一年生 回想 いち


イルギュラーになった私


 私は、何の変哲もないごく普通のどこにでもいるような女の子───だと思っていた。あの日までは。

 私が前世らしきものの記憶を取り戻したのは、あの日───青道高校に入学した日だった。
 前世の世界では高校球児である沢村栄純が主人公の物語を描いた漫画であり二次元のはずだったこの世界に、私は恐らくモブとして生まれたのだ。そして高校の入学式まではごく普通で人並みの、涙有り笑い有りの人生を過ごしてきた。私は自分が特別だなんて思ったことなんて無かった。成績は悪くない。運動神経も悪くないけど体力は無い。誰にも負けないような特技も無い。両親健在で、友達はたくさんいて、容姿は中の上。少し惚れっぽいのと、英数理の成績は良いのにアホっぽいのが玉にきずな、どこにでもいる女の子───の、はずだった。
 四月九日、青道高校の入学式。この日、新一年生として教室へ入り、ある男子と目が合った瞬間、雷に打たれたような衝撃が私を襲った。雪崩込んでくるように再生される物語の記憶。これ、知っている。私が自分で読んでこの目に映したものだ。アニメも見た。覚えている。試合後のシーンで泣いたのも、随所で腹が捩れるぐらい笑ったのも。この物語のことだけ鮮明に思い出した。そうか、この世界は───。
 その後に倒れたそうで、目が覚めた時私は保健室のベッドに横たえられていた。

「ここ、あの物語の世界だったんだ……」

 倒れる直前に目が合った男子は紛うことなき沢村栄純その人だった。あの癖っ毛、あの猫目、あの整った馬鹿面、間違いない。何故こんなことが起こったのか、だけど何故私なのか、さっぱり分からない。けれど、そうして原作知識を得てしまった私は多分この世界で唯一の未来を知る者になってしまったのだ。そう考えれば怖気が走った。突然身に余る力を手にしてしまったかのような、この手に起爆済みの核爆弾を手にしてしまったかのような恐怖と焦燥感が湧き上がり、吐き気を催した。

「……はぁ、はぁ、」

 ……ベッド脇にゴミ箱が有って良かった。

 それからしばらく保健室で休んで何とか持ち治してチャイムと同時に教室に戻ったら、誰も居なかった。隣の教室も、その隣の教室も静寂に包まれている様子から状況が呑み込めない。階ごともぬけの殻だった。これは今、何の時間だろうか。みんなはどこ? 私は一つ思いついて体育館へ足を運んだが、入学式は既に終わってしまったようで、これまた人っ子一人いなかった。

「そうか、入学式だから早く帰ったのか」

 どうやらもう終礼も終わったらしい。どうしようか。沢村には明日謝るとして、とりあえず野球部見に行ってみようかな。そんな軽い気持ちで足を向けたのだが、この後人生をひっくり返すほどの衝撃が身に降りかかるとは思ってもみなかった。

 学校から少し離れた球場で、野球部の練習はやはり行われていた。近づくほどに球児達の掛け声は大きく聞こえてくる。それにつれて、胸はますます高鳴っていった。確かに私は期待していた。あの人に会えることを。あの物語で一番好きなキャラクターに、この世界の一人となった私として、相対することが出来ることを。

「ヒァッハー」

 そしてその特徴的な笑い声を耳が拾って素早く判別した直後、この目がその姿を捉えた。

「うそ…ほんとうに、倉持が居る…」

 野球部二年、ポジション遊撃手、倉持洋一。青道が誇るリードオフマン、後の通称チーター様。沢村栄純と同室。元ヤン。前世では確か野球をしている彼を見て最初に「いいな」って思った。沢村が「チーター様」なんて持て囃すシーンまで含めて彼が塁上にいる間は目が離せなくてお気に入りだった。私の目には、倉持洋一が高校球児の中で一番かっこよく見えたのだ。

