一年生 回想 に


戦いのはじまり



 春大が始まった。私は応援を拒否して居残りする沢村くんを気にしつつ、それからお手洗に行って出発までに戻れなかった降谷くんに苦笑いしながらも、みんなと一緒にバスで移動している。全ては───。

「倉持先輩の応援を力いっぱいするために!」

 私は声高らかに全力で応援した。青道側のスタンドが若干どよめくぐらい声を出した。

「…あのよ、お前さ!」

 守備が終わり、交代のタイミングで倉持先輩が応援席の誰かに向かってそう声をかけた。一体誰だ、試合中の倉持先輩に声をかけてもらえるなんて羨ましい輩は! まさか女子か!? 女子なら泣かす!

「お前だお前! そこの新米マネージャー!」

 目を皿のようにしてキョロキョロしていると倉持先輩がそう言った。視線を向けるとバッチリと目が合った。……私だった。

「空気読めや! 周りと声を合わせろ!」

 目が合ったことに胸をときめかせようとした私を窘めるように倉持先輩はそう憤慨した。打席に立っていない時も塁上にいない時も守備で活躍したわけでもない時も構わず倉持先輩がグラウンドにいる限り絶え間なく倉持先輩だけに声援を送り続けていたことにご立腹の様子。精一杯応援したつもりなのだが、ご本人様から反感を買ってしまい、ガーンと効果音が付きそうなほど落ち込んだ。そして今の会話が記念すべき倉持洋一との初めての会話だということに気付き、更に落ち込んだ。


 それなりに反省してそれからは大人しくしていた春大で青道が敗退した次の日、レギュラー陣を除いた二三年生と一年生の試合が行われた。

「うわあ、大人の人いっぱいいる〜。紅白戦? 親善試合かな?」
「そんな甘いとこじゃないでしょ、青道ここは。背番号の奪い合い、潰し合いだよ」
「へ…?」

 ワクワクしている春乃の予想とは違って一波乱も二波乱もあるこの試合、二三年生はなりふり構わず一年生を徹底的に押さえつけようとする。そして私は別の意味でワクワクしているのだ。密かに一番楽しみなのは、はるっちこと小湊春市の一番の名台詞、「代打、オレ!」。

「フフフフフ」
「た、楽しそうだね、名前ちゃん」
「プレイボール」

 今、監督の一声で始まったこの試合が沢村栄純の運命を切り拓く。私の脳内ナレーションは絶好調で、自分でも不思議なほどワクワクしていた。

「ひぇっ」

 監督の判断でエースナンバーを剥奪されたとはいえ、現時点で青道のエースはこの人。その丹波さんの縦スラにビビりまくる一年生達。打席で腰を抜かしていてみっともないったらない。あっという間に終わった表の攻撃。しかし今度は先発の東条くんが可哀相なほど打ち込まれ、永遠に続くかと危惧された二三年生の攻撃にようやく区切りが付いた頃には守備についていたみんな虫の息だった。
回が進む毎に点差はどんどん開いていき、まだ三回なのに十点差。

「あら〜」
「ま、こうなるか」

 分かっていたけどあまりに悲惨な結果に思わず声を漏らした私とは対照的に、幸先輩は予想通りというふうに言ってのけた。

「あ、沢村くんが…」

 チームを元気づける沢村の姿を見て表情を明るくする春乃、可愛い。本人は「キターーーーッ! ついにこの時がキターーーーッ!」と喧しいけれど。残念、君は外野なんだけどね。あーあー、嬉しそうにマウンドに向かっちゃって。

「どこへ行く。お前はライトだ」

 監督の辛辣な指示に間抜け面で固まる沢村栄純。可哀相に。監督もいけずだよねぇ。昨夜風呂場で話した流れ的にマウンドに立たせてくれるって、そりゃあ思うだろうに。

「青道で万歳するやつ初めて見たぞ」

 マウンドに立った金田も初っ端から打ち込まれ、ライトフライの打球は見事なジャンピング万歳を披露する沢村の頭上を越えた。

「軟式より硬式の方が飛距離伸びるんだって。沢村くんは中学で軟式だったらしいから、多めに見てあげて、春乃」
「え、なんで私?」
「いやあ、あんな沢村くん見てがっかりしないように」
「がっかりなんてしないよ! だって沢村くんは一生懸命プレイしてるもの!」
「……」

 ま、眩しい……! なんだ、この良い子の権化は?
 そんな春乃の純真無垢さに怯んでいるうちに、沢村くんの投げたボールの軌道が逸れてランナーに当たって場がまたもや騒然となった。おっと、見逃してしまった。でも端の方で、御幸一也は腹を抱えて笑っている。ギャラリーもみんな笑っている。今や沢村栄純は笑い物だ。ちらりと横目で窺うと、春乃はそれでも「沢村くん……」とめげずに信じきった目を向けている。

「……」

 ここまで真摯に他人を応援出来るのってすごいな、と素直に感心───いや、もはや感服してしまい溜め息が漏れ出た。

 そして終わりが見えない四回裏の二三年生の攻撃。へとへとの一年生を見かねてか、時間の無駄と判断したのか、監督は一年生ピッチャー交代を宣言。マウンドに立ったのは噂のこの男。

