残り香に誘われるがままに

ボク自身よく知る匂いは、鉄の臭いと雨の匂い。
何気ない日常はボクにとっては、特別な匂いが優しく纏う。


なんとなく、理由がなかった。
まぁ、理由としては至ってシンプル。貰ったからである。

この世界についてからは初めてのことではあるが、胸が踊ることなんて思いもしなかった。

鼻唄を歌いながら、使うべき時間を楽しみにしていた。
そんなところに、男は声をかける。



「〜♪」
「なんだ。リン。やけに機嫌がいいじゃねェか。」



煙草の煙を燻らせて、ジョーカーは問いかけた。
いや、こればかりはボク自身のことなので無関係なんだけど。



「え、いやー‥‥。別にあんたには関係ないです。」
「つれねェこと言うなよ。」

「いや、ホントに!関係ないことだから!」



別に隠したいわけではない。だって、本当に彼に無関係だから。
そういって、そのままシャワー室にとまっすぐ向かった。

手にもっているのはシャンプーの試供品。ふらりと街中を歩いていたら貰った。
日のあたる世界なら、こういったことは何事もない日常であるだろう。

だが、暗闇の世界にいたボクにとっては、何事もない日常は替えがたい特別なことだ。
本当の意味で微笑んではくれないのは知っている。
仮初めだとしても、ささやかな日常を喜ばしく思えればよいと。


暖かいお湯を身体に浴びながら、試しにと手に取る。
ふわりと優しく甘い香り。こういう香りはこの世界から来て好ましく思っていたためアタリだなんて思う。

匂いを身体に纏うなんて、地下の世界では考えられない事だったが日のあたる世界ではこういうことは普通なんだなって改めて思う。
上機嫌になり、鼻唄を歌いながら身体を清めた。
水気を拭き取り、ラフな格好に着替えれば扉を開けて戻る。



「ふぅ、さっぱり。」



シャワーからあがって濡れた髪をタオルで拭き取る。
しっとりした髪の具合もとてもよくて、髪先までとてもよかった。

手触りもいい、実際買ってみて使ってみようと考え事をすると、ジョーカーから声がかかる。
少しだけ反応に遅れた。



「‥‥ん?リン。」
「はい?‥‥‥?!」



くるりと振り向けば、ジョーカーが背後に立っていて事もあろうことか抱きついてきた。
反応に遅れたために驚いたが声もでない。

まだ髪は湿っているからと引き剥がそうとするが一行に離れてくれなかった。



「っ?!ちょ、なに、して‥‥っ!!」
「匂いが違ェな。」



顔を近づけられてはすん、と髪を嗅がれた。
ジョーカーにはふわりとした甘い匂いが仄かに香る。
少し距離を離していただけなのに、なんでわかったのかとボクは思わず驚いた。



「‥シャンプーが違ェのか。」
「っ!た、たまたま、試供品で貰ったのよ‥!1回だけ試しに使うのもいい、かな、って‥‥‥。」



別に悪いことしてもないから仕方無しに白状したが、すんすんと嗅いでは一向に離れようとはしない。
流石に困ると声をあげたが、ニヤリと笑ったような気がした。

‥少し、ざわっとした感覚を覚えた。



「あ、あの?そろそろ離れて‥‥。」
「甘ェな。」



かぷり、と何故か首筋を甘噛みする。
思わず『ひっ!』と声をあげてしまってはどんっと肘打ちした。

食べ物かなにかを勘違いしたのかと少し怒気を含めて反論したが未だに離してくれない。



「あのね、ボク食べ物じゃないんです!」
「この甘ェ匂い。俺にとっちゃ十分食後のデザートだろ?」

「ひっ‥‥!?離れてヘンタイっ。」



ニヤニヤと笑みを浮かべてかぷりと甘噛みした男は今度は指先でなぞる。
そこはじんわりと、鬱血痕が残されていた。

だがその鬱血痕は彼女の視線にはギリギリ入らない。
これに気付くのは、この後鏡をみてからである。





残り香に誘われるがままに
(ねぇ!なんで痕ついてんの!?)
(そりゃ、俺のものだって付けたからだろ?)
(ここ隠せないんだけど!!もう、ばかっ!!)