「やっぱり…一番、かっこいい」

 一目惚れをした。これを一目惚れと呼ぶのかどうかは分からない。何故なら私は彼に会う前から一方的に彼についての情報を知っていたからだ。人はDNAで恋するらしい。だからこそ目にしただけで相手をよく知らずとも魅了されてしまう。しかし私は彼のことを知っていた。今こうして同じ空間に存在して得られる情報よりも恐らく多くの情報を持っていたはずだ。それでも、今ここでしか感じ取れない何かがあった。いや、一目惚れかどうかは問題ではない。私は正真正銘、倉持洋一に恋心を抱いてしまったのだ。
 気付いたら涙が溢れていた。次から次へと滂沱として。それを止めようなんて思いもしなかった。これは様々な感情が混じり合って器から溢れてしまった産物なのだから、止めることはない。そのまま吐き出してしまう方が良いのだから。でも、そうもいかなかった。

「ね…ねぇ、あなた大丈夫? どうしたの?」

 涙を流しながらも拭うことなく立ち尽くしていた私を気にとめたのか、貴子先輩が私に近寄ってきて声をかけた。よく考えてみれば、ここは人目につく場所だ。女の子が泣き顔を衆目に晒すのは外聞が良くないかもしれない。なにより既に心配をかけてしまっているようだ。

「だい…っ、大丈、夫、です…」

 喉がしゃくりあげて上手く声が出せなかった。

「だい…じょうぶです…っから、」
「…、これ良かったら使って」

 貴子先輩はそう言って懐からハンカチを取り出した。パステルカラーの上品な柄で、いい匂いがしそうなハンカチだ。しばしそれを見つめ、そこでようやく涙を拭うという選択肢が浮上したのだった。

「っいえ! 自分のが…ひっく、ありますから…!」

 そう言って首を横に振れば、貴子先輩は「そう」と言ってハンカチを懐へ戻した。せっかくの親切心を無碍にしてしまったのは心苦しいが、あんな可憐なハンカチを汚すわけにはいかない。

「…」

 それでも、今のこんな見苦しい顔を万が一にでも倉持先輩に見られたくはない。そう思い至ったので顔を洗って来ようと貴子先輩に一礼して踵を返し、私はその場を離れた。

 運良く誰にも見られずに水場に辿り着き、顔を洗って一呼吸入れる。まだ心の中は整理出来ていなくて、まるで嵐の海のよう。客観的に捉えれば、しょうがないことだと思う。朝イチで前世の記憶を手に入れ気絶し、半日寝台の上で寝て、起きて嘔吐し、外へ出てみれば前世で大好きだった人物が目と鼻の先に存在していることを確認したのだから。


「片岡監督! 私、野球部に入部します!」

 涙を洗い流し、気持ちを新たにさっきのグラウンドへ戻った私は、ボスこと片岡鉄心監督がグラウンドで指示を飛ばしているのを見て、気付いたら大声で盛大に入部宣言していた。

「選手達がグラウンドで輝けるように、日々のみんなの努力が報われるように、力になります! そして一番近くで応援したいです!」

 緊張しながら返事を待つ。

「そうか。では、入部届を提出しに来なさい」

お許しが出た瞬間、緊張の糸が緩んで体の力が抜けた。片岡監督は私を不審がるでもなく窘めるでもなく、受け入れてくれた。そう、この人はこういう人だよね。明日から頑張ろう。いや、今日から頑張ろう。

 私はその日のうちに入部届を提出した。


◇◇◇

 練習中、監督に入部宣言している女子がいた。「ははっ、何だあの子」と野次を飛ばす大人もいれば、練習の見学に来ていたのかクスクスと笑う学生もいた。でも彼女は笑いものになろうと何人に奇異の目を向けられようと、監督から目を逸らさなかった。

「ヒャハッ。なんか面白い奴が入ってきそうッスね、亮さん」

 監督が場を収めた後、腰を抜かしている彼女をなんとなく眺めていると、倉持がそう言った。

「そうだねぇ」

 まあ、マネージャーは何人居ても困らないから大歓迎だけど。……ん? こっち見てる? 俺じゃない……倉持か……。へえ。まあ、練習の邪魔するような子じゃなきゃいいけど。そう思いながらも、知らず知らずのうちに口角が上がっていた。





 4 
Top