「おおー、これが降谷暁の豪速球か」

 私は思わずそう呟いた。なるほど、確かにこんな凄い唸りをあげる球筋、今まで間近で見たことないや。キャッチャーは怯えきって使い物にならなくなってしまっているし、敵味方関係なく瞠目している。

「なるほど、強者故の孤独ってやつか」
「え?」
「ううん。なんか感慨深くて」
「か、感慨深い…? なんか名前ちゃんって変わってるよね」
「…そうかもね。それに比べて春乃はほんといい子だよね」
「え? そ、そうかな?」

 うんうん、春乃はずっとその純粋なままでいてね。

「合格だ、降谷」

 キレがあり過ぎて浮き上がった豪速球にマスクを弾き飛ばされた監督はあっさりと一軍入りを言い渡し、降谷暁のターンは終了した。
 それと同時にレギュラー復帰を許可された丹波さんの代わりにノリがマウンドに立ち、宮内先輩がキャッチャー。このバッテリーを見るとどうしてもあのシーンが頭を過ぎってしまう私。それを振り払おうとブンブンと頭を振った。

「名前ちゃん! 沢村くんの番だよ!」

 打席に立つのは威勢だけはいい沢村栄純。
 ツーストライクからの三球目。ノリの気合いの入った球を宮内先輩が逸らし、振り逃げで一塁を駆け抜ける沢村は見事セーフ。

「おおー」

 どよめく歓声の中に混じる一年生チームの動揺の声。さっきのはるっちの一声は私達にも聞こえてきた。くるぞくるぞ。

「すみません、メンバーチェンジお願いします」
「キターーーッ!」

 思わず声を上げた。

「代打、オレ!」
「あはははは、『代打、オレ!』だって! これをネタに一年間は揶揄えるわ!」
「名前ちゃん、応援しようよ…」

 完全に傍観して試合を楽しんでいる私を春乃が見かねたように窘めた。おっと、素が出てしまった。
 初球を見事狙い撃ちしたはるっちの打球はライト線を抜け、スタートをきっていた沢村はホームに向かって突っ走った。判定は───。

「セーフ」
「やったーー! ホントに二人で一点取っちゃった!」

 抱き着いてくる春乃が喜ぶ声を耳半分で聞きながら、何かに打ちひしがれていた。入学式の日から、今日まで、そして今この瞬間までのこの試合の内容全て、私が知っている物語と同じなのだ。何一つ違えることなく、まるで歯車が噛み合って確実に回るように。何かとてつもない整合性を見せ付けられたように、私は自分が取るに足らない存在なのだと理解させられたようだった。

「両チーム整列!」

 沢村が点を取った後あっさりとスリーアウトになり、監督はそう叫んだ。しかし戦意喪失してしまっていた一年生は沢村に腹を立てた勢いで監督に直談判し、試合は再開される。

「小僧、この回から投手はお前だ。さっさとマウンドに行け」

 それからも私はその後の試合の成り行きを見守───ろうとしたのだが。

「おいおい、なんじゃこりゃあ! 一年相手になんじゃあこの試合はぁ!」
「っ!」

 純さんの突然の怒声にビビって体を揺らした春乃を抱きつかれた腕で感じながら、私はそれどころではなかった。なんたって、純さんや結城先輩や亮さんと一緒に倉持先輩が現れたのだから。いや、勿論知ってたよ? でもちょっと油断してたっていうか。え、私今変じゃないかな?

「あんた、どうした?」

 髪型を気にしたりして急にあからさまにそわそわしだした私を訝しんで、幸先輩が顔を覗きこんでくる。

「なっ、なんでもないですよ!」

 視線を逸らして取り乱しながらもやっぱり倉持先輩を一時も見逃したくなくて視線はそちらにいってしまう。それが良くなかったのか、幸先輩はしたり顔でこう言った。

「……ふーん、やっぱあんた倉持が好きなわけ?」
「なっ…! なっ、なんで…!?」
「図星かよ! 分かりやすいなー。大会でも倉持ばっか応援してたもんなぁ」
「……」

 恥ずかしくて顔が熱い。でもこの想いは全然恥ずかしくない。倉持洋一が世界で一番好きだ。彼の為ならなんでも出来るし、なんにでもなれる、そう思う。

「…好きですよ。世界一好きです。倉持先輩のためならなんだってやりますよ私。だからこそ、私はマネージャーになったんです」
「あんた…」
「いけませんか? 不純な動機ですか? でも、青道野球部のファンでもあるんですよ私は。野球部の力になってみせます。野球部ここにいさせてください!」

 まずこの先輩達に認めてもらうことだ。けじめとして私は誠意がしっかり伝わるように頭を下げた。

「名前ちゃん…」
「私は厳しいわよ? ついてこれる?」

 貴子先輩の声に顔を上げると、三人の先輩達が笑ってこちらを見ている。

「はい! ご指導ご鞭撻、宜しくお願いします!」

 私が晴れてマネージャーの一員と認められたその後、沢村栄純がマウンドに立った試合は二三年生の追加点を抑えつつも惜しくも一年生の負けとなったが、沢村とはるっちはしっかりと爪痕を残したのだった。

