一年生 春 に
いいから蹴ってください
私は最近ようやくほとんど息を乱さずに倉持先輩とお話出来るようになり、あまつさえ触っても鼻血を出さなくなった。自分から触れるのにいくらか耐性が付き始めれば、今度は触れられたいという欲望と好奇心も芽生えてくるものなのだなあと実感している今日この頃です。そして先日、沢村くんが倉持先輩にタイキックを食らってじゃれ合っているのを目撃してからというもの、私の脳内はずっとある願望で満たされている。
「倉持先輩っ! 私も沢村くんみたいにお尻! お尻蹴ってください!!」
「なんでだよ」
そう、倉持先輩に蹴られてみたい。ヘッドロックでも関節技でも何でも良いから触れて欲しい。そこに痛みという甘美なスパイスが加われば、私は興奮して一体どうなるか分からない。想像しただけで天に上りそうだ。
「どうすれば蹴ってくれますか? 調子に乗ればいいですか?」
「今年の一年まじでめんどくせぇ」
「そりゃお前が、面倒見良くていちいち相手してやってるからだろ、倉持」
なかなかその気になってくれない倉持先輩に、御幸くんが冷静に窘めた。
「るせぇな! てめぇも先輩になったんだから少しは面倒みやがれ!」
「倉持先輩はああ見えて女子には優しいですからね!」
「るせぇぞ沢村ぁ!」
そこに沢村くんも茶々を入れて一気に賑やかになる。いいなあ。沢村くんばっかり倉持先輩と仲良しでズルい!
「私は出来ればもっと親密にお世話になりたい所存であります!」
「うるせぇっつってんだろ! お前らもう黙ってろ!」
結局倉持先輩がキレてしまったので、愕然としつつ不完全燃焼なこの気持ちのやり場がなくて私は立ち尽くしたけれど、すぐさま気を取り直してライバルを睨みつける。
「あの二人、まるで双子だな」
御幸くんが倉持先輩にそう言っていることなど聞こえない私は沢村くんに牙を剥いていた。
「沢村くんには負けない!」
「はあ? い、いきなり何だよ? 俺だって負けねぇぞ!」
沢村くんは負けず嫌いなのか、問答無用で張り合ってきた。しばし睨み合いが展開された。
「何の勝負だよ?」
さっきの賑やかさのせいで集まってきていたのか、金丸くんが呆れたように口を挟んだが、沢村くんはヒートアップした表情のまま金丸くんに噛み付くように答える。
「知らねぇよ!」
「知らねぇのかよ! じゃあ訊けよ! ホント馬鹿だろお前」
うん、ホント馬鹿だなこの子。いやでも待てよ。この馬鹿さ加減が愛嬌となっていて、それが倉持先輩と仲良しの秘訣なのでは? そうに違いない! 沢村くんよりも馬鹿で愛嬌ある女の子を目指そう!
「むむむ、負けない!」
「だから何の勝負だよ!」
金丸くんは一人でツッコミに徹していて大変そうだなと頭の片隅で思った時、倉持先輩が聞き捨てならないことを言った。
「おい兄妹喧嘩かよ」
「兄妹じゃありません!」
睨み合っていた沢村くんと私の声がハモった。
「ヒャハハ、息ピッタリじゃねぇか」
それがツボにハマったのか倉持先輩の機嫌は急転したようで大好きな笑顔が見れた。沢村くんと兄妹と思われるのは遺憾だけれど、私はちょっと沢村くん達の輪に近付けたような、仲良くなれたような気がしてとてもとても誇らしくなったのだった。
今日の私は、どうすれば沢村くんみたいに倉持先輩と仲良くなれるのか、授業中それにばかり頭を捻らせている。沢村くんと私の違い、それは倉持先輩と過ごす圧倒的時間差! 沢村くんは寮の同室で倉持先輩と寝食を共にしている。私がもし沢村くんだったら、倉持先輩の無防備な寝顔やあんな寝相やお風呂上がりのこんな格好も、全て拝見出来るのに……!
