一年生 秋 いち


そろそろ観念してくださいダーリン



 抽選会から御幸くんが持ち帰ったトーナメント表を二年生が覗き込んで唖然としていた。

「初戦が…帝東…。その次勝っても…稲実かよ…。死のブロックじゃねぇか! てめぇクジ運にもムラがあんのかよ!」
「はっはっはっ、燃えんだろ?」

 おちゃらけたようにそう言い放つ御幸くんの胸ぐらに掴みかかる倉持先輩。

「そういえば苗字、予知夢は? 何か見た?」

 そう言って私にトーナメント表を手渡す川上先輩。私はその紙を受け取って視線を落とした。秋季大会、それは東地区と西地区が交ざり合い、波乱の多いとされる大会である。決勝の相手は薬師、それははっきりと覚えている。それまでのカードは……と、私は青道の文字から一回戦二回戦と視線でなぞっていき、対戦する高校を思い出していった。こうして改めて見ると先は長いし勝ち上がるほどギリギリの試合になる。だけど青道が勝ち抜くルートは変えてたまるものか。一つ一つ、実力でねじ伏せて負かしていくしかない。

「…うん、これで合ってるはず」

 そして記憶と対戦順が合致した。

「それで!? 甲子園は!?」
「何言ってるんですかゾノ先輩。稲実に仮を返すんでしょう? まずは一試合一試合勝ち進むしか、甲子園への道は無いんですよ」

 実際稲実と戦うことは無いが、ただお尻に火を付けるつもりでの発言だった。そのはずだったのだが、周りを見回せば私の言葉を勝手に深読みしたらしい面々が面食らった顔をしていた。

「お前…」
「…え、まじで甲子園行けんの?」

 予知夢なんてみんな半信半疑で、私の夢のお告げなんて耳半分で聞き流しているものだとばかり思っていた。最初があんまりに散々だったものだから、それでもいいと妥協してもがいてきたのに。なのに、なによ、その反応は。

「…え」
「どうなんだよ? 稲実に勝って甲子園行けんのか、俺達?」

 私の周りに立つ選手達は誰もが続く私の言葉を待ち構えている。いつの間に、私の言葉はここまでの重みを持つようになっていたのだろう。

「…」

 勝てる未来が存在するのだから、それを掻き回す必要など無いし、だけどやっぱり怪我が無いのが一番だし、だからどうしようか、なんて、そんなことを頭の片隅で考えていたのに。甲子園行けるかだって? そんなこと、私なんかに訊いてくれるな。そりゃ、実際行けるよ。そういう未来が待ってるはずだ。だけど私がここで今首肯して、行けなかったらどうする? 行けるものだと知らず知らずのうちに油断して負けてしまうかもしれない。何かイレギュラーが起こっても何も不思議ではない。試合とは、勝負とはそういうものだ。天候も、グラウンドに転がる小石も、選手のコンディションも、人間関係も、客席の声援や雰囲気も、全てが未来を変えてしまう可能性を秘めている。この夏私があんなにもがいても変えられなかった運命を、そんなちんけな要因にあっさりと変えられてたまるかってのよ。

「甲子園に行けるかどうか? ふーん、それを私に訊くんですか?」

 我ながら地を這うような低い声が出たと思う。この腹の底で煮えくり返るような不快感を払拭するにはどうすればいい。

「っ…!」

 その場の全員が息をのんだ。

「私もそこまで馬鹿じゃないんですよ。自分の言葉にそんな信頼と期待を向けられて、ここで私が結果を口にしたらどうなるかなんて、それが分からないほどの馬鹿では。でもこれは言わせてください」

 すぅ、と息を吸い込んで溜めこんだ憤りをまとめて吐き出す。

「負けられない理由があるんでしょう!? 甲子園に行けるかどうか決めるのは私じゃない! 予知夢でも無い! 高校球児達だけが許された神聖なグラウンドで、大人の権力にさえ出来ないことを、あなた達だけが出来るんです! 甲子園に行く覚悟があるなら、運命なんかに惑わされず、しっかりして下さい!」

 ゾノ先輩も、それにのっかった数人も口を噤んだ。御幸くんならきっと、皆が集まるような場所では決してさっきみたいなことは訊いてこなかったのに。そう思って御幸くんに視線を向けてみれば、何か思案げに俯いているけれど何を考えているかは全く分からなかった。私は踵を返して、扉に向かいながら口を開いた。

「初戦の相手は東の強豪校帝東。その日の天候は雨のち晴れ。初戦なんですから、もちろんコールド勝ちを期待してますよ。みんな信頼してくれてるみたいだし、まさか私の予知夢が外れて一回戦敗退なんてこと、あるわけありませんよね? 」

 最後の一言で言外に初戦突破を匂わせつつも振り向いて笑顔で発破をかけておいた。これでも全然気が済まないくらいである。未来を切り開くのは選手達自身なのだ。私も私でやりたいように動く。傲慢だと思われようとも、前世の記憶を利用していいのは私だけだ。ようやく使える武器に育てたのに、それを他人に利用されてたまるものか。


◇◇◇

 神無が食堂の扉を閉めた途端、まるで嵐が去った後のような静まり返り様。この沈黙を破るのは多少の度胸が要ったが、これは俺の役回りだろう。

「いやー、珍しく怒ってたな。っていうかアイツ怒るとあんな怖いのな! なあ倉持」
「…まあ、俺はアイツが怒ってくれて感心してるぜ。…ゾノ、」
「わーっとる!! オレが悪かったて。口が滑ったいうか、…な!?」
「んだよそれ関の真似かよ! 似てねーよ」
「ちゃうわ! オレはただ、アイツが視たんか視てへんのか気になっただけや!」
「まあ十中八九、視たんだろうな、あの様子だと」

 その結果を推し量れるだけの決定的情報や振る舞いがなかったことが、俺達にとっては幸いかもしれねぇな。アイツは嘘は下手だが隠し事は上手いのかもしれない。俺の他に気付いたやつは倉持ぐらいだろう。恐らく、アイツは青道が甲子園に行く予知夢を視たんだと思う。その上でアイツが懸念したのは俺達の油断。にしてもそういう予知夢を視たとしたらアイツが舞い上がってねぇのが気にかかるな。手放しで喜べない何かが起こってしまうのかもしれない。……ま、俺はもともとアイツの予知夢なんて胡散臭ぇもん信用してねぇんだけど。

◇◇◇



 苗字の予知通り、その日は雨だった。まあ元々雨予報だったからそこまで驚きはしない。でも苗字は「雨のち晴れ」だと言った。今朝のニュースの気象予報士もそう言っていたけれど、本当にこの雨は上がるのだろうか。

「ああ、言い忘れてたけど、途中で雨天中断になるよ」
「はあ!? そういうことは早く言え!」

 球場に着いてから、情報を小出しにしてくる苗字に金丸がキレて声を荒らげている。

「えー。でも昨日ちゃんと着替え多めに用意するようアドバイスはしたでしょ」
「元々今日は雨予報なんだからお前の助言が無くても多めに用意すんだよ!」


 帝東との試合は雨の中始まり、五回表──俺達の守備──が終わったところで苗字の言う通り雨天中断になった。

「ねぇ。はるっち、前髪切ったら?」
「前髪? …って、苗字さん!? なんで当たり前のような顔して此処に居るの!?」

 そう、苗字は何故か当たり前のようにベンチに忍び込んでいた。試合開始の時は居なかったのにいつの間にか。監督も苗字を一瞥しただけで特に注意する様子は無い。梅本にも「さち先輩、御手洗大丈夫ですか? 私が代わりにやっておきますよ」なんて声をかけてたし、すっかりベンチに馴染んでいる。俺もさっき「川上先輩は今日出番あるので体冷やさないようにしてくださいね」なんてそれとなく声をかけられた。ということは、苗字の予知ではこの試合は雨天コールドにはならないということだろうか。この間青道ウチが帝東に勝つって言外に言ってたけど、それにしても苗字のやつ緊張感無さ過ぎじゃないか? 我が物顔でベンチを歩き回った末、今は小湊の隣に腰をおろしていて我が家のように寛いでいるぞ。

「えーだって暇じゃん? それにここからなら太陽くんがよく見えるんだもん」

 苗字の口から珍しく倉持以外の男の名前が出てきて驚いた。

「…向井くん? どうして?」
「私、帝東のバッテリー好きなんだよねぇ。太陽くんは気が強くてナルシストだけど成宮鳴よりは謙虚だし。割とファンかなぁ。あ、勿論一番は青道だよ!?」
「なんか苗字さん詳しいね」
「まあ一方的に知ってるだけだけどね」

 なるほど、苗字は今の帝東に詳しいらしい。予知夢情報とかかな。というか予知夢ってどんな感じなんだろう。

「ところで暇だし、はるっちの前髪、今私が切ってあげようか?」
「な、なんでそうなるの!? いいよ!」
「よし任せて! 私が綺麗にパッツンパッツンにしてあげるから!」
「いやいや違うよ! 今のは遠慮するって意味…!」
「問答無用! どうせいずれ切るんだから早い方がいいでしょ。覚悟せい!」
「わあ〜〜〜っ!」

 左手で小湊の前髪を鷲掴んで右手でハサミを構える苗字。というかなんでハサミなんて凶器を懐に入れてるんだよ。危ない女だな。文房具屋の、女子が群がる可愛いものコーナーにしか置いていないようなサイズが小さくて玩具みたいな物だが一応ハサミはハサミだ。ブルペンで元気に喚く沢村が此処に居ない分を埋めるかのように、苗字がベンチにも騒がしさを生み出している。小湊は顔を青くさせて抵抗しているし、そろそろ止めた方がいいかもしれない。そう思ったのと同時に苗字の右手首を掴んで止めた奴がいた。

「そのへんにしとけ」

 苗字の手首を掴んだまま、倉持はそう言った。苗字は倉持の声を聞いた途端ビクッと身体を震わせて固まった。倉持の方を振り向くこともしない。纏う空気が急変したようだ。どうしたんだ?

「…苗字さん?」

 苗字の真正面にいる小湊が苗字の顔を窺うように覗き込む。応答は無いものの、やがて苗字は腕の力を抜いた様子でちゃちなハサミを持った腕を徐ろに下ろし、離れた俺から見ても分かるほどプルプルと身体を震えさせ始めた。倉持も異変を感じ取ったようで「お、おい……」と声をかけるも返事は無い。しかし俺は此処からは見えない苗字の顔を唯一窺っていた小湊がいつの間にかその表情を不思議そうなそれから可哀相なものを見るそれに変えていることに気付いた。そして遂に、苗字の震えた声が絞り出された。

「はな…して、くださ…い」
「苗字?」

 聞き取りづらいほどか細い声だったが苗字は「離して下さい」と言った。恐らく倉持に対して言ったのだろうが、この場に居て成り行きを見守る全員、その心中を正しく察することは出来ない。倉持も彼女の名前を呼ぶことで説明を求める。だが、彼女が突然勢い良く上げた顔は林檎のように赤く、それを目撃してしまった部員達は大体の彼女の心情をとうとう推し量れてしまった。そして俺もうちのその一人。小湊が表情を変えた理由にも合点がいった。そして未だに不可解な表情を貼り付けているのは苗字の真後ろに立っている倉持くらいだ。

「うおっ…、どうしたんだよ、お前?」

 突然顔を上げた苗字に驚き、俺達とはまた違った思いで心配そうに顔を歪めている。

「…」

 対して苗字は、珍しく気遣ってくる倉持に構うことなく腕を振り払った。

「…!」

 驚いて目を見張る倉持を振り返ることもなく、そのまま出口へとズンズン歩みを進めていく。そして扉の前でピタリと止まって、やはり振り向くことなくこう叫んだ。

「倉持先輩のえっち! ずっと視界に入れないようにしてたのに!」

 言い切った途端、そのまま出ていってしまった。バタンと閉められた扉の音が空間に余韻を残している。

「あ゛……?」

 ほんの少しの間の後、倉持のなんとも言えないキレ声が沈黙を破った。無理もない。倉持にしてみれは訳が分からないだろう。小湊や俺を含めた数人で、こめかみに血管を浮き立たせる倉持を諌めることになったのは言うまでもない。それはもう骨が折れたのだが、その日誰も苗字に文句を言う奴は現れなかった。彼女の最後の言葉と、小湊と会話しながら頑なにグラウンドだけを見つめていた様子、それから倉持の湿った髪と濡れたての肌、それらを照合すれば───つまり、彼女は倉持の姿に色気を感じて羞恥のあまり見ることが出来なかったという推測に皆が行き着いたのだ。帰りのバスでも彼女はもの静かで実に大人しかったのだが、それはまた別の話である。


 しばらくして試合が再開されたが、中断明け最初の守備で降谷の調子が崩れ、俺がブルペンに入った途端帝東に先制点を許してしまった。降り続ける雨の中投げづらいだろうけど中断前までは辛抱強く投げていたのに……。降谷のやつ、スイッチ切れちゃったのかな。
 監督は降谷の交代に沢村を指名した。中断中もずっと投げてたけど、大丈夫か、アイツ? にしても雨も止みそうにないし、リリーフは沢村だったし、苗字の予言全然当たんないじゃん。

 ところが九回裏、苗字の予言通り俺の出番はやってきた。イップスにも関わらずあの帝東を三イニングも抑えた沢村と交代して、すっかり荒れたマウンドに立つ。本当、アイツは大したヤツだよ。後輩が立派に切り開いてくれた勝ち星への道、最後は俺が締めるんだ。俺が。まだどこか乗り越えられていなかった夏の決勝戦が何度も脳裏を過ぎるのを必死に振り払いながら、無意識に自分を追い詰めていた。だからかもしれない、御幸に言われるまで、ちっとも気が付かなかったんだ。もう既に雨が止んで、自分の背後では雲間から光が差していたことに。

「こんな景色目に入らないくらい、周りが見えてなかったんだ」
「…本当に晴れたね。苗字の言った通りだ」
「ヒャハ、まぐれだろ」
「…そうだな」

 でも俺達には、勝利の女神がついているのかもしれない。雨上がりの空が神々しくて、そんなことを思ってしまった。


◇◇◇

「迷った…」

 試合再開のアナウンスが流れた後もしばらく私は球場を彷徨っていた。

「やはり行きに一発でベンチへと辿り着けたのは奇跡だったか」

 何故か反対側の敵陣に辿り着いてしまい、帝東の人に道を教えてもらい、それでもまた道が分からなくなって、また道行く人に道を尋ねて、途中でトイレに行きたくなってトイレを探し、また迷って、何故かまた帝東のさっきと同じ人に道を尋ねることになるなどして、今に至る。試合は八回表、沢村くんの好投でツーアウト。

「あ!」

 奥村光舟と瀬戸拓真発見! よしよし、ちゃんと観戦に来てるね。君達が入学してくる来年の春が楽しみだよ私は。

「あ!」

 あれは……! お馴染みの記者の二人発見! 名前はちょっと今思い出せないけど、こう改めてサブキャラクターを見つけるとテンション上がるなぁ。どんな会話してるのかなぁ。そう思っていそいそと近付いてみる。

「あくまでアウトコース主体なんですね」
「夏休み中に取り組んできた課題なんだろう」

 っあああ、言いたい! 「沢村くんは稲実との決勝戦のデッドボールからイップスに苦しんできて、それでも今日これだけのピッチングが出来ているんですよ」と。自慢したい。青道うちの沢村栄純すごいでしょ、と。だがそれが万が一記事になれば沢村くんの弱みを敵校に晒すことになってしまうのでお口チャックである。

 そして長い旅路の末ようやく青道の席に戻って来れた頃には試合は丁度終わったところだった。

「名前ちゃん! どこ行ってたの!? 目を離した隙にいなくなっちゃうんだもん! もう試合終わっちゃったよ!?」
「ごめんねぇ、長い旅路だった〜」
「まーた迷ってたの?」
「うん。帝東の人に二回も道尋ねたよ。二度目に会った時さ、その人私のこと宇宙人でも見るような目で見るんだよ、地味に酷くない?」
「もう名前ちゃんは一人で出歩いちゃ駄目! どこか行く時は必ず誰かに声をかけるように!」
「そ、そんな大袈裟な、子供じゃないんだから」
「名前?」
「…はい、すいませんでした」

 春乃だけじゃなく先輩達まで揃って有無を言わせない笑顔で私を睨むのでもはや従順に頷くしかなかった。



「沢村、今日何読んでる?」

 難しい本を遂に断念し、沢村くんがとうとう漫画に手を出し始めたことにクラスがザワつく中、私は何かが引っかかっていた。

「名前ちゃん、難しい顔してどうしたの?」
「珍しいじゃん、あんたが考え事なんて」

 失礼な物言いにも気を割けないほど私はもやもやしている。何か、何か───。

「うう〜ん、何か大事なことを忘れているような気がする」

 休み時間も倉持先輩のクラスにも行かずに唸り続けて頭を捻っていたが、この時に倉持先輩のクラスに行っていればそれを確実に思い出していたとは、この時の私は思いもしないわけで。私は次の日までずっとそれを思い出せないままでいることになるのだった。

◇◇◇

 帝東に勝利した翌週の放課後の部活はいつも通りで。

「うおーっ、相変わらずの鬼スタート!」

 実践練習で倉持先輩をランナーにおけば、サウスポーの栄純くんさえものともせず盗塁を決め、先輩達ですらその大胆な走塁を見て舌を巻いた。

「っ〜〜…!」

 その直後、どこかから声にならない高い悲鳴が聞こえて、ドサッだかバタッだかそんな音がしたと思ったら「おい、マネージャーが倒れたぞ!」って声が聞こえてきた。振り向いて確認せずとも十中八九、苗字さんだろうなと分かってしまった。大方、悶絶しているか気絶しているか、悪ければ鼻血を出しているかもしれない。倉持先輩は練習に集中していて気付いていないか、もしくは全く意に介していないようだ。あの、勝負への集中力は本当にすごいと思う。さて、と振り向けば、苗字さんは幸せそうな顔で倒れていて微動だにしない。いや、微かに痙攣しているような気もする。

「苗字さんは…うん、…なんていうか、本当に倉持先輩のことが好きなんだね」

 呆れつつそう語りかければ、彼女は唐突に真顔になって上半身を起こし何も無かったかのように立ち上がった。え、何その豹変ぶり、怖いんだけど。お、怒ってる……のかな?

「そうよ。倉持先輩は私の未来の旦那様なの。私、はるっちなんかに負けないから」
「…ええ? 俺? 何のこと?」

 何故か敵意剥き出しで言われた言葉を理解出来ず首を傾げたところで、塁上から怒声が飛んできた。

「おいこら苗字、ふざけんな! そんな恥ずかしいデタラメ広めやがったら承知しねえからな!」

 さすがに今度は聞き捨てならなかったからか、倉持先輩が塁上から苗字さんに文句を叫んだ。しかし苗字さんは態度を改めず、何故か照れくさそうにもじもじしながら返答し出す。ちなみに二人のやり取りはグラウンド中に聞こえる音量で、みんなの動きを止め、視線を集めている。

「やだなぁもう、照れてるんですか? 私実はドMなので、お仕置きならいつでも大歓迎ですよ! でも私と先輩は結ばれる運命なんです。そろそろ観念してください、ダーリンっ」
「っ〜! るっっっせこの!!! ダーリンて呼ぶな!!」

 何やら腰をくねくねさせてタコのようになっている苗字さん。なるほど、骨抜きというのはこういうことかと、俺は一人合点した。そんな苗字さんに対して倉持先輩は顔を赤くして怒鳴った。流石に今の苗字さんの物言いには照れている様子。

「苗字、練習の邪魔だ。何度も言わせるな」

 とうとう心なしかうんざりしている様子の監督の鶴の一声が終止符を打ち、苗字さんはしょんぼり大人しくなった。
 教室では苗字さんはごく普通の女子高生なのに、倉持先輩が絡むと豹変する。恋ってこんなに人を変えるものなのかと、俺は少しばかり恋愛というものに恐れをなした。

◇◇◇



 次の日。

「苗字、ちょっといい?」
「はい、何でしょう?」

 私はナベ先輩に声をかけられた。

「昨日御幸に稲実と鵜久森の試合の偵察を頼まれたんだ。良ければ一緒に行ってくれないかな?」

 ナベ先輩が、昨日、御幸くんと、話をした……だと? 私は思い出した。ここ最近もやもやとして思い出せなかったことはこれだということも。しかし今思い出したところで時既に遅し。もう問題の事件は起こってしまっていた。気付くのが遅くて未然に防ぐことが叶わなかった。私はなんて無力かと内心ほぞをかむ。

「ナベ先輩…」
「ん?」
「えぇと、なんといいますか、…相談する相手は選んだ方がいいかと」
「え…」
「いえその、私今回は口を出すつもり無いんですけど、…」
「ああ、もしかして予知夢視たの?」
「…これはあくまで個人的な意見ですが、うちのチームにナベ先輩は必要だと思います」
「……」

 みんながそれぞれ何の為に毎日汗水垂らしているのか、何故辞めないのか、或いは辞められないのか、私は知らない。それぞれその人なりの思いや価値観や考えがあるだろう。それでもきっとみんな、チームの勝利の為にという共通の意識は持っている。まるで示し合わせたようにすっかり浸透したそれは、新チームが始動した日に御幸くんが掲げた方向性から形成されたものであり、それが団結力に繋がっていく。だけどこれだけ多くの部員がいるのだから、それについていけない人が出てくるのも自然なことだと私は思う。私だって今まで何かに継続して取り組んで、ある時ふっと辞めたくなったことはある。そんな時、一人きりだったら簡単に辞めてしまっただろう。だけど仲間が居て、「一緒にがんばろう」って励ましてくれたから続けられた経験は沢山あるんだ。

「な〜んて。私に言われてもあんまり説得力無いですよね。とりあえず稲実と鵜久森の試合は同行します!」
「あ、うん、ありがとう」

 偵察の日いつだっけ、と記憶を手繰り寄せて次の瞬間ハッとした。

「いやちょっと待ってください。その日って青道うちと七森の試合じゃないですか」
「そうだけど」
「いやです」
「えっ」
「お断りします!」
「なんで?」
「だって、だって……倉持先輩の勇姿が見られないじゃないですか!」

 溜めに溜めて渾身のキメ顔で言ったのに、しばしの沈黙の後あろうことか溜め息が返ってきた。

「苗字は応援じゃなくて偵察。その方がチームの為になるし、倉持も喜ぶと思うけどな」
「うっ…でっでも」
「でもじゃない」
「あの…」
「だめ」

 取り付く島もない。意外に手強いぞこの優男。倉持先輩を引き合いに出してくるなんてズルい。
 その後もあれこれ言い訳して必死に食い下がったけれどナベ先輩は決して首を縦に振らなかったし、後日気付いた時には既にさち先輩達にも太田部長達にも話は通っていて退路を断たれていた。素早いかつ有効な手回し、恐るべき策士だ。



 今後チームに一波乱起こるわけで、それを知っている私は何かせずには居られないわけで。ナベ先輩の悩みメンタルに塩を塗り込んだ御幸くんとお話をするべく、私は休み時間にお馴染みの二年B組を訪れていた。

「倉持先輩ーー…っぶへ! なっ、なにするんですか、乙女の顔面に張り手なんて酷いです!」
「るせぇ! てめぇこないだ俺に抱き着いてきて鼻血出しやがったじゃねーか! また俺の制服汚す気か!」
「う…、だって興奮して…つい。抱きつきたくなる身体してるから…」
「俺が悪いみたいに言うんじゃねーよ! そんな気持ち悪ぃーこと言ってくんのはお前だけだ」

 毎度の事ながら、教室に入るなり倉持先輩とじゃれ合う私。私が倉持先輩の目の前で鼻血を出した失態は早く忘れてほしいものだが、倉持先輩成分の補給が終わったところで本題である。

「今日はキャップに用があって来たんです」
「え、俺?」

 倉持先輩が物珍しそうに見守る中、きょとんとする御幸くんを教室から連れ出して人気ひとけの無い場所まで連れ歩く。

「どこまで行くんだよ。そんなに言いづらい話なわけ?」

 御幸くんが痺れを切らしたところで足を止め、此処でもいいか、と彼の方を振り向く。そして前置きも何も無しに本題を切り出した。

「御幸くんは近々炎上します」
「はぁ? 炎上?」
「だけど、今後のチームが一丸となっていく為にその一悶着が必要なことだと私は思います」
「……」
「なので、私は口出ししませんからせいぜい色々思い知ってください」
「はぁあ?」
「男子同士の揉め事が解決するメカニズムって、女子には意味不明なことが多いから厄介なんですよ。御幸くんもみんなも色々悩んだり考えたりしてるみたいだし、ちゃんと話し合えば良い方向に向かっていくはずです」
「何それ、アドバイスのつもり?」
「いえ、アドバイスしませんよって話です。そういえば御幸くんも何か悩み事、あるんじゃないですか? 私で良ければ今なら特別に聞いてあげてもいいですよ」
「いーよ別に」
「その言い草だと、やっぱりあるんですね、悩み事」
「…別に。悩みぐらい、誰にでもあるだろ」

 御幸くんは野球は上手いし、無駄にメンタルが強い。だからなおさら誰かを頼るってことがなかなか出来ないのかもしれないな。いくらでも頼ればいいのに。倉持先輩は仲間想いで兄貴肌だし、ゾノ先輩は努力が実らない苦しさを充分知ってる。二人とも部員達の弱音を受け入れた上で引っ張っていくことが出来るし、御幸くんの駄目なところを補い合える人達なのになぁ。

「言っておきますけど、倉持先輩は御幸くんよりずっと立派な人なんですからね!」
「はいはい」

 私がいつもの軽口に隠した本当のメッセージ、届いたのだろうか。まあ、なるようになるんだし別に良いけどさ。倉持先輩がキャプテンだったらどうなっていたのかなって、やっぱり考えちゃうんだもん。御幸くんなんか、倉持先輩のフォローが無かったらポンコツのポンなんだから。そこんとこ、よぉく自覚してもらわないと。


「野球部副キャプテンで頼り甲斐のある倉持先輩っ、キャップが相談したいことがあるそうですよっ」

 元来た道を辿り、2のBの教室の扉を開けながら倉持先輩に大声で宣言してやった。理由は、“なんかむしゃくしゃするから”だ。

「お前は早く自分の教室に帰れ!」

 倉持先輩を利用しておちょくろうとすると秒で御幸くんに追い出されてしまった。

「なんだよ御幸、悩みがあんならこの俺が聞いてやるけど?」
「うるせぇ!」

 楽しそうな会話が閉めきられた扉越しに聴こえてくる。私は蚊帳の外。ああそうですか、男同士の会話に私は邪魔ですか、そうですか。ちぇ。





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