 しかし沢村栄純がこの先歩む道は険しいものになる。並の根性では途中で心折れてしまうことが何度もあるだろう。毎日の体力作りだって、決して楽しいものではない。沢村は笑いながら走ってるけどね。でもなんだか私まで応援したくなって毎日タイヤを沢村に運んであげた。彼はそれを一度も嫌がることなく、感謝してくるのだ。流石の負けず嫌い。本当に感心する。そして私はいつしか沢村のタイヤ係と成り果てていた。

 そしてある日の部活終わりのこと。春乃に沢村がどこか尋ねられた。

「え? なんで?」
「これを沢村くんに渡すように頼まれて…」
「あー! はいはい、巻物ね。いってらっしゃい」

 春乃の手にある巻物を見てピンとくる。語尾にハートを付けて送り出してあげた。クリス先輩のスペシャルメニューだ。まずは体作り。基本である。そしてそれを嫌がり実践練習をしたがる身の程知らずは世の常。でも沢村はランニングを嬉々としてやっているし、筋トレを軽んじることはないと思うけど。よほどの馬鹿でなければ。……あ、アイツはそれほどの馬鹿だったわ。

 次の日。いつも通りタイヤを沢村に届けると、彼は大層ご立腹であらせられた。

「あーー…、クリス先輩?」

 今、彼がまさに腹を立てている相手であろう名前を当てると、彼はこちらをギンと睨みつけてきて思わず肩が揺れた。

「苗字、アイツのこと知ってるのか?」
「…沢村くんってさ、年上を敬う精神を持ち合わせてないよね。こわ〜いおじいさんに教わらなかったの?」
「な、なんでじいちゃんが怖いって知ってんだ!?」
「…んー、女の勘?」
「女って怖ぇのな。…じゃなくて! アイツ! 俺をおちょくってやがるんだ!」
「あー…まあ、先輩には先輩の事情があるだろうし、沢村くんのことを考えたオリジナルメニューなんだろうから、続けて損はないと思うよ?」
「……」

 やはりどうしても腑に落ちない、という顔をしている沢村くん。そんな中、「お疲れ様です!」という多数の声に振り向けばクリス先輩が練習を終えてグラウンドを後にしていた。と同時に唸り声が近くから聞こえて見やれば沢村くんは遠くのクリス先輩を睨みつけて猫目で文字通り唸っていた。私はどうしたものかと呆れたように軽く溜め息を一つ。

「沢村くんが知ってるクリス先輩は確かにクリス先輩だけど、二年生の先輩達にとっては尊敬出来る先輩なんだよ」
「え…?」

 不思議そうに聞き返してくるから、クリス先輩に頭を下げて挨拶する二年生達を「ほら」と顎で示す。きっと長い時間を共にしてきた彼らだからこそ、挨拶一つにも態度や敬意がそのまま現れる。それを少しでもこの男が感じ取ってくれればいいのだけれど。

「クリス先輩は寮で生活してるでしょ。でもいつも、部活を定時で切り上げて向かう先は寮じゃない。金丸くんが、クリス先輩は遅くに戻ってくるって言ってた」
「え…じゃあどこに?」
「さあね。まあ、クリス先輩がこの部活で築いてきたものを、軽んじないようにした方がいいよ。これは私からの忠告」

 ふわっと遠回しに言うつもりだったけれど丁寧に説明し過ぎたかもしれない。でも沢村くんは馬鹿だから丁度良いかな。まずはこれで彼がどう動くか、様子見だ。これは実験。私のこの一言が物語を変えるのかどうか、そしてどの程度の波紋を生み出すのかどうか。それは私の存在意義の一つを見極める為に必要なことだ。

「おーい!」

 そこへはるっちが新しい巻物を持ってやってきた。

「これ、新しいメニューだってさ」
「はあああああ゛!?」

 再度キレ散らかして巻物をスローする沢村くんにはるっちが明後日の関東大会の話を切り出した。関東大会……か。あんまり勝ち上がった記憶は無いなぁ。どうだったっけ。

 そして二日後、関東大会一回戦。後半に入って先発の丹波さんが打ち込まれ点差が拓き、降谷くんがリリーフとしてマウンドへ上がった。だが───。

「一回戦敗退かあ」

 まあ、本番は夏だけど、こんなんで本当に間に合うのかな?

 二軍で沢村が扱かれまくる中、実験の結果はいつの間にか出ていたようで、沢村くんがクリス先輩を追い回す反面、御幸くんを避けまくっていることに気付いた。

「沢村くん、もしかして、御幸くんをキレさせちゃったりとかした?」

 私の問いにギクリという風に肩を揺らした。

「あー…そっか。まあ君達なら、今に仲直り出来るよ」

 適当に励ましてその場をやり過ごした。

「…はぁー」

 そこまで期待はしていなかった。ただ、ほんの些細な違いならあるかもって。でもまだ腕試し。勝負はこれからだ。






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