「そうか…! 沢村くん! ちょっとしばらく私と生活を入れ替えようよ!」
「はあ? 何言ってんだ、お前?」
「だから、倉持先輩と同じ部屋で過ごす権利を私に借して欲しいの!」
「意味が分からん」
結局通りがかった金丸くんに一蹴されて私の野望は塵に消えたのだった。
午後の授業が終わり、放課後。今日の天気は快晴。我が校の高校球児たちはみんな元気にグラウンドで太陽光を浴びて動き回っている。その中でも特にイキイキしているのはレギュラーメンバーで、その中でも更に輝いているのは勿論ショートを守っている倉持洋一である。他の誰がなんと言おうとも、私の目には彼が一番光輝いて見えるのだ。しかも今日は調子も良さそうで、笑顔が眩しい。さらけ出された腕の筋肉も眩しい。何をしてもかっこいい。そんな感想を抱きながら見蕩れていると、横から春乃の驚いた声がした。
「っえ!? 名前ちゃん泣いてる!? ど、どうしたの?」
途中からどうも視界がままならないと思ったらそういうことか、私は泣いてしまっていたようだ。
「だって、う…だって…ひぐっ、倉持先輩が、あんなに楽しそうに野球やってるぅぅ…しかもかっこいい。尊い…」
「ええ…なにそれ…」
倉持先輩を見つめながらボロボロと涙を零している私に春乃は全力で引いていた。だが私は気にせず倉持先輩を見守り続ける。すると倉持先輩は休憩するのか汗を拭いながらグラウンドを横切ったところで。私はすかさず綺麗なタオルを鷲掴んで猛ダッシュ。
「倉持先輩! タオルどうぞ!」
「ん、おぅ、サンキュ。…お前泣いてね? どうした?」
今はもう泣き止んでいるのだが、濡れた頬や涙の跡、充血した目などがあからさまに泣いたことを示しているのだろう。
「倉持先輩が優しい…やだな、また泣いちゃうから今はそんなに優しくしないで下さい」
眉根を寄せて心配顔を向けてくる倉持先輩の優しさにキュンとしてまたしても緩みそうになる涙腺を内心で叱咤し、どうにか笑顔を作った。
「…」
倉持先輩はしばしタオルを見つめて思案した様子を見せたと思えばそのタオルをパフッと私の頭上から被せてきた。
「…ほえ?」
瞠目して見上げれば、彼は私から顔を背けてしまう。
「まだそんなに汗かいてねぇから」
今、タオルは私の顔を周囲の視線から隠すように存在している。それは目の前の大好きな人が私にくれた初めての形を持った優しさだった。
「っ…ふぇ、…ひっぐ」
「…お、おい」
とうとう涙腺が緩むのを許してしまった。それに狼狽する倉持先輩の不安を拭うのは今の私の責任なのに、声が言葉にならない。
「あー! 倉持先輩が後輩マネ泣かせてるーっ!」
「っ、」
私達の様子をいち早く目撃したらしい沢村くんの大きな声に、倉持先輩がびくりと肩を揺らしたのがボヤけた視界でも分かった。
「いつかやらかすと思ってましたが、いくらなんでも女子を泣かせるとは! これだから元ヤンは!」
「あ゛あ゛んっ!?」
沢村くんが勘違いして見当違いなことを言うから倉持先輩がキレている。これはスパーリングコースだ。……ちょっと羨ましい。
「ふふっ」
沢村くんを羨ましく思ってしまったところで何故か笑いが込み上げてきた。泣きながら笑っている私はさぞ奇妙に映るらしい。倉持先輩と沢村くんはじゃれ合いを始めそうな格好で静止し私を振り返っている。その様がまた笑いを呼ぶ。
「ふは、ふふっ…あっはははは」
「…」
私の独笑ターンが終わるまで数十秒はあったと思う。その間、二人は間抜けな表情で私を見つめていた。そしてようやく笑いの波がおさまったところで私は誤解を解かねばと口を開く。
「違うの沢村くん、私が勝手に感動して泣いただけなんだよ。倉持先輩は優しくしてくれただけなの」
「…そうなんですか、倉持先輩?」
「俺に訊くな。知るか、んなこと」
そう、倉持先輩には私が泣いてしまった理由など預かり知らぬことだろう。
「でも、ある意味、先輩が泣かせたんですよ」
「うるせー! お前が勝手に泣いたんだよ!」
「っぷ、あはははは」
なんだこれ、楽しい。私も今、沢村くんや御幸くんみたいに倉持先輩とじゃれ合えてるのかな。
◇◇◇
「お前、そもそも最初なんで泣いてたんだよ?」
苗字が涙を浮かべながらも笑っているので俺はとりあえず安心して、沢村がクリス先輩に呼ばれて戻って行った後、最初に気がかりだったことを尋ねた。
「ああ、それも倉持先輩のせい、ともいえるかもしれません」
「ふざけんな、なんもしてねーよ」
意味分かんねー。そもそも今日はこれが初めての会話だ。
「はい。そうですね。つまり倉持先輩は私を幸せにする才能に溢れてるってことですよ」
何か吹っ切れたように良い笑顔で苗字はそう言うが、ますます意味が分からない。
「わけ分かんねぇ。つかそんな才能いらねーわ」
「私は倉持先輩をときめかせる才能とか欲しいですーまあいざとなったら誘惑しますけど」
「は、はぁあ!? 何言ってんだおま、」
コイツは本当に、どこまで本気でこんなことを言ってくるんだ。馬鹿の考えてる事は分かんねぇ。
「それがいやだったら私以外の女に色目使わないでくださいよ?」
「…」
流し目と共にそんな小っ恥ずかしい台詞、今までに言われたことがなくて絶句してしまう。そしてそんな俺の顔を興味深そうに、嬉しそうに覗き込んでくる苗字。くそ、なんか一杯食わされたみてぇで悔しい。
「……」
「……」
いや、そんなに無言で見つめられてもよぉ。っつーかコイツの後ろに激しく揺れるシッポまで見える気がする。何がそんなに嬉しいんだよ。遠慮なく顔を覗き込んでくるので必然的に俺は仰け反る体勢になっている。横から見たらその光景は顕著だろう。その時。
「こらこら、何見つめ合っちゃってるのさ」
「りょ、亮さん!」
「君、練習の邪魔だよ。ハウス」
「あイタっ! …わ、ワン!」
亮さんが近づいてきてチョップをお見舞いされた苗字は反射的に頭を押さえつつも亮さんの顔を見ると二つ返事で「ハウス」の命令に従って走り去った。マジかあいつ。
「……今、あの子『ワン』って言ったか?」
亮さんと一緒に近くに来ていた純さんや他の先輩達も呆然と彼女を見送っている。
「亮さんいつの間にあんな打ち合わせを?」
「いや、何も? ていうか初対面だし。それにしても躾がいがありそうなワンコが入ってきたねぇ」
マジかよ。亮さんに何かを感じ取ったのか? 本能か? ノリが良いというより、もはや条件反射に近かったなアレは。思わず亮さんに躾られる苗字を想像してしまいげんなりしてしまった。
「やめろ亮介! お前が言うとシャレになんねえ」
そう言って怒鳴る純さんにこっそり同意した。亮さんの恐ろしさを再確認してしまったところで練習が再開される。