机に体重を預けていた。
そして金丸くんから沢村くんへと「寝たら監督にチクるぞ」という内容の伝言の光景が沢村くんの元へと辿り着くと、沢村くんは寝ぼけ気味に飛び起きると同時に教科書を掲げ持ち姿勢を正した。

「ぶふっ」

 しかし咄嗟に彼が手にした教科書は裏表も上下も逆。そんな、裏表逆なんてことある? 思わず吹いてしまって先生に睨まれた。沢村くんてほんと面白いなあ。……はあ、ようやく笑いの震えが治まった。そこでふと後ろを振り返ると金丸くんと目が合った。彼は沢村くんの監視役らしい。一番後ろの席、羨ましい。ひょっとして、監視役を引き受ける代わりにワイロとしてその席を確約されたのではなかろうか。

「苗字、お前昨夜倉持先輩に夜這いしたんだって?」

 休み時間になって、金丸くんが私の席まで来てそう言った。

「えっ! なんで金丸くんがそれを!? まさか沢村くん!?」

 沢村くんがバラしたのか!?

「マジだったのかよ…。お前、悪いこた言わねぇからそーゆーのやめとけ」
「……金丸くんってほんと良い奴だよね」
「あ? 話すり変えてんじゃねー」
「いやごめん。ほんとにそう思ったからさ」

 思ったままを口にしただけなので褒めたつもりは無いが、金丸くんは頬を掻きながらそっぽを向いた。どこからどう見ても照れていたので、ここぞとばかりにじゃれ合っておいた。


 そして今日の部活も地獄の練習。守備力を上げる為、沢村くん達は外野を守る練習をしたりランナーを置いて送球の実践的練習をしている。あ、ピカ一郎……否、まだピカっていない丹波先輩が御幸くんの提案を断っている。宮内先輩とフォークの練習かな? こうして私から見ても御幸くんはやっぱりさりげなく嫌われてるっぽいなあ。ま、同級生に嫌われるよりはマシかな。この先、川上先輩や沢村くん、降谷くんとも良好な関係を築いていけるだろうし、希望はあるよ、御幸くん。


 その夜。

「一体何事だ?」

 そう問うたのは宮内先輩。そして此処は宮内先輩のお部屋。私はというと、玄関に立つ伊佐敷先輩に首根っこを掴まれ、部屋の中へ放り込まれようとしていた。

「この痴女が懲りずに今日も倉持のベッドに夜這いしてやがったからよ、連れてきた」
「何故連れてくる」
「こいつがなかなか厄介でよ。お前の言うことなら聞くかもって倉持が言ったんだよ」

 そう言う伊佐敷先輩は私を玄関にほど近い床に正座させ、体裁の為か開けっ放しにされた扉のストッパーのごとく立ち腕を組んだ。座り込んだ私を見下ろして、宮内先輩は目を光らせ鼻息で威圧してくる。

「ンフーッ、夜這いしたのか…?」
「よ、夜這いだなんて大袈裟ですよ。ただその、ちょっと布団の中で匂いを嗅…か、かくれんぼしてただけで…」
「…分かった。お前は男子棟に出禁だ」

 ……そ、そんなあーーーーっ!!

「は、反省してます! ほんの出来心だったんです…!」
「なら心を入れ替えたと分かるまで出禁だな」

 ……くっ、こうなったらさっきみたいなやり口で宮内先輩を丸め込……あれ? 宮内先輩の弱点って何だろう?

「何を考え込んでる?」

 顎に手を当てて考え込む仕草をしている私を不思議がって宮内先輩が言った。それに対して伊佐敷先輩が代わりに答えた。

「多分お前の弱点だろ」
「弱点?」
「ああ。さっき俺ら三年で説教してたんだが、こいつよ、───」

 そう。増子先輩には「オススメのプリン今度持ってきます」、亮さんには「一生下僕になります」、結城先輩には「合宿の間はいつでも将棋のお相手します」、伊佐敷先輩には「泣ける少女漫画貸します」とこんな具合で──亮さんには大き過ぎる代償を払ってしまったが──片っ端から丸め込んでやったのだ。

「ほう。亮介をも退けたか」

 伊佐敷先輩が先程の私の快進撃を語り、それを聞いた宮内先輩が感嘆符を漏らした。既に私が繰り出す一手を待ち構える体勢だ。

「で?」
「……」

 「俺をどう崩す?」と言わんばかりの宮内先輩が私を見据えるも、私には宮内先輩の弱点が思い当たらない。いっそ色仕掛けを試してみる? いや、そもそも宮内先輩は女性に興味が無い可能性が高いと私は踏んでる。え、詰んだ。

「…と、とっておきの特製プロテイン作りま──」
「よし。合宿中は出禁だ」
「……! お、お慈悲をーーーーっ!!」

 ダメ元の提案に被せるように沙汰が下され、私の慈悲請い虚しく、苗字名前の男子棟出禁という形で珍騒動は幕を閉じたのだった。




 7